第34話 自分を責めればいいと思っていた

 相談室は受付の横の小さな個室だった。小さいがテーブル一つと椅子が二つあり、窓には観葉植物も置いてあった。プライバシーは保たれている。あかりも何度か利用したことがあった。


「まずはお茶を飲んで、少し落ち着いてくださいね」


 里中がほうじ茶を二つそれぞれの前に置く。あかりは二口だけ飲むと少しだけ身体の氷が溶けたようだった。里中もずずっと美味しそうに啜った。


「暖かいですね、もう春ですが私はこういう飲み物が好きです」

「……」

「緑茶もいいですが、ほうじ茶もこういう時ほっこりしていいですね」

「……父が」


 里中があまりに何気なく話すのであかりは初めて言葉を発した。


「父が、四十歳になったから、家を出ていけと言って……」


 里中の表情が真面目なものになる。


「そんなことがあったんですね。八木さん、ずっと頑張ってきたのに」

「私が全部悪いんです。三ヶ月後に引き出し屋を呼ぶと言われたからすぐに出て行かないと。父はもう六十七歳になったんです。全部私が悪いんです、私が悪いんです、私が悪いんです……」


 あかりはひたすら自分を責める言葉を吐き続けた。里中は穏やかな表情のままそれをただ聞いていた。そうして十分以上が経過した。


「……自分のせいなんです、自分でなんとかしないと」

「八木さん、いいですか?」


 ハッと自分ばかり話をしていたことに気づく。気まずいと里中の顔を見るが迷惑そうではなかった。


「時々、ですが、キリンの利用者さんでそういう方を知っています。引き出し屋というのは初めて聞きますが……キリンに通っていて、両親が高齢でもう頼れないという利用者さんは八木さんが初めてではありません。そういう方を生活保護の手続きを何人も手伝ったこともあります」

「キリンが、生活保護の手伝いを……?」

「ええ、緊急の時だけですが。

 基本的にはツバサという部署が担当しています。キリンが所属する社会福祉法人が相談支援をやっていて、八木さんが希望すれば専属の担当相談員が付きます。

 普通の場合はその相談員が生活保護の申請に役所についていくことになります」

「里中さん、私が生活保護になればいいと思ってるんですか?」


 思ったより大きな声が出てしまう。身体の奥底から否定の声が上がってくる。しかし里中の静かな目は変わらなかった。


「今の住みなれた家を離れることになりますが……八木さん、あなたはずっと頑張ってきた。私はキリンのスタッフにすぎませんが、それは知っています。少しずつ段階を踏んであなたはステップアップしてきた。それがここで絶たれるのはもったいないと思います」

「生活保護なんて、必要ない。それは本当に困っているための人のものでしょう。私には必要ない。だって私が悪いから。私がすぐに働けばいいだけ……」


 何を言っているのだろう。働くなんてポラリスも休んで寝てばかりなのに。


「八木さんはきっとあと数年このままのステップを踏めば働けるようになると思います。それが三ヶ月後に出ていけなんて、これまでがメチャクチャになってしまいます。このままゆっくり進んでいけば大丈夫ですよ。無理に働いても長続きするとは思えない。生活保護は決して恥ではありません。全ての国民の権利です」

「だって、引きこもりが生活保護は迷惑だって! ニートなんてそのまま野垂れ死ねばいいって!」


 匿名掲示板の見知らぬ人たちの言葉を思い出す。何をしているのだろう。ネットの知りもしない人たちの言葉より、いつも優しかった里中の声が近いのに。


「ネットにはそんな心無い言葉があるんですね。でもそれは無関係で無責任な外野の言葉です。八木さんの人生になんの責任もとってくれない」

「でも……でも、それが人の本音なんじゃないですか?」


 ポロリと涙が出た。父に全てを否定された日から初めての涙だった。慌てて拭うが次々と涙は溢れてくる。


「私も本音で八木さんがこのまま作業所に通って、いつか就労できると信じていますよ。でもそれが三ヶ月後では……」

「全部私が悪いんです! 生活保護なんて受ける資格ない! 働けなければ死ねばいいんだ! 家族だってそれを望んでる! だって二十年も私のせいで苦しんだんだから!」

「八木さん、自分を責めれば解決するものではないのです」


 里中が何かを口にする前にあかりは席を立った。泣いたまま逃げ出すように相談室のドアを開ける。小百合の声が聞こえた気がしたが上履きのままキリンのドアを潜って出ていく。


(私にそんな資格はない、資格はない、資格はない!)


