剣を振れないなら騎士になれないと言われましたが、俺はそれでも剣を握る
ヨムヨム
第1話 振れない剣
その日、村の空気は、いつもと少しだけ違っていた。
麦畑を抜ける風が乾いていた。
夕陽に照らされた土の道は赤く染まり、遠くの森の影が長く伸びていた。
レオンは、家の前で藁束を運ぶ手を止めた。
地響きがした。
ゴゥン、と、地面の下を拳で殴ったような鈍い振動。
続いて、遠くから 牛の鳴き声とは違う、濁った獣声 が響いた。
「……魔物が、出たぞォォッ!」
叫びが上がる。
村人たちが一斉に戸を閉ざし、子どもを家へ引きずり込む。
村からつながる野原の向こう、森の入口。
そこから、灰色の狼型魔物が、まるで溢れる泥のようにゆっくりと森から這い出してくるのが見えた。
涎を垂らし、目は光を帯びて血走っている。
群れの一頭が牙をむいた瞬間、周囲の草むらが風もないのに一斉にざわめいた。
レオンは、体よりも先に胸の奥が熱くなるのを感じた。
「レオン! 危ない、戻ってきなさい!」
誰かの声――母の叫びだ。
それでも、レオンの足は止まらなかった。
怖い。
だけど、“あの奥で何かが始まる”気がしてならなかった。
☆
騎士は肩口を魔物の爪で裂かれ、鎧の隙間から赤黒い血が染み出していた。
しかし、その瞳は妙に落ち着いていた。剣を構えているわけでもなく、ただ周囲の状況を測るように、風の流れや地面の傾斜に視線を走らせている。
その横顔に、レオンは目を奪われて動けなくなった。
騎士が、ふとこちらに気づく。
彼は眉をわずかに寄せ――息を整えた後で、初めてレオンに言葉を向けた。
「……少年。聞こえるか」
声は低かったが、不思議と耳の奥にずしりと届く。
「今すぐ家に戻れ。扉を閉めて、閂をかけろ」
レオンは何か言おうとしたが、言葉にならない。
騎士はこちらを一瞥してから、少しだけ表情を緩めた。
「……怖いか?」
レオンは、正直に頷いた。
騎士はほんの一瞬だけ目を細める。痛みのせいではない。
「怖いなら逃げろ。だが――」
そこで言葉が切れた。
魔物の唸り声が再び森の奥から響く。地面が震える。
騎士は正面を向き直しながら、背中越しに、たった一言だけを落とした。
「逃げる場所を、俺が残す。それが、俺の役目だ。行け!村まで走るんだ!」
その瞬間――レオンの胸の奥で、何かが決定的に形を持った。
“ああ、この人を――騎士様と呼ぶんだ”
☆
夜が来た。
村の家々は灯を落とし、藁葺き屋根の隙間から漏れる明かりも、ひとつ、またひとつと消えていく。
昼間の騒ぎは嘘のように静かだった。
しかしレオンの胸の奥だけが、まだざわざわと熱を持っている。
布団には入っている。
けれど、眠れる気はしなかった。
――“逃げる場所を、俺が残す。それが、俺の役目だ”
あの騎士の言葉が、何度も脳裏で繰り返される。
胸の中で響くたびに、息が浅くなる。
レオンは、布団の端を握りしめた。
……耐えきれず、静かに起き上がる。
床板が軋まないように、つま先でそっと歩く。
裏庭へ回ると、夜露を含んだ草の匂いが鼻をくすぐった。
虫の声が規則的に鳴り、遠くでフクロウが短く鳴く。
レオンは、地面に落ちていた木の枝を拾った。
軽い。
けれど、それを握った瞬間――なぜか、腕が震えた。
恐怖ではない。
何かを“始めなければならない”という予感。
「…………っ」
深く、息を吸う。
そして、真似事のような素振りをひとつ、振った。
ヒュッ。
風を切る音がした。
小さな音だったが、レオンの胸には鋭い痛みのような熱を残した。
もう一度。
今度は腰を落とし、足を開き、騎士が踏み込んだ姿を思い出しながら。
――ギィ……ギギッ……(鎧の音)
脳裏に、あの音が蘇った。
土を踏む重さ。盾を構える揺るがない背。
レオンは、食いしばるようにして剣を振った。
ヒュンッ!
