【改稿済】第27話 葵と秘め事【2】
まるで、違う世界にでも迷い込んでしまったようだった。
これまで何度もお借りした、すっかり見慣れた空間であるにも関わらず。
「葵のやつ、一体何を考えてるんだよ」
そう独りごちると、僕の声があの独特な反響をして、そのままの形でこちらに返ってきた。
今、僕は葵家の浴室の中にいる。学校で使う水着を着用し、湯船に浸かりながら。
「いくら恋人同人とは言っても、さすがに『コレ』はマズいんじゃないかな……」
そう。葵が求めてきた『ご褒美』。それは、僕と一緒にお風呂に入るというものだった。
それが何の意図によるものなのか、今の僕には理解することができていない。様々な感情や思考が絡み合って、こんがらがった糸のように上手く解くことができないんだ。
確かに僕自身、いつかこういう日が訪れるであろうことは分かっていた。僕と葵は『幼馴染』から『恋人』という名の関係に変化したのだから。でも、それがあまりにも唐突だったために、未だ心の準備もできていない。もちろん、覚悟も。
「アイツ、ちゃんと着てくるよな……」
一応、あれだけしっかりと伝えたんだ。水着を着用して入って来てくれるはず。でも、一抹の不安が心をよぎるんだ。今日の葵の様子を見ていると否が応でも。
一体、葵は何を焦っているんだろうか。
「ゆ、憂くん。は、入るからね」
脱衣所から聞こえてきた葵の声。心なしか、それが少しだけ震えているように感じた。
「わ、分かった。あのさ、葵。ちゃんと水着着てきてるよね?」
「あ、当たり前でしょ。だって、着てなかったら、私……」
「私って、葵? どうかしたの?」
「ううん、なんでもない」
ガラス張りの扉の向こうから、首を横に振る葵のシルエットが見えた。一体、僕に対して何を伝えようとしたんだろうか。
でも、扉ひとつ挟んでいても感じることができた。葵の抱いているであろう葛藤という名の感情を。
「そ、それじゃ、お邪魔します」
浴室の扉がガラガラと音を立てて開かれる。そして、その向こう側にはスクール水着姿の葵が立っていた。それを見て、僕は少しだけ安堵。もしも水着を着ずに入ってきたりしたら、僕はその場で卒倒する自信があったから。そんな自信いらないけど。
でも、葵のその姿を見ただけで、僕の心臓が波を打った。
考えてみたら、スクール水着を身に付けた葵の姿を見たのも数年振りだった。中学生になってからはプールの授業は男女別々になったから。
だからこそ、一目見て分かった。
胸の膨らみ。腰のくびれ。粉雪のように真っ白で柔らかそうな太もも。僕の知っている葵の姿とは全く違っていた。当たり前だ。僕が最後に見た葵の水着姿は小学生の頃だったし。成長していて当然だった。
「ご、ごめん!」
何故か、僕はそう謝って葵の姿を見ないように湯船の中で背を向けた。これ以上見ていたら、男としての針が振り切れてしまいそうだったから。あまりの可愛さ――いや、美しさか。水着を着ていても分かる。葵のスタイルは、完全に大人のそれになっていた。
「……憂くん、なんでそっち向いちゃうの?」
「べ、別に。察してくれよ」
「察してって……。私、鈍いのかな。そう言われても、分からないの」
「分からないって、何が?」
「全部、かな。なんかね、最近の私、ちょっと変なんだ。憂くんと付き合うことになってから」
「何が変なのか、教えてもらえないかな? 葵が悩んでるなら、僕も一緒に悩んであげる」
「憂……くん」
今にも消えてしまいそうな程に小さなその声には、色濃い寂しさが滲んでいた。
「少しは僕に頼ってくれていいんだよ。迷惑だってどんどんかけてくれていい。僕が全てを受け止めてあげるから。葵の、全てを」
僕が言葉にしてから少しの沈黙が、この狭い世界の中で生まれた。ほんの短い間のはずなのに、それがやけに長く感じる。永遠と続くのではないかと思えるくらいに。
そして、葵は小さな声でその沈黙にピリオドを打った。
「――ありがとう、憂くん」
そう、言の葉を口にした。
「じゃあ、私も……」
