恋の時効、終わらせる勇気

「小学校と高校が一緒だった落合くんとさ、付き合うことになったの」


その言葉を聞いた瞬間、視界の奥がふっと滲んだ気がした。


カフェのテーブルを挟んで座る洋子は、私の大切な親友だった。


小さな頃からずっと一緒にいて、誰よりも多くの時間を共有してきた。


お互いに社会人になってからも、三ヶ月に一度くらいのペースで会っている。


今も私の部屋の引き出しには、彼女からもらった手紙や写真がしまってある。


保育園での遠足、初めて一緒に作ったバレンタインチョコ、勉強で悩んで夜通し語り合った高校時代。


どの記憶も鮮明に思い出せる。


そして、その中にはら疎に落合武くんがいた。



「そうなんだ。洋子ちゃん、おめでとう」


私は精一杯微笑んで、そう言った。


声は震えていなかったと思う。


自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にできた。


テーブルの向こうで、洋子が安堵したように笑ったのを見て、心のどこかがじわりと痛んだ。


洋子が幸せになるのは、私の願いでもあるし、嬉しいはずだった。


だけど、その言葉を聞いた瞬間、私の胸に蘇ってきたのは、封印したはずの記憶だった。



あの日のあの約束。


小学校の卒業式の日、私は武くんと、来たるべき未来を信じて手を取り合った。


「高校でまた会おうね」


「うん、絶対だよ」


オレンジがかった空の下、体育館の外階段で交わしたあの言葉を、私はずっと大事にしてきた。


武くんとは中学では離れ離れになったけれど、連絡は続いていた。


些細なスタンプのやり取りや、部活の話、親の愚痴、何ラリーしたかも分からない。



高校で再会できたとき、私は心の奥があたたかくなるのを感じた。


武くんは少し背が伸びて、たくましくなっていたけれど、笑顔と雰囲気はあの頃のままだった。


でも、時が経つにつれて、彼の視線が少しずつ私から逸れていくのを感じた。



話す時間が減り、笑い合う時間が少なくなり、気付いたときには、彼は洋子の隣で笑っていた。


ふたりの距離が、私と彼の距離よりもずっと近いものになっていた。


洋子は何も悪くない。


彼女が落合くんと気が合うのは、よく分かっていた。


趣味も近くて、性格も柔らかくて、そばにいると自然に笑顔になれる子だ。


そんな洋子だから、私はずっと一緒にいた。


彼女が泣くときは、私も泣いた。


彼女が笑うときは、私も笑った。


だから、私はあの言葉を言った。



「洋子ちゃん、私と武くんのことは……もう時効だと思ってるの」



カップを握る指が少しだけ震えたけれど、どうにか笑顔を保った。


夕暮れの光が窓から差し込んで、カフェの中に柔らかな影を落とす。


目の前の洋子は、何も言えずにただ頷いた。


そう。


もう、時効にしなきゃいけない。


そう思いたかった。



私が落合くんに初めて想いを伝えたのは、小学五年の冬だった。


誕生日のプレゼントを選ぶのに迷って、洋子に相談したら真剣にアドバイスしてくれて、ラッピングまで一緒に考えてくれた。


バレンタイン前日、洋子の家で一緒にチョコレートを作ったこともいい思い出だ。


溶かしたチョコが甘い香りを放ち、クッキーの表面にメッセージを書きながら、私はどきどきしていた。


「美味しいって言ってくれるかな?」


私がそう言ったとき、洋子は笑ってうなずいた。


あのときの彼女の表情が、今でも記憶の中で微かに滲んでいる。


ただ、ほんの少しだけ笑顔の奥に影があったような気がして、何度も思い返してしまう。



小学校の卒業式、武くんにこれからもお互いを大事にしようと言った時、彼も同じ気持ちだと言ってくれた。


そのときの喜びと不安と、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、涙があふれそうだった。


「高校で再会しようね」


約束を交わした私たちは最後にキスをして、別々の中学へ進学した。



中学に入ってからも連絡は途切れることはなく、彼のバスケ部の話、私の吹奏楽部の練習の話、お互いのテストの点数で笑い合ったりもした。


けれど、再会した高校で、彼の隣にいたのは私ではなかった。



武くんが洋子と楽しそうに話しているのを見たとき、心のどこかがじんわりと痛んだ。


彼はいつも洋子の話に笑い、洋子のクラスに顔を出していた。


私が同じクラスであるのに、あまり目を合わせようとしない武くんの態度に、気づかないふりをするのは簡単ではなかった。


私はそれでも、ずっと笑っていた。


洋子に「最近、落合くんと仲いいね」と言われるたび、うまく笑う練習をしていた。


