第13話 消えた果実
ポカリスの朝は、いつもより静かだった。
サバカンの吐き出す灰が風に舞い、薄く黒い帯を描いている。
レンは作業台の上に立てたブレンダーのスイッチを入れた。
Aサボテンの果実が、淡い緑の果汁と一緒にとろりと混ざっていく。
ミキサーの音が止むと、船内にかすかな甘い香りが満ちた。
「塩を……ひとつまみ」
指先で落とすと、グラスの中の液面に小さな渦が広がる。
Aサボテンのスムージーは、すっきりとした酸味と、砂糖を使っていないのに自然な甘さがあった。
冷たい果汁が空気の乾きをやわらげ、喉をすべっていく。
「味覚推定……幸福指数一一五%。理想的なのだ」
「数値で言うなっての。せっかくの朝飯が、実験みたいになるだろ」
「だが、ご主人の心拍数と表情筋の動きが、幸福反応に一致しているのだ」
「はいはい、ありがと。機械に幸せを診断されるのも悪くないな」
レンは笑いながら、グラスを傾けた。
サボテン果汁の冷たさが舌に触れ、胸の奥まで染みていく。
外は乾いた砂の世界でも、この一杯だけは――潤いのある時間だった。
「……こうして飯がうまいだけで、生きてるって気がするよな」
「それを“文明”と呼ぶのだ、レンご主人」
「どの口が言うんだよ。お前の文明、数字と効率しかねぇじゃん」
「効率とは、美なのだ」
「その感性、いつかアップデートしてやる」
⸻
朝食を終えると、二人はタイムカプセルの前に立った。
青白い光が、船内の壁に柔らかく反射している。
「保存状態、完全維持。食料・種子・医薬品、劣化率ゼロなのだ」
「飢えないってだけで、人生のストレスの半分は減るな」
「それは効率的幸福の典型例なのだ」
「効率的幸福、ねぇ……。でもさ、時間が止まってるって、便利なのに、なんか怖いよな」
クボタの目が淡く点滅した。
「停止とは保存。保存とは過去の延命。時間を止めることは、未来を失うことなのだ」
「未来を失う、か……。確かに、止まってるもんは進まねぇもんな」
「進むことは、劣化でもあるのだ」
「じゃあ俺ら、劣化してんのか」
「誇るべきことなのだ、レンご主人。劣化とは、生きている証拠なのだ」
「……うん、なんか今日ポエミーだなお前」
⸻
昼。
オアシスの縁に、小さな畝がいくつも並んでいた。
そこにレンはAサボテンの種を植えていく。
クボタが土壌センサーを調整しながら、滴り潅水を制御していた。
「照度二十ルーメン。水分保持率七十パーセント。発芽条件、理想なのだ」
「そうか。……なんか、地球のベランダ菜園みたいだな」
「ベランダとは何なのだ」
「生まれた星の文化遺産だよ」
レンは微笑みながら、黒土を両手ですくった。
「土の匂いって、いいな。何もなくても、これがあるだけで生きてける気がする」
「嗅覚刺激によりセロトニンが分泌されているのだ」
「お前、雰囲気ぶち壊す天才だな」
⸻
夜。
船の外では、サボテンの芽がわずかに光を放っていた。
レンは作業台の上で、ひとつのAサボテンの果実を手にしていた。
「なあ、クボタ。俺の転送って、未来にも送れたりするのかな」
「理論上は不可能ではないのだ。ただし、未来はまだ“存在”していないから予測が不能なのだ」
「存在してない?」
「時間座標が確定していないのだ。過去は記録によって位置づけられているけど、未来は観測されない。したがって転送先が定義されないのだ」
「……なんだか授業みたいだな」
「現実なのだ」
レンは果実を持ち上げて、軽く息を吐いた。
「じゃあ、“過去”なら?」
「それは、レンご主人が最初に成功させた実績があるのだ」
「あの植木鉢のときか。……だったらさ、これも過去に送ったらどうなる?」
「何を送るのだ」
「Aサボテンの果実だよ。過去の俺がそれを受け取って種を蒔けば、今この辺りは全部サボテン畑になってるって寸法」
「理論的には、因果律が破綻するのだ」
「やってみなきゃわからねぇだろ」
⸻
レンは両手で果実を持ち、軽く目を閉じた。
過去の光景を思い浮かべる。
焦げた砂、風、孤独な自分、そして初めて芽を見た瞬間――。
空気が微かに震えた。
掌から光が溢れ、果実がゆっくりと消える。
レンはしばらく待った。
周囲を見回す。
だが、何も変わらない。
「どういうことだよ。送ったんだぞ!?」
クボタは光学センサーを瞬かせ、慎重に答えた。
「転送自体は成立しているのだ。だが、対象が“どこにも届かなかった”のだ」
「どこにもって……おい、それ、宇宙に放り出したとかじゃねぇよな?」
「座標情報が未確定。おそらく“イメージ不整合”による消失なのだ」
「いめ……何だって?」
「レンご主人の脳内座標が曖昧すぎて、時空が困惑したのだ」
「いや、俺だってちゃんと“過去に送る”って思ってたぞ!」
「“過去のどこに”?」
「……うっ」
沈黙。レンの眉がぴくりと動いた。
「……あっ! わかったぞ!」
勢いよく指を立てる。
「前に鉢を送ったときは、あの鉢そのものを、ちゃんと頭に浮かべてたんだ。形も、ヒビの入り方も、置いてた場所も全部! つまり――同じ“物”を、同じ“イメージ”で思い浮かべたから届いたんだ!」
「なるほど。今回は?」
「今回は……えーと……“なんとなく過去にあるっぽい場所”をイメージした」
「それでは届くはずがないのだ。宛名のない荷物なのだ」
「うるせぇな、言われなくてもわかってるよ!」
レンは頭を掻きながら、それでも急に顔を上げた。
「でも逆に言えばだ、同じ鉢をもう一個見つけりゃいいんだよ! 前とまったく同じ形、同じ質感、同じ……なんかこう、命の重みを感じるやつ!」
「曖昧な条件すぎて再現困難なのだ」
「うるせぇ、探す! 絶対探す! あの植木鉢があれば、また過去に送れるはずだ!」
クボタのセンサーがかすかに光った。
「理論的根拠は乏しいが……情熱値は異常に高いのだ」
「だろ? 俺の情熱、時空すら曲げるかもしれねぇからな!」
「それでまた爆発しないことを祈るのだ」
「お前、それ一回やったやつの言い方やめろ」
「統計的事実なのだ」
「うるせぇ!」
レンの笑い声が砂の夜に響いた。
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