空気が、ほんの少し、震えた。
木の枝の先が揺れ、手のひらに痛みが走る。
「……っ……く……」
声が漏れる。
だが、枝を握る手は離れない。
もう一度。もう一度。
腕が痺れても、呼吸が乱れても。
レオンは、子どもにしては不自然なほど長く、ただ真っ直ぐに剣を振り続けた。
夜露が落ち、少年の髪を濡らす。
吐く息は白く、胸の鼓動はいつまでも落ち着かない。
それでも、レオンは止まらなかった。
「……俺も……」
「……騎士様みたいに……なれるように……」
最初の**「剣を振る音」**は、その夜、誰にも聞かれなかった。
☆
――ヒュッ。
夜気を裂く音が、藁葺き屋根の影に小さく響いた。
レオンは、拾った木の枝を何度も振り下ろしていた。
腕は震え、呼吸は荒い。それでも止められない。
「……俺も……騎士様みたいに……」
――その瞬間。
ザリ、と足音がした。
レオンは驚いて振り向き、木の枝を思わず構えた。
月明かりの中――騎士様が立っていた。
昼間と違い、鎧の一部が外され、鎧下の布は血でまだ濡れている。
それでも背筋は伸び、無駄な力が入っていない。
「……夜は冷える。風邪を引くぞ」
声は淡々としていた。
叱るでもなく、咎めるでもなく――ただ、事実だけを告げるように。
レオンは慌てて枝を下ろし、頭を下げた。
「……あの、ぼ、僕……」
言い訳より前に、胸の内が熱くなって、言葉にならない。
騎士は、一歩だけ近づく。
月明かりに照らされ、その瞳は穏やかだが、どこか遠い戦場の光を宿している。
「……剣を、振りたいのか」
レオンは息を呑み、こくりと頷いた。
騎士はそれを見て、腰の荷物袋から一本の木剣を取り出した。
それは村では見たことのない、鍛錬用の、しかし丁寧に作られた木剣だった。
「枝では、手を痛める。……使え」
差し出された木剣は重く――だが、手に吸い付くように馴染む。
レオンは両手で木剣を受け取り、胸の前で抱きしめた。
言葉が、出ない。
騎士はしばらくレオンの握り方を見て、何も言わず、静かに後ろへ回る。
――そして、淡々と姿勢を正した。
「剣を振るなら、まず立て。背を伸ばす。地を掴む。……呼吸を止めるな」
言葉は簡潔で、教本のような綺麗さは一切ない。
だが、ひとつひとつの言葉が――血を流した者の重みを帯びていた。
「剣はな」
そこだけ、声の調子がほんのわずかに変わった。
「……勝つためだけに握ると、いつか折れる」
「守るために握れば――折れても、立てる」
その一言を言った瞬間だけ、騎士の視線は遠くを見ていた。
まるで、かつて守れなかった誰かを思い出すように。
だからこそ、レオンは理解した。
この人は、ただ“強い”だけではない。
守れなかった痛みを知っているから、剣を握っている。
胸の奥が、熱いだけでなく、痛くなった。
「……はい」
レオンの返事は震えていたが、その目だけは、真直ぐだった。
騎士はそれを一瞥し、短く頷いて背を向ける。
「続けろ。……今のままじゃ、魔物一匹も斬れん」
そう言い残し、ゆっくりと歩いて行く――
だが 背中は完全には離れず、一定の距離からレオンの素振りを静かに見守り続けた。
その夜、レオンは――
「騎士のように誰かを守るために剣を振りたい」と、初めて自覚した。
☆
それからのレオンの日々は、静かで、狂気じみていた。
村では、誰もがレオンを「真面目な子」程度にしか見ていなかった。
ただ毎朝早く起きて、木剣を握り、ひたすら素振りをしているだけの少年。
10歳を超えた頃から、その素振りは村の誰も真似できない速度と精度を帯び始める。
だが、誰もそれを“天才”だとは認識しなかった。
「あの子はまあ、剣が好きなんだろうよ」
村の大人たちはそう笑い、木剣を握り続ける少年を気まぐれな遊び程度にしか見ていなかった。
レオン自身も、自分が特別だとは思っていなかった。
剣は“努力によって鋭くなるもの”だと信じていた。
朝、素振り。
昼、畑の手伝いの合間に片手で木剣。
夜、日が落ちてから人目を避けて素振り。
その速度は日に日に増していき、
12歳になる頃には――木剣を振った際の風圧で、草が横へ倒れるほどになっていた。
だが、レオンには――自分の成長が“常軌を逸し始めている”ことに気づく視点はなかった。
☆
12歳の誕生日の夜。
家の灯が落ち、村は闇に沈む。
母がレオンの布団を正しながら、いつもとは違う声色で話しかけた。
「レオン。……これから、変な夢を見るかもしれないよ」
「夢?」
母は少し言葉を選ぶようにして、静かに頷く。
