第一章 第三話 揺れる灯



灯の舎の二階。


軋む床の上に薄い布団が敷かれ、祭華まなかはその上に横たわっていた。

外は静かで、遠くの川のせせらぎがかすかに聞こえる。

町のあかりが消え、魂響たまゆらの夜は――まるで誰かが呼吸をひそめているように静まり返っていた。


眠れない。


理由