湯船が波を打ったことで、葵が入ってきたことが分かった。たったそれだけのことなのに、僕の思考の全てを持っていかれてしまった。
チラリ、と。少しだけ葵の様子を見やった。彼女もまた、僕と同じように湯船の中でコチラ側に背を向けている。そして伝わってくる、葵の緊張感。自分が望んだ『ご褒美』にも関わらずに。
浴室内の空気が張り詰めているのを感じる。呼吸ができなくなる程に酸素が薄くなったようにも。
きっと今、葵も同じように思っていることだろう。
* * *
湯船の中で、お互い背を向け合い、それぞれの体に体を預けるようにして、僕と葵はしばしの間言葉を発することはしなかった。
僕達二人が生んだ、静寂。気恥ずかしさはあるけど、不思議と気まずさは感じなかった。むしろ逆に、心地良さまで感じてしまう。
「――なんだかさ、懐かしいね」
先程と同様、沈黙を最初に破ったのは葵だった。
「そうだね、懐かしい。小さい頃はよく一緒にお風呂に入ったりしてたもんね」
「そうだよねえ。なんか遠い昔のことのように思えるよ。あの時は恥ずかしいとか、そんなこと全く感じなかったのにね」
「僕は少しだけ感じてたけどね。高学年になった頃から」
「あははっ! うん、知ってる。気付いてたもん、私。憂くんって、意外とエッチなんだなあって。そう思ってた。女子ってさ、男子の視線に敏感なんだよ? どこを見てるのかなんてすぐに分かっちゃう」
「……だから一緒に入るのやめたじゃん。嫌な気持ちにさせてたらごめんね」
「大丈夫だよ。ちょっと寂しかったけどね。それにさ、知らないでしょ? 女子の方が男子なんかよりもずっとエッチなんだってこと」
「そうなの? でもさっき、『恥ずかしいとか感じなかった』って言ってたじゃん」
「それとこれとは全く別だよ。恥ずかしくなくても、エッチなことはいつも考えてたよ?」
意外だった。葵の口からそんな言葉が出てくるなんて。でも、よくよく考えてみたら当たり前なことなのかもしれない。女子の方が精神年齢の成熟度は男子よりもずっと早いと聞いていたから。
でも、僕はそれを聞いて、葵のことをより意識してしまうようになってしまった。水着越しの葵の背中の感触が、僕の感情の速度を一気に加速させた。
少しずつ冷静になってきてたけど、それだけのことで一瞬でひっくり返ってしまった。まるで、オセロだのようだ。一度隅を取られたら、ちょっとした一手で状況が一変してしまう。
それで理解した。僕は今、完全に後手に回ってしまっているんだということを。別にそれが問題だとは思わない。だけど、『全て受け止める』と言っておきながらちょっと情けないな、と。そう、感じた。
換気扇の無機質な稼働音が、やけに大きく聞こえて仕方がない。
「ねえ憂くん? 背中、洗ってあげようか?」
「……いいよ、自分で洗えるから。僕だって、もう子供じゃないんだからさ。それくらいできるよ」
「そっか。憂くん、もう子供じゃないんだ」
「なんだよ今さら」
「だって、私はまだ子供だから。成長できてないのかもね。いつまで経っても大人になれないでいるの」
「十分大人だよ」
葵はかぶりを振った。
「全然違うの。今日だって、憂くんがもし帰っちゃったらどうしようとか、寂しくなっちゃうとか、そんなことをずっと考えてたし」
以前、葵が言っていた言葉を思い出した。
『本当はね。落ち着かないんだ。誰もいない家に帰ってくるのが』
あの時の葵からは、いつものポジティブさを全く感じなかった。
でも、理解できた。あれは、寂しさ、心細さ、寂寥感。それら負の感情がいっぱいに詰まった、いつもの葵ではない、もう一人の『子供の葵』としての言葉だったんだと。
――仕方がないな。本当に。
「じゃあ、お願いするよ」
「え? 何を?」
「さっき言ってたこと。背中、洗ってくれるんでしょ」
背中合わせでも、顔を見なくても、僕には分かった。
葵が今、目を細めていることが。
『第27話 葵と秘め事【2】』
終わり
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