第8話 狼煙
年が明けた頃、透き通るような寒空の中で陣太は山の斜面でじっと獲物を待っていた。
吹雪くことはなくなったものの、度重なる降雪で山は変わらずの雪化粧。その中で陣太は白い布を纏い、ずっと息を凝らしていた。
やがて数頭の鹿が二百
陣太はゆっくりと、下る先頭の牝鹿の頭のほんの少し前へ狙いを定めた。
山を治める大鴉の化身、颯の温もりを感じて以来、彼の情緒は穏やかだった。生き地獄を経験する前の、かつての自分に僅かながら、戻れているようにも感じていた。
タァン!
ダァン!
ほぼ同時だった。陣太の軽い音は先頭を走る牝鹿の頭に、大きな音はそのすぐ後ろにいた牝鹿の首を穿ち、二頭とも転がるようにして絶命した。
猟師は今や陣太を残して誰もいない。二発目の銃声を聞いた陣太は咄嗟に雪の積もるその場に伏せた。
「まさか…國吉たちの残党か?」
白い布が上手く陣太を偽装し、その隙間から弾が放たれた位置を突き止めようとした。
「なんだ、アタシが敵に見えたのか?」
「うわっ!」
一切の気配が感じられなかった。布で覆った陣太のすぐ顔の横に一人の猟師が蹲踞のまま見下ろしていた。
陣太はそのまま逃げるように横転し、心臓を早めながら銃剣を抜いて構えていた。
「くくっ、そう慌てんなさんなダンナ。取って喰おってワケじゃないんだからさ?」
猟師はケラケラ笑いながら陣太を眺めていた。
男なのか女なのか分からない、中性的な顔立ちに耳まで隠れる長い髪。
軍帽を被り、綿の入った白い服に灰色の毛皮の外套を覆い、肩には陣太が戦争に征く前に持っていたものと同じ、懐かしい単発式の猟銃が掛けられていた。
「…首を狙うとは良い腕だな。この辺りの者じゃなさそうだ。」
陣太は彼に敵意がないと悟り、銃剣を納めながら話す。
「ああ、流れ者だ。アタシは
「…陣太だ。第九師団にいた。」
「偶然っ!こんなところで戦友に会えるとはな!アタシは第一師団だ。」
女のような話し方をしながらも男のような勇猛さも見せる彼に陣太は困惑した。だが言動に偽りはないように思えた。
「まぁ、色々と話したいことはあるが…まずは獲物をバラさないとだな。」
陣太は颯と交わした掟のことを思い出した。
「そうだな。ああ言い忘れていた。この山には掟があるんだ」
「…どんな?」
「狩りは一日五頭まで。仔は追わない。この山の主と結んだ約束だ。」
小粋は興味深そうに口角を上げた。
「ほぉう…やはりこの山には『いる』のか。それに、人間風情が山の主と掟を結ぶとはな。」
山の主の存在を肯定する猟師がいることに陣太は驚くも、小粋の若干棘のある言葉に言い返した。
「…悪いか?」
「いいや?寧ろアンタ、気に入られてんだろう?」
「……まぁな。」
小粋はその場で腰に据えていた小刀を抜き、獲った鹿の背を切り開こうとした。
「待ってくれ小粋。それ…どうするつもりだ?」
「あ…?背と腿の肉を失敬するだけだが?」
「…血だけ抜いて全部山から降ろしてやってくれ。」
「あぁん?面倒だなぁ…」
「そうしてやってくれ小粋。俺の家で捌こう、案内する。」
「チッ…アンタが気に入られる理由が分かったよ。」
二人で鹿を背負って山を下りた後、陣太は小粋を家へ招き入れた。
家の裏で獲物を解体した頃にはすっかり日が沈んでいた。
小粋は家の中でも軍帽のままで、頑なに取ることを嫌がった。
「旅順での傷がな…人に見せたくねぇんだ。」
「…そうか、でも蒸れるだろ?手ぬぐいならあるぞ。」
「おお、助かる。だが…傷は見てくれるな?」
「分かってる。」
その後、二人で囲炉裏を囲んでは陣太は小粋に酒と干し肉を振る舞った。
「村田か…今なら三丸も卸されてるだろ?変えないのか?」
「獣どもを撃つなんてこれで十分さね。それに…」
『一発しか撃てねぇからこそ、肝が据わるだろ?』
ほろ酔い気分で愛銃を撫でる小粋がかつて、陣太が自負していた言葉をかけた。
「…そうだな、そうだった。」
「そういや陣太、アンタ第九師団だってな。つまり、アンタも…旅順にもいたのか?」
空気がすっと静まった。顔を下げる陣太に落ち着いた表情で小粋は見つめた。
「ああ、旅順から奉天までいた。」
「そうか。よく…生きて来れたな。」
「やられる前に、やってきただけだ。」
「それもそうだが…アンタはもう、人殺しの目をしていない。」
陣太は顔を上げた。小粋は鋭くもどこか優しい目つきだった。
「ここが、アンタを変えたのかい?」
「……ああ、俺の
陣太は笑みを浮かべて酒を飲んだ。「それでいい、それがいい」と小粋は上機嫌で杯を呷った。
そして空になった杯をしばらく見つめた後で呟いた。
「なぁ…陣太。物は相談なんだがな…しばらくここに泊めてもらえないか?」
どこか寂しげな表情をする小粋に陣太は察し、同情していた。
自分は颯がいたから『人』に戻れた。だが目の前にいる元兵士の魂はまだあの寒い北の地にあるのだろうか?