 そのまま走った。走った。何かから逃げるように。でも何から逃げているのか分からなかった。


 あかりは家に戻り、自室に籠った。上履きのまま戻ってしまったことに気付き、部屋の隅に投げ捨てる。酷く全身が重く感じて、ベッドに倒れ込んだ。


 まだ涙は流れていた。父の言葉を聞いた時も、掲示板で嘲笑うように責められた時も、履歴書が書けなかった時も、涙は出なかったのに、里中の言葉では涙が出た。


(なんでだろ……)


 あかりはそれからも泣いて、泣いて、日が暮れても泣いた。ティッシュがなくなって、タオルで顔を拭くようになり、夜になった。するとふっと糸が切れたように眠りについた。


「……お父さん、追い出さないで……」


 無意識の寝言がこぼれた。あかりが父に追い出されると言われてから、初めての眠りだった。






 あかりは目が覚めた。朝だった。机の上の時計を見ると午前十時だった。


 頭がぼうっとする。久しぶりに自分を責める声が頭で鳴り響かない。心が静かだった。


(泣いたからかな。久しぶりにこんなに寝た……そういえばほとんど寝ていなかった)


 そのままベッドの上でぼうっとする。時計の音だけが聞こえる。窓から漏れる光がベッドの上で伸びていく姿だけが時間の経過を教える。


「あ、そうだ……ポラリス」


 ふっと思い出す。今日は午後から行く予定だ。また休むのか?


(ポラリスに行っても意味ない。お父さんだってお金の無駄って言ってた……でも、じゃあ、何するの?)


 あかりはベッドで上体を起こして、机で履歴書を書こうとした。また手が震えて何も書けない。


 自分はなんなのだろう。里中にあんなことを言っておいて何もできない。働けなければ死ねばいいと全てを投げ出すことを言った。


 ただ自分が悪いと思うのは本当だった。美希だってあんなにあかりが引きこもりに戻ることを恐れていた。父は痺れを切らして引き出し屋を呼ぶと言った。母は障害者自体を忌み嫌っている。自分は家族の誰からも必要とされていない。だから自分が悪い……。


……「八木さん、自分を責めれば解決するものではないのです」……


「……そうなのかな」


 里中の言葉が蘇る。自分を責めることを義務のように感じていた。家族を苦しめたあかりはずっとそうやって苦しめばいいと思っていた。でも……違うのだろうか。


 現実にあかりは何もできなくなっていた。父に引き出し屋を呼ぶと言われてから、自分を責めること以外は寝てばかりだ。働こうと履歴書を書こうとしてもダメだった。だが自分を責めると苦しくてベッドに倒れていることしかできなかった。


 自分を責めても力なんて出なかった。


「……私、間違ってたの?」


 分からない。だがこのままでいるのが正しいとは思えなかった。


 あかりは部屋を出て、顔を洗った。


 鏡で見る自分は生気がなかったが目には微かに光が宿っていた。そのまま部屋に戻ると昨日のままだった服を脱いで、美希が買ってくれたシャツとズボンを履いた。


 そのままポラリスに向かった。時間は十二時だからまだ間に合う。


 玄関でいつもの靴が見つからず、そういえばスニーカーは昨日キリンに置いてきてしまったと思い出す。仕方なく封印していたパンプスを履くとドアを開けた。一日くらいなら大丈夫だろう。


(よかった、私、まだ行けるんだ)


 バスに乗ってポラリスに向かう。椅子に座っているとLINEの通知が溜まっていることに気付く。


 それは小百合のものだった。何度も既読でいいからつけてくれとメッセージを送っている。あかりはあの時小百合を置き去りしたことを後悔すると、必死に謝罪の文章を考えるが、思いつかず大丈夫と書かれたスタンプだけ送る。


 そのままポラリスについた。いつもの半分以下しか作業はできなかったが、自分にもできることがあることがあかりは嬉しかった。





 翌日もポラリスに通った。父はああ言ったがやはりポラリスはいいところだ。自分のペースでできるやるべきことがあることが嬉しかった。


 ポラリスが終わると近くの公園のベンチであかりは電話をかけた。


「ああ、キリンですか? ……里中さん? すみません、あの時は……」

「八木さん、すみません。差し出がましいことを言い過ぎたようです。けれど、八木さんが幸せになって欲しかったのです」


 幸せ。不思議な言葉だった。こんな自分にそんな資格があるのだろうか?


「いえ……私こそ突然飛び出してしまって、すみません。靴まで置いて行ってしまって」

「靴はキリンに取りに来てくださいね。お節介ですが、この前話したこと、また相談してくだされば嬉しいです」

「……本当にすみません」


 まだ気持ちの整理がつかず、ありがとうを言えないままあかりは電話を切った。


 すっと風が吹く。まだ春で風が心地いい。三ヶ月後にはこんなことを考えることもできないのだろうか。


「……ホームレスとかなっちゃうのかな」


 ぼんやりと公園の滑り台を見た。家から追い出されてホームレスになったら公園に住むのだろうか。


 あかりはすっとベンチから立ち上がった。視線の先には太陽があった。


「アジールで相談してみよう」


 やっとそう言えた。自分が悪いのだから相談する資格はないと思っていた。けれど自分を責めて、一人きりで動くこともできなくなり、誰も頼らないことは正しくないのかもしれない。


 アジールは明日だった。

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