「この国ではね、12歳になる子は、みんな“世界から祝福をもらう”の。夢の中でね。……それが、スキル。それでね、朝起きても誰にも夢のことを話したらだめよ」
「スキルは……教えないの?」
少し沈黙があり、母は微妙に困ったように笑った。
「……スキルはね、12歳になった本人だけのもの。
それを聞こうとする人にね、昔……悪いことをした人たちがいたの」
誘拐。人身売買。
“強いスキル持ちは財産だ”という時代が、確かにあった。
だからこの国では、スキルを他人に問うことは禁忌とされている。
親ですら、子がどんなスキルを宿したか、尋ねることはしない。
レオンは、それを普通に――自然に、受け入れた。
「……わかった。誰に聞かれても言わない」
母は少し目を見開き、それから安心したようにレオンの頭に手を置いた。
「……うん。さすが、レオン」
その温もりを感じたまま、レオンはゆっくりと目を閉じた。
☆
――夢を、見た。
深く、静かな場所。
音がない。風がない。色すら存在しない“空白の世界”。
そこに一本だけ――剣があった。
鞘に収まり、抜かれることのない剣。
レオンが近づくと、世界そのものがわずかに震えた。
まるで、“触れる前から反応する”かのように。
剣は、ただそこにあるだけだった。
――《終幕剣》
声はない。
だが、その言葉だけが、直接、意識の芯に落ちた。
《剣を振るという行為は不要》
《結果だけがあればよい》
《戦いは、始まらないうちに終わるべきだ》
誰かの“意志”ではない。
世界の“判断”だ。
レオンは――それを、何の疑いもなく、受け取った。
その瞬間、目を覚ます。
夜はまだ深い。
レオンは、いつものように木剣を手に取った。
毎晩行ってきた“修行”だ。
深く息を吸い、足を開き、背を正す。
いつも通り、“振る”だけ。
そう、いつも通り――
振ろうとした瞬間。
木剣は――動かなかった。
軽いはずの木剣が、まるで大地に根を下ろしたように微動だにしない。
腕に力を入れる。
入る。
木の幹に向かって振ろうとした。
だが――動きの「手前」で、振った結果だけが残った。
庭の奥。
木の幹が、斜めにスパッと裂けていた。
風も、音も、なかった。
ただ、裂け目だけが“そこにある”。
レオンは――ようやく、自分の身に何が起きたのかを理解し始める。
☆
レオンは、裂けた木の幹を、しばらく見つめていた。
ありえない、と、頭のどこかで理解している。
しかし、それ以上に――感情が追いつかない。
「……俺は、まだ……木剣を振ってない」
呟く声は小さかった。
だが、その言葉は自分の胸の内を深くえぐった。
振ろうとした。
でも、振れなかった。
にもかかわらず、“結果だけがある”。
木剣を握り直す。
「……っ」
レオンは――力任せに、木剣を振り下ろそうとした。
足も、呼吸も、生きている感覚も、すべて“いつも通り”だ。
ただ――“振る”という動作そのものが、存在しない。
ガキィンッ!
音が遅れて響いた。
レオンの立っている場所から十歩先――
村の井戸に立てかけられていた古い桶が、真っ二つに砕けて飛び散っていた。
風はない。
剣圧も、斬撃の余波も、何も感じなかった。
木剣を構え、移動し、振る。
それがすべて無かったことにされていた。
ただ、結果だけが世界に刻まれている。
レオンは、ゆっくりと木剣を下ろした。
額から汗が流れ落ちる。
腕が震えている。
「……振らせて、くれないのか」
初めて、人知れず苦しみが滲んだ声が喉から漏れる。
レオンは剣が好きだ。
いや、“剣を振ること”そのものが、生きる楽しみになっていた。
努力を積み重ねて、騎士様に近づくために振ってきた剣。
それが――
“不要だ”と、世界に切り捨てられた。
胸の奥が、静かに、深く、裂ける音を立てたような気がした。
☆
それでも――レオンは木剣を握り続けた。
腕が痺れても、足が震えても、呼吸が乱れても、構える。
たとえ“振れない剣”であっても。
「……俺は、剣を振りたい」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ――自分自身のために、己の意思だけを確認するかのように呟かれた。
剣が振れなくても、構え続ける。
努力が結果に塗り潰されても、立ち続ける。
夜は更け、月は雲に隠れた。
レオンは、剣を振れないまま、朝日を迎えるまで構え――倒れるように眠った。
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