第28話 「お姉ちゃん、何しても出てこなかったのに」

 三宮の洒落たビルの一室にそのカフェはあった。


 全て個室のカフェで調度品も上品だ。木製の扉に銀色の鍵がかかっていて、ベージュの天井と床、そして窓には濃いレッドのカーテンから三宮の景色が一望できた。あかりがブルースとよく行く安いファミレスとは値段が三倍以上違う。


 金額に慌てていると美希は「今日は私が払うから」とさらりと言った。


「いいから、今日は話しにくい事を話すんだから個室がいい。個室がいいのは私だから払うって。それくらいのお金ならあるから」

「そこまでしなくてもウチで話せばいいじゃない?」

「無理だよ、お母さんがいるんだよ」


 美希はそれが全てだと言わんばかりにワイングラスの水を飲んだ。あかりが不思議そうにしている間に洒落たチェック柄の制服を着たウェイトレスがやってきた。美希の前に果物を盛り合わせたケーキと白いティーカップのダージリンティー、あかりの前にバナナスムージーを優雅な仕草で運ぶ。


 ウェイトレスが退席するとあかりは黒いストローをスムージーに刺した。美希はフォークでラズベリーを刺して口に運ぶと呆れた視線を姉に向けた。


「てか、奢るって言ってるでしょ。気にしないでケーキセット頼んでいいって言ったのに」

「だ、だってこれも千円近くするし」


 あとでやっぱり払ってと言われたら怖くて二千円近いケーキセットは頼めなかった。親の小遣い一万円が生命線で情けない。作業所に行けばもう少し余裕ができるだろうか。


「これから何度も来るんだから気にしなくていいって」

「な、何度もって……なんで?」

「そりゃ、二十年近く何しても引きこもってたお姉ちゃんが外に出るなら、これくらいはするよ……ずっと諦めてたから」


 美希の眼差しは真剣であかりは胸が詰まった。美希はいまだにあかりが外に出ていることに半信半疑のようだ。


 考えればあかりが外出していることは母だけは二年前から知っているが、母が話していないなら平日は遅くまで帰ってこない父と美希は知るはずがない。


 いや、月に一度は土曜日にアジールに行っていたから気配を察していたかもしれないが、それも月に一度だけだ。土日は疲れて自室にいる美希は気付かなくても不思議ではない。元々あかりは平日はキリンに行くので精一杯な分、土日は自室にこもって休んでいることが多かった。母の発言があってからは気配を消してアジールに向かっている面もある。


「お姉ちゃんとまた話ができるなんて思わなかった。もうかなり昔だけどドアの前で何度出てきてよ、話そうよって言ってもなんの反応もなかった。だからこうして面と向かって話せるだけでも私は嬉しい」


 あかりは言葉を失った。昔から美希は優秀で両親の自慢だった。だから、妹は曇りなく幸せだと思い込んでいた。出来の悪い姉のことなど軽蔑しているという母の言葉を信じて、あかりのことを心配している目の前の美希のことを見ようとしなかった。


 美希はケーキを切り分ける手を止めてじっと姉を見た。


「お姉ちゃん、子供の頃はよく一緒に遊んだよね。一緒に夜までゲームしてお母さんに一緒に怒られた。それが中学校の頃から変わってしまった」


 中学であかりはいじめられていた。クラス中から無視されたことは思い出すだけで身がすくむ。なんとかしようと余計な事を言って陰でクスクスと笑われた。幸い物を隠されたり叩かれたりはしなかったが、学校に通うだけで精一杯だった。


 成績は悪く父も母も「当たり前のことができない」あかりを慰めてはくれなかった。家はあかりの居場所にならず、優秀な妹を避けるようになった。高校ではいじめにあう事はなく、小百合に気にかけてもらったことで前よりも辛い思いをせずにすんだが、大学では力尽きるように最後まで通うことができなくなり退学した。それが申し訳なくて、ベッドから動けなくなり、部屋から出られなくなった……。


(今思うと、私って鬱病だったな。あの頃から病院に通えば何か違ったのかな?)


 美希はあかりのバナナスムージーを不満のある目で見つめていた。


「それで、どうしたの? どうして外に出るようになったの? 誰が何を言っても出てこなかったのに」

「それは、その、雪白さんに会ったから……」

「雪白さんって誰?」


 一体どこまで遡ればいいのか。混乱しつつ、あかりは最初から話すことにした。桃プリンに発達障害の診断を勧められたこと、雪白に出会い、アジールを居場所として変わっていったことやキリンのことを一つ一つ伝える。母が発達障害を否定したことだけはぼかして伝える。


 話すと随分長くなってしまった。最初は十四時だった時計がもう十六時になっている。窓を見ると幸い春だったので夕焼けにはなっていない。美希はもうケーキを食べ終わって、ぽかんと口を開けていた。


「ええ!? じゃあお姉ちゃん、平日も外に出ているの!? 自発的に!?」

「そこまで驚かないで!」

「ええ? だってお姉ちゃん、何しても出てこなくて……嘘」


 美希の混乱は深く、落ち着く頃には十七時になってその日のお茶会はお開きになった。


「また来よう。まだまだ聞きたいことがあるよ。来てくれるよね、お姉ちゃん?」


 そう言われて二週間後にまた約束をした。





 美希とお茶会をした翌日、あかりは作業所の体験入所を始めた。


 あかりの家からバスで二駅のその作業所、正確には就労継続支援事業所「ポラリス」は灘区の集合ビルの一階にあった。


 ポラリスは通りに面した作業所でガラス張りの窓に黒いブラインドがかかっている。その中に十ほどのデスクがあり、その中で見知らぬ人たちがノートパソコンで何かを打ち込んでいた。利用者だろう。男性が多いがポツポツと女性もいる。あかりがスタッフに連れられて入ると少し視線が集まる。


「本日、体験入所をする八木さんです」

「よ、よろしくお願いします!」


 思わず声が大きくなってしまう。体験には慣れているのか、人に興味がないタイプが多いのか、すぐ彼らの視線はパソコンの画面に戻っていった。


「八木さん、まずは面談室でお話を」


 それから個室でこれまでの経緯を話す。あかりはなぜかブラインドタッチは得意です、と必死に主張した。それが終わると空いた席に座り、ノートパソコンのログインの方法を教えられた。


「うちがやっているのは主にデータ入力だから、これで練習してください」


 エクセルのファイルを見せられて、そこに指定された情報を入力していく。練習とはいえそこまで難しいとは思わない。ただ根気は必要そうだ。仕事っぽい。


(時給は二百二十円、ブルースさんが言ってたよりちょっといい。お小遣い以外にお金が貰えるならありがたい。えっと……一ヶ月でいくらになるかな?)


 まだ体験なのに気の早いあかりであった。その作業を一時間するとお菓子の袋にバーコードのラベルを貼る軽作業の体験をする。ここの主な作業はこの二つらしい。


 終わると利用者たちは談笑することなく散るように帰っていった。人間関係が薄いらしい。それにホッとした。スタッフも無闇に話しかけてこないし、作業の疑問点を聞けば丁寧に教えてくれた。


(うん、ここにしよう)


 帰りのバスでそう決めた。家に帰るとベッドに倒れる。思った以上に緊張していたらしい。


 桃プリンに「作業所に体験に行きました。ここに決まりそうです。思ったより疲れてしまいました」とメッセージを送信するとすぐに返信が来た。「すごい! レッドガーディアンさんはどんどんチャレンジしていきますね!」。思わず笑みが漏れて、いいねを押した。

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