記憶の呼ぶ声がする~怪異と使命と消えた過去と、全部諦めきれなくて~

白湯の氷漬け

第1話 覚えのない名前

 走っていた。脇目も振らず、本能のままに走っていた。


 こわい。

 にげろ。

 にげろ。

 おいつかれたら、だめだ。


 暗すぎる、月の光は足元まで届いていない。走って、夜風が冷たくて、足取りがやけに覚束なくて、走って、走って──。




「──、──い、……笹井!」


 パーカーを着た彼ははっと目を覚まして、そのまま荒く息を繰り返した。声のした方を向くと、男性が彼の右肩を掴んで揺らしている。目が合うと手を放し、奥にいる女性に一言、

「起きました」

と頷いた。女性はありがとうと微笑んで立ち、彼の方に歩いてくる。


「おはよう、笹井ささい君。ここはどこだと思う?」


 彼は目を丸くしたまま辺りを見渡す。袖で口の端をぬぐって、女性の顔を見上げた。


「地下鉄、ですか……? 誰もいませんけど……。あと、笹井って誰ですか」


 腰まである髪を一つにまとめた女性は、すっと息をのんだ。


「『笹井』は君の名前だよ。自分のこと、どこまで思い出せるかな」


 言われてみて気が付いた。視線を足元に落として思い出してみようとしても、何も、まったく思い出せない。なんでここにいるか……住んでいるところ……自分の名前。


「……なにも……?」

「笹井君」


 不安を張りつかせた顔を上げると、女性はしゃがんで彼と視線を合わせていた。


「大丈夫。もうすぐ目的の駅に着くから、そこで少し整理しよう。とりあえず今は自己紹介かな。私は橙山とうやまだ、よろしく」


 芯の通った温かな声だった。隣のメガネをかけた男性は、『笹井』に体ごと向き直った。


八旗やはただ。俺も橙山さんも、下の名前は気にしなくていい」

「えと、よろしくお願いします」


 混乱のまま頭を下げると、『橙山』はうん、と微笑んで元の席に戻った。


 駅まで、笹井は二人のことを観察してみた。

 橙山はゆるいタートルネックのニット服で、袖をまくっている。A4サイズが入るような合皮のハンドバッグを持っており、裾の広いズボンもカプチーノのようなやわらかい色が基調で、さっきの笑顔と相まって笹井を安心させた。


(……ああダメだ、人を見た目で判断したら)


 突然ぶんぶんと頭を振ると、『八旗』がちらっと見てまた正面に向き直った。

 八旗はアタッシュケースを持ち、ラフなジャケットに合うすとんと下りたズボンを着ている。短い髪が後ろに向かってきっちりと整えられており、肩幅が広く筋肉質だとうかがえる。


「着いたようだね」


 二人についていき階段を上る。外に出たころ笹井の膝は笑っていた。続いて出てきた八旗は、息一つ切らしていない。


「ほら頑張れ、新入り」

「え、新入り、って、……っは、どういう」


 一足先に着いた橙山は伸びをしていた。


「なんだか懐かしさを感じる、良い町だな。これで怪異が無ければ住みたいくらいだ」

「かいい?」

「そう、怪異」


 不意に橙山の鞄から着信音が鳴った。


「お、きたきた。……橙山です。……なぜ変声機を通すんですか……はい、……はい。分かりました」


 橙山は大きめのワイヤレスイヤホンのような機械を耳から離し、ボタンを押して前に差し出した。するとスピーカーになったのか、軽快でヘリウムガスを吸ったような声が響いた。


「よ~う諸君、今回の任務はざっくり言うと、五日で怪異を封印して異常を解決しちゃおう! ってわけだ。新入りの笹井君、初回からかなりハードだけど頑張って」

「……えっ」


 二人の視線が集まり、笹井は目を回していた。


「新入りって、怪異って、いったいどういうことですか!?」

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