夜、布団に入ってから、ひとりで枕を濡らすような夜が続いた。


言わなければよかったのか、告白なんてしなければよかったのか、そう思ったこともあった。


でも、あのときの武くんの笑顔は、たしかに私に向けられていた。


それだけは、今でも信じている。


高校を卒業して、それぞれが違う大学に進学した。


自然と距離はできて、それでも洋子とは連絡を取り合っていた。


たまにカフェで会ってバイトのこと、サークルのこと、最近読んだ本のこと、大学での小さな出来事。


そんな中で、たまに、ほんの一瞬、落合くんの名前が洋子の口からこぼれることがあった。


私がその名前にどう反応すべきか、何年経ってもわからなかった。


私にとって、武くんは「初恋」だった。


そしてその初恋は、きれいなまま終わらなかった。


曖昧なまま離れ、気づいたときには、彼の心はもう別の方向に向かっていた。


私は彼を責めることも、洋子を責めることもなく、ただ黙っているしかなかった。


その選択が正しかったのかどうかは、今でもわからない。


でも、「奪われた」と思いたくなかった。


彼の気持ちは、彼のものだ。


誰にも所有されるべきものではないと、わかっていたから。



だから私は、「時効」という言葉を使った。


あの一言に、私のすべてを詰め込んだ。


洋子が選んだ道を祝福し、彼女の顔を曇らせることなく、友情をそのまま維持するために。


友情にヒビが入るくらいなら、私は「終わったこと」にしてしまいたかった。


何年も前の約束なんて、もう誰も覚えていないふりをすればよかった。



だけど、本当は忘れてなんかいない。


あの日、武くんと握った手のぬくもりも、唇の感触も、目を見て言葉を交わしたあの瞬間も、全部、ちゃんと覚えている。


きっとこれからもずっと、忘れられないまま心の奥に残る。


だけど、それでも私は進まなきゃいけない。


私は「時効」と言った、言ってしまった。


ならば、その言葉に責任を持たなきゃいけない。


誰かを責めることで保つ心の平穏じゃなくて、自分の中で消化する強さが欲しかった。


悔しさも、寂しさも、全部まとめて、自分の中で静かに沈殿させる時間、そんな時間が必要だった。


あの言葉を口に出すのに、私は何年もかけた。


「時効だと思ってるの」


言葉を告げたとき、洋子の顔がほんの一瞬だけ動いた気がした。


目が揺れて、唇がわずかに開いたけれど、何も言わなかった。


私の言葉が重すぎたのかもしれない。

優しすぎたのかもしれない。

残酷すぎたのかもしれない。


私の中の「武くん」は、もう過去になっている。


けれど、「洋子と武くん」のことは、これからの時間の中で育っていく。


だからこそ、私は後ろ向きな感情に飲み込まれて、親友の幸せを願えなくなるのは嫌だった。


本当に大事な人だから、それを祝福したかった。


だけど、胸の奥には、たしかに小さな痛みがあった。


嫉妬でもなく、未練でもない。


もっと深い、言葉にできない感情だった。


私はそれをずっと、自分の中に閉じ込めてきた。


そして、ようやくそれに名前をつけた。


「終わらせる勇気」だ。


自分がかつて好きだった人を、自分の手で過去にするということ。


そこにはたしかに痛みがあって、でもそれはきっと、優しさと隣り合わせにあるものだった。



洋子が席を立ったあと、私はカフェに一人残って冷め切ったコーヒーを飲み干した。


その苦みが不思議と心地よかった。


帰り道、夜の街を歩きながら、スマホの画面に洋子の名前が浮かんでいた。


今日のメッセージには、私が一番最初に返信した。


「会えてよかったよ。また話そうね」


送信ボタンを押す手は、もう震えることはなかった。


家に帰って、窓を開けて夜風を感じながら、私はひとつだけ小さくつぶやいた。


「さようなら、武くん」

そして

「ありがとう、洋子ちゃん」



私たちはもう子どもじゃないから、恋をして、傷ついて、それでも誰かの幸せを願えるようになった。


それはきっと、少しだけ誇ってもいい「成長」なのだと思った。



そうだ。

きっと、これでいい。



夜空には星が瞬いていた。


その光の中に、私たち三人の過ごした日々が、静かに溶けていく気がした。


もう戻らないけど、でも、確かにあった。


だから、これからはもう「親友」じゃないかもしれないけれど、呼び方が変わったって、私たちの関係が消えるわけじゃない。


その名前が「腐れ縁」だったとしても、私はそれを、大切にしていける気がした。




<あとがき>

仲良しを腐れ縁と呼べる関係性が羨ましい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る