それをもし、自分が取り戻せられるというのなら…
「なぁに、狩りも手伝ってやれるし、食い扶持は自分で稼げるさ…頼めるか?」
「…構わんさ、ちょうど田畑の被害に困っていた所だ。相方がいれば心強い。」
タァン!
ダァン!
「これで、かっきり五頭だな。」
「今日はここまでか。んじゃ…下の奴らに合図だしておくか。」
小粋は辺りにある枯れ木を集め、火をつけた。
あえて生木を焚べ、煙を立ち昇らせては集落の人間に合図を送った。小一時間もすれば彼らが集落まで降ろしてくれるだろう。
あれから一週間ほど経った。集落の長たちは猟師が増えることに快諾し、小粋を迎え入れた。
小粋と陣太、二人の連携は完璧だった。
言葉を交わさずとも、陣太が追い込み、小粋が仕留める。あるいはその逆。
陣太はその阿吽の呼吸に、かつての友、茂助と共に山を駆けた日々を重ねていた。
「それにしても、こんなに背中を預けられる人間がいたとはな…」
「いや、小粋の腕がいいからだろう。お前さんなら何処の山に行っても困ることはないな。」
「当たり前だろ?だがな…一人は飽きた。」
小粋はじっと空へ上がる煙を見つめていた。
「どうだ?陣太。 アタシは狩りもできる。アンタとは境遇も似ているはずだ。もし、アンタがいいって言うならアタシは…ずっとここにいてもいい。」
熱を帯びた瞳で小粋が告げた。
「アンタとなら…いい
「な…なんだ。獣じゃあるまいし…」
それはまるで求婚のようで、戦友としての契約のようでもあった。
小粋の言葉に、陣太が複雑な表情で答えあぐねている時、小粋は陣太への誘惑的な表情を一瞬で消し、獣のような殺気を頭上へ向けた。
「…小粋?」
「……で? そうやって番を覗き見るのが趣味なのかい、山の主サマ?」
陣太が見上げると、高い枝の上に一羽の烏が止まっており、二人を冷ややかに見下ろしていた。
「鳥目のくせに、目ざといことだ。」
狼のように鋭い瞳で睨みつけて小粋は嗤うと、烏は一声を上げ、同時に突風が巻き起こった。
枯れ枝や落ち葉が舞い上がり、陣太が腕で顔を覆った次の瞬間、そこには颯が立っていた。
颯の表情は冷ややかだった。
「…陣太、離れろ。」
「颯…?」
「分からんのか?ソイツは人間じゃない。私と同じ…何かの化身だ…狼か?」
颯の言葉を受けた陣太はふと小粋を見返した。小粋は愉快そうに喉を鳴らして笑う。
「ハッ…人の正体をバラすなんて礼儀知らずな奴だな。まぁいいか。」
その途端、小粋の髪は更に伸び始め、黒から灰褐色へと染めていき、麗しい女性の身体へと変わっていく。
後ろには立派な狼の尻尾が生え、軍帽で隠していた頭には狼の耳がぴんと立っていた。
「小粋…?その耳…」
「悪いな陣太。こればっかりは隠せなんだ…」
嗤う小粋の犬歯が鋭く光った。
「初めましてだな、山の主サマ。アタシの名は
「…颯だ。」
颯と冴、二人で互いの正体を明かした瞬間、急に森の空気が張り詰めた。
「ぬけぬけと他所の山を…己の山はどうした?」
「そんなもの、人間にくれてやったさぁね。」
「…同じ山の主として恥ずかしくないのか?」
その言葉に冴は苛立ちながら、唸るように颯にまくし立てた。
「古臭ぇ…身体に苔の生えたジジイどもの考えだな。山など誰が治めても構わんだろ。それに人間は年を経る事に頭も術も身につけていく。ここ百年なんて目まぐるしい…いずれはアタシらなんて存在はもう、必要なくなるだろうさ!」
その吐き捨てた言葉にはどこか一抹の寂しさを抱えていた。
「やめろ…お前さんらは同じ者どうしだろ?いがみ合ってどうするんだ。」
陣太は二人の間に入った。
「…優しいなアンタは。ますます気に入った。」
陣太の仲裁に冴は機嫌を直し、彼の肩に手をかけた。次第に小粋の姿へと戻っていく。
「まっ、ここでやりあっても獣どもを怯えさせるだけだしな。それにアタシは腹が減った。」
「待てっ、話は終わってないぞ貴様っ…!」
「アタシはもう『小粋』として生きてんだ。山の主サマが人との関わりを邪魔してくれるな…?じゃあ陣太、今日はもみじ鍋と洒落込もうか!」
冴が陣太の背中を叩いて山を降りていく。陣太は「すまん…」と言い残してそのまま冴に押されるように山を下りた。
並んで小さくなっていく二人の後ろ姿に颯は心底つまらない顔をしていた。
その日の暮れ、陣太の家では当然のように居座っている冴の姿があった。
だが彼女の頭にはもう軍帽も手ぬぐいもない。狼の耳を少し垂らして晒していた。
