第18話 藤田通夜

 米沢は、二人の「涼子」と、不気味な「監査役」であるかおるに挟まれ、絶体絶命の危機に立たされた。忍原の鎖鎌が米沢の動きを封じ、かおるの持つ、絶望の墨を滴らせた巨大な筆が、米沢の胸元の融資記録を狙っている。

​「さあ、米沢涼子。観念しなさい。君の『正義』は、ここで『適度な終止符』を打たれる運命だ」

​ かおるは、能面のような笑顔の下で、筆を振り下ろそうとした。忍原もまた、鎖鎌で米沢の腕を絡め取ろうと、鎖を放つ。

​ 米沢は、広田から託されたバールを、両手の最後の力を込めて握りしめた。逃げ道はない。この場で、どちらかを仕留めるしかない。米沢が、忍原の鎖の隙間を縫って、かおるの筆を叩き折ろうとした、その瞬間だった。

​ 地下道のさらに奥、階段を挟んだ反対側の通路から、一筋の線香の煙が、静かに、しかし、はっきりと漂ってきた。

​ そして、その煙を纏うように、一人の男が現れた。

​ 男は、黒いダブルのスーツを完璧に着こなし、その手には、まるで数珠のように、何かのコードが巻かれていた。年齢は、米沢の父親ほどだろうか。その顔には、人生の酸いも甘いも噛み分けたような、深い皺が刻まれているが、瞳には、冷徹な夜明け前の静けさが宿っている。

​ 彼は、登場した瞬間から、地下道の空気を一変させた。彼の周りだけが、まるで通夜の会場のような、張り詰めた、静寂な威圧感に包まれていた。

​ 男は、米沢、忍原、そしてかおるの三つ巴の構図を、まるで遺影でも見るかのように、静かに見渡した。そして、米沢たちに向かって、低い、しかし重厚な声で語りかけた。

​「…無粋なこったな。こんな夜明け前に、地下で騒々しい。まるで、**『経済の通夜』**でもやってるみたいだ」

 ​忍原とかおるは、その男の登場に、明らかに動揺を見せた。

​「あなたは…!なぜここに!」

 忍原涼子が、鎖鎌の動きを止め、警戒を露わにした。

 ​かおるも、筆の動きを止め、能面のような笑顔の下で、緊張に口元を歪ませた。

​「これはこれは、最終監査役。君の『適度なバランス』とやらも、少し**『過ぎたる』**んじゃないか?この国の『夜明け』を、勝手に『葬式』に変えるなんざ」

​ 男は、静かに一歩踏み出した。その動きには、一切の無駄がなく、一挙手一投足に、数十年の経験と、裏社会の哲学が凝縮されているかのようだった。

​「私の名は藤田通夜ふじたつや。…まぁ、昔の名前だがな。『インペリウム』の**『影の供養人(シャドウ・メモリアリスト)』**とでも呼んでくれりゃ、話は早い」

​ 藤田通夜は、米沢の抱える融資記録、そして、広田の犠牲を間近で見た米沢の瞳を見つめた。

​「坊主ども。そこの娘が抱えているのは、ただの記録じゃねぇ。それは、**『この国が失った魂の弔い』**の引導いんどうだ」

​ 藤田通夜は、静かに両手を広げた。まるで、そこで本当に通夜の儀式を始めるかのように。彼の醸し出す雰囲気は、これまで米沢が出会った追っ手たちの、狂気や技術を超えた、存在そのものの重圧だった。

​「私の仕事は、**『過ぎたもの』を弔うことだ。その腐りきった『インペリウム』の『秩序』も、君たちのように、それを『過剰』に追い求める『若さ』**もな」

​ 藤田は、忍原とかおるに向かって、静かに言い放った。

​「その『最終清算』だの『最終監査』だの、くだらねぇ肩書きは、ここで**『荼毘だびに付す』。さあ、線香の煙が消えねぇうちに、さっさと『出棺しゅっかん』**してくれ」

​ 米沢は、藤田通夜の言葉の奥にある、確かな味方としての意志を感じ取った。しかし、彼の正体と目的は、まだ全く掴めない。

​ 忍原涼子は、鎖鎌を構え直した。その瞳に、初めて恐怖のような感情が混じった。

​「藤田…あなたをここで排除すれば、組織はあなたを裏切り者として…」

​「構わねぇさ」

 藤田通夜は、静かに笑った。その笑みは、全てを達観した、大人の男の渋みを感じさせた。

​「俺は、『時代の通夜』を見届けるために来た。そして、その『弔い』を終えたら、俺の存在も、この国から『消える』。…だが、その前に、この娘には、**『夜明け』**を見てもらわねばならん」

​ 藤田通夜の言葉を合図に、米沢の緊張が解けた。そして、米沢は、藤田の背後に、微かに開いている、地下道の最上階へと続く隠された扉があるのを見た。

​「米沢涼子。行け。俺が、こいつらの**『回向えこう』**をしてやる」

​ 米沢は、その場を動けなかった。広田の死、そして、この渋い男の登場。全てが、あまりにも劇的で、現実離れしていた。

​「行け!それが、俺の『弔い』だ!」

 藤田通夜の瞳が、米沢の背中を押した。

​ 米沢は、広田の遺志を胸に、走り出した。目指すは、藤田通夜が示した、最後の隠し扉。

​ 米沢が走り去った直後、藤田通夜は、巻かれていたコードを外し、そのコードを念珠のように扱いながら、忍原とかおるに向き直った。

​「さあ、**『弔いの時間』**だ、坊主ども」

​ 藤田の姿は、まるで老いた龍のように、静かに、しかし、圧倒的な力で、地下の闇に鎮座していた。

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