第2話 華やかな牢獄

「マァガレ!」


 雷震レイジェイの声が、朱華楼に響いた。侍女達は驚き、急いで部屋の隅に引き下がり傅く。ルビが出産中であるのに、寵妃の部屋に来るとは。もしルビが知ったら、大変なことになる。侍女達は互いに視線で合図し合い、困った顔で肩を竦めた。


 爽やかな風も太陽の光も入らぬ薄暗い中に、蝋燭を中に入れた天燈が幾つも浮かぶ。侍女達に磨き上げられ黒光りした床に、天井から朱色のジュアンの帳が幾重にも垂れ下がっていた。雷震がそれを一枚一枚たくし上げながら、必死でマァガレの姿を探すのを、侍女達は微笑ましく眺めた。あの王太子にも、こんなに可愛らしい一面があるのかと。


 雷震は透けるほど薄い朱赤の絹衣を素肌に巻き付け、足音を響かせながらマァガレの名を呼ぶ。その姿を見て、侍女達は湯の支度を始めた。


侍女達の予想通り、衣を脱ぎ捨てた雷震が、腰布だけの姿でマァガレの元に現れた。猛虎の男らしい、小柄ながら堅い筋肉に覆われた体。背中に垂らした髪の間から、先日の戦で負った刀傷が見えた。マァガレは恐ろしくなって、静かにそれから視線を逸らす。


「雷震様、まだこのような格好で。申し訳ありません」

「まぁ、いい。ルビの死にそうな悲鳴が耳について、眠れないんだ。それにこの蒸し暑さ。この部屋が一番涼しいからな。一緒に、湯にでも浸かろうではないか」


侍女達は予想が当たったことに笑い合い、小走りで湯に入れる蘭の花を摘みに行った。


「ルビ様のお傍にいなくても宜しいのですか?初めての出産で、心細いでしょうに」


それを聞くと、雷震はなんとも嫌そうな顔で肩を竦めた。


「お前の倍の年で、初めての出産だ。女の執念というのは恐ろしいな。ルビはお前への対抗心だけで、孕んだのだ。執念の子供がどんな顔をして生まれてくるか、俺は恐ろしいのだよ」


 雷震が娘の海生ハイサンを抱き、その柔らかく白い頬に髭面を擦りつける姿を見ながらマァガレは考えた。このような夏を何度繰り返せば、この男から解放されるのだろうかと。


 海生は乱暴な抱き方に身を捩り、力の限りの泣き声を上げた。すると途端に不機嫌になり、侍女達を呼びつけて海生を押しつける。


「雷震様、赤子は泣くのが仕事なのですよ」

「お前と同じで、俺に反抗的なんだよ」

「私は雷震様に、逆らったことはございません」

「俺は、お前の身体だけではなく、心も欲しいのだ」


雷震はマァガレの前では、自分の欲望を口にせねばならなかった。他の場所では、眉一つ動かすだけで、侍女達が甲斐甲斐しく世話をしてくれる。猛虎国の王太子の目に留まり、いつか寵妃の座を得るのだと虎視眈々と狙っている。そのような狡猾な視線の女を、雷震は心底嫌っていた。



「雷震様、貴方様は私の夫を、父を、兄弟達を殺したのですよ。そんな貴方様に、何故私の全てを差し出せましょう」


雷震はマァガレの声が、好きだった。城の者は抑揚がない冷たい声だと言うが、そうは思わなかった。以前、猛虎国奥地の鍾乳洞を散策したおり、地下水が天井から洞床に落ちる音を聞いたことがある。雷震はお付きの者達を黙らせ、その音に暫く耳を傾けた。たった一つの小さな滴が、鍾乳洞の中の空気を遠くの方まで揺らす。マァガレの声は、それを連想させる。


「まぁ、良い」


雷震はマァガレの手を引き、浴室に向かった。


 五つの花びらを模った浴槽は、ヌクへ村から取り寄せた翡翠色の石を敷き詰めてある。


寵妃の浴室に勿体ないとルビが顔を顰めたが、雷震は意に介さなかった。この翡翠色の石には傷を癒す力があり、武雄殿の浴槽にも幾つか沈めてある。


 湯船には朱色の蘭が浮かび、濃厚な甘い匂いを漂わせていた。雷震は豪快に飛び込み、マァガレが、白い夜着の帯を解くのを眺めた。長い髪を頭の上に纏めると、夜着は足元に柔らかく落ちる。湯気の中にいるマァガレは、今にも消えてなくなりそうだ。雷震は不安になって浴槽から手を伸ばし、その細い足首に指を這わせる。


「お前を見ていると、なんだか不安になるよ。いつの日か、この湯気のようにいつか消えてなくなってしまうのではないかと」


マァガレが少しだけ微笑み、湯の中に体を沈める。蘭の花を掻き分け雷震の傍に行き、香木シャンルーで出来た櫛をその髪にあてた。


「お前はいつの日か、私を愛してくれるのか」

「望みが二つだけあります。それを叶えてくださったら、きっとこの心も貴方様に捧げましょう」



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