囲炉裏には二人が準備したもみじ鍋が置かれ、夕餉の準備が整っていた頃だった。
ふと、ダンダン!と激しく戸が叩かれる音に陣太は急いで玄関へと赴いた。冴は
「そんなに強く叩かなくとも…」と小言を言いながら玄関を開けた先にいたのは行商の姿をした颯だった。
「ああ、困りました困りました。雪道で山を越せず…それに日も暮れて危のうございます。陣太様、恐れ入りますが一晩、宿をお願い頂けますでしょうか?」
颯はいつもの行商の格好で話す丁寧な言葉遣いではあるが、些か仰々しく、不機嫌そのものだった。
「さ、颯? お前さん、何故その格好で…?それに急に…」
「颯…?陣太様…私は『凛』でございますよ…?」
颯は陣太の返事も待たず、ドカドカと上がり込んだ。
「おっと…山の主サマの御成ぁりぃ。」
「おや、余所から来た猟師様でしょうか?行商を営んでおります、お凛と申します。」
「やめろやめろ猿芝居…酒が不味くならぁ。」
「……これなら文句はあるまいな?」
そう言って颯は冴の対面に陣取った。
囲炉裏を囲む三人。陣太を頂点に、颯と冴が向かい合っていた。その中で鍋はグツグツと音を立てている。
「おっ…そろそろ煮えた頃だな。椀を貸せ陣太。装ってやる。今日獲れた肉だからな、美味いぞ。」
「おう、すまんな。」
そう言って冴は陣太の椀を受け取った。集落の畑で採れた野菜と鹿の淡白な身に酒と醤油が染みた肉がお椀に装われる。
「…陣太、杯が空だな?注いでやる、貸せ。この山の水で作られた酒だ…よく二人で飲んだよな?」
「おっ…そ…そうだな。」
颯と陣太がよく交わして飲む蒸留酒が杯に満たされる。
陣太はゆっくりと杯を啜るが何処か味を感じなかった。今夜は外は吹雪いていなければここは家の中だというのに。
両端の酒が進むとさらに雰囲気が悪くなった。
「アタシは東の山を治めてたんだがな?人間どもが鉄の道を通しやがるんだ。まぁ見ていて面白いんだがな。大きな鉄の塊が煙を吐いて我が物顔で走るんだ。こりゃ勝てるはずがないって思ったね。」
颯は不機嫌ながらも冴の話に耳を傾けていた。人の作るものや術に興味があるのは颯も同じである。
「それに比べればここの山は静かでいい…まっ、アタシと陣太なら何処の山でも食っていけるがなっ!」
冴は笑いながら陣太の腕に触れた。その光景に颯の眉間の皺が深くなる。
颯は生まれて初めて、胸の奥が焼けるような小さな棘が何度も刺さるような不快感を覚えていた。
「そういや陣太。尾根の所に熊の足跡があったな?明日は熊撃ちだ。集落の奴らに何かあっては遅いからな。アタシとアンタで挟み撃ちにすれば容易くいい毛皮が取れるだろ。どうだ?二人で一汗かこうじゃないか。」
「…ならん。」
颯はいつもの威厳のある口調で割って入った。
しかしどこか我儘をいう子どものようでもあった。
「あぁ…?行商の嬢ちゃんが口を出す了見か?」
「…明日は私と街へ降りる手筈のはずだ。そうだろ?陣太。」
陣太は聞いていない話に目を白黒させた。山の麓にあるこの集落から十数里ほど離れた所に街がある。陣太も時折街へ降りては弾や金物を買いに出かけていた。
「集落のために色々と調達しなくてはな。それに私の荷は重いのだ。色々と男手が必要だ。ならばお前が共にしようと言ったではないか。」
二人の化身の火花に、陣太は我が家だと言うのに居心地の悪さを感じつつも、颯の「街へ降りる」という言葉に、ふとあることを思い出した。
彼は隅においてあった銃剣を抜き、刃こぼれを見つけた。
「…そういえば、そろそろ研ぎに出さないとだったな。」
「ん? ああ、今日の解体で骨に当てちまったか?」
「街に、腕のいい研ぎ師がいるんだ。甚八っていうんだが…」
「そうか…!ならば丁度いい。明日は街へ行くぞ。」
陣太の言葉に颯はすっかり機嫌を戻し、そして冴を見下ろしていた。
それに見向きもせず彼女も短刀を抜いては刃を改めた。
「へぇ…腕利きか。そういやアタシの短刀にもガタが来てたんだ。よし、アタシも行くぞ。」
「なっ…貴様っ!」
「か弱い女行商ちゃんの護衛は多いほうがいいだろ? なっ、陣太。」
「…まぁ、お前さんのも喜んでやってくれるだろう。」
「頼む、早く明日になってくれ」そう思いながら陣太は冴に装われたお椀を只管にかき込んだ。
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