第九章 母の過去

第50話 時代だった、のかもしれない

 精神科医には守秘義務がある。彼らに患者として話したことは基本的に漏れることはない。だからあかりは母とのことを全て話した。


「八木さん、それはもうやめた方がいいよ」


 町田医師はじっと心配そうにあかりを見た。あかりは母の診断書をまだカバンの中に入れている。古い紙なので透明なクリアファイルに入れていた。


「障害年金は家族の電話一本で取り消されることはないよ。基本的には国と医師が決めている。君は診断書でお母さんを脅さなくても大丈夫だよ」

「……でも、母はおかしいんです」


 あかりは暗い目でじっと町田医師を見つめる。


 外に出る時あかりは母の診断書をずっとクリアファイルに入れてカバンの中に持っている。家ではドアに椅子を斜めに引っ掛けて、診断書はクローゼットの一番下の引き出しの裏側にセロテープで貼り付けて眠りについている。


 あの日から母はあかりに対してびくびくと怯えた態度を見せる。診断書の存在は母にとっては生殺与奪の権利を握られたようなものらしい。


「母はあまりにも強く発達障害や障害者に対して偏見があります。自分もそうなのに……年金のことだけじゃない。いつか私の職場にもなにか恐ろしい電話をかけないとも限らない。そんなことに怯えたくないんです」

「僕は君のお母さんの心配をしているんじゃない。君を心配しているんだ、八木さん。黙っていればお母さん以外に誰にもバレないのにこうして僕にその事を告白したってことは一人で抱えているのが辛いからだろう?」


 流石、精神科医だ。鋭い。あかりだって迷いもある。けれど、それ以上に脅さなくてはならないほど母が信じられなかった。


「精神科医として言う。もうその診断書は返してしまいなさい。きっとお母さんは君がその事実を知っただけで恐ろしくて君にちょっかいをかけないよ」

「……母が怖いんです、弱みを握ってないと何をするか分からない」

「君はそんな風に人を脅して平気なタイプじゃない。その事で安定剤を増やしたくないんだよ」

「でも」


 話は平行線で、その日の診察はそれで終わった。それでもあかりはあの日から誰にも言えなかったことを言えて少し安堵していた。


 町田医師はため息をついた。


「……その事はまた次回話そう。それじゃ、発達障害の薬を飲むことについてだけど」






 病院の帰り道、街路樹の花が綻んでが春の兆しを示していた。


(雪白さんにも相談できないこと、できちゃったな……)


 ポートライナーに揺られながらスマートフォンの連絡先を見る。雪白、ブルース、ミドリ、小百合、誰にも言えない。


 だって今回の件はあかりは加害者なのだ。それを知った上で母の弱みを握らずにはいられない。


 母が発達障害だったことはもちろんあかりにも衝撃的だった。どうして? という気持ちがある。なぜ同じ発達障害なのにあんなに母は発達障害のことを否定するのか。なぜ診断を告白した日に同じだと言ってくれなかったのか。


 あんなに母に認められたかったのに今は母への否定的な気持ちでいっぱいだ。こんなことなら診断書など見つけたくなかったとも思う。けれど障害年金の通知書を破いた母の姿が忘れられない。


「……確かめないと」


 あかりはスマホを持ち直し、ある連絡先へコンタクトをとった。








 二週間後、大阪であかりは地図を片手にあっちへいったりこっちへいったりを繰り返していた。


 梅田駅は複雑な構造で目的の喫茶店へ辿り着くのに骨が折れた。神戸より多様な人種の人混みにクラクラしつつ、印刷した地図をもとに歩く。


「ああ! あかりちゃん、こっちこっち!」


 緑の多い庭を持つ落ち着いた喫茶店へ着くと初老の女性があかりに手を振った。叔母の秋江だ。葬儀の喪服とは違い、ブラウンのロングスカートに花柄のカットソーを着ていてだいぶ印象が違う。


「お久しぶりです、秋江おばさん」


 叔母は窓側の四人席に一人座っていた。テーブルには水しかなくまだ注文をしていないようだ。あかりを待っていたのだろう。


 二人で注文を済ますと叔母は姪に少し遠慮がちに話しかけた。


「あかりちゃんから連絡が来るなんて、正直意外だったわ。この前の葬式以外はほとんど会ったこともなかったし」

「すみません、今後は冠婚葬祭には顔を出すようにします……今日は母のことについて秋江おばさんに聞きたいことがあって」

「弓子のこと? 弓子のことなら自分で聞けばいいじゃない」

「その……実は……」


 あかりは言葉が喉にもつれてすぐには話せなかった。


「母は発達障害と診断されていたんですか?」

「……どこでそれを?」


 その反応に知っているのだ、とあかりは早口になる。うまく嘘をつかないとならない。


「その……掃除をしていてたまたま見つけてしまったんです。母の診断書を、日付も昭和で大昔のものでした」


 当然、診断書を盾に脅していることは伏せる。昨日の夜に考えた言い訳だ。


「そう、なの……そんなことが」

「私も、私も発達障害と診断されたんです! でもそれを言った時、母はそれを絶対に隠しているように、恥だから絶対に言うなと言って……同じ発達障害なのにどうしてでしょう?」

「……そうだったの」


 叔母は目を伏せて、窓の外を懐かしそうに眺めた。しばらく沈黙が降りてあかりは焦れたが叔母はすぐに口を開いた。


「長い話になるけどいい?」

「……おばあちゃんのことですか?」


 返事の代わりに叔母は淡く笑った。その時、ウェイトレスがコーヒーを二つ持ってきた。


「ケーキも頼みましょう、楽しい話じゃないから」



 




「うちは昔気質の家庭で普通であることを何よりも大切にしていたの」


 秋江はあかりをじっと見て、視線を落とした。


「今思うとうちは普通の家とは少し違ったかもしれない。しつけと称して平手打ちなんて当たり前だった。友達の家に行って穏やかな両親を見るとびっくりしたものだったわ」


 秋江の語りをじっとあかりは聞いていた。


 母・弓子と叔母・秋江の家は保守的な家庭で「まとも」で「普通」であることを至上命題としていた。父親も母親も弓子と秋江がまともで普通であることを強く望んだ。


 秋江はできがよく、周囲からも好かれるタイプで両親の自慢だったが弓子は違った。弓子は成績が悪く、いつも空気が読めず周囲から浮いていた。そんな弓子を両親は厳しく叱った。


 時には手が出ることもあった。そういうことをしつけと称して出来のいい秋江も何度か殴られた。弓子はその倍は殴られた。


……「どうして普通にできないの」……

……「まともじゃないならうちの子じゃない」……


 弓子はよく陰で泣いていた。どうして普通にできないのか知りたいのは弓子自身だった。弓子はだんだん息を潜めるように小さくなって生きていたがそれでも彼女は浮いていた。


 どうして普通になれないんだろう、と弓子はよく秋江に陰で話していた。家から追い出されたくないと時折、涙ぐんでいた。


……「お母さんに嫌われたくないよ」……


 祖母は弓子の不出来をよく姑と夫になじられていた。


 うちの家系ではこんな出来の悪い子はいない、お前の家系のせいではないか。お前の教育のせいではないか、と何度も責められた。


 実家との折り合いも悪く、逃げ場のない母は余計に弓子に手をあげるようになった。


……「なんでまともになれないの!」……


 何度も頬が赤くなるほど平手打ちをされた。それでも弓子は母に好かれようといつも努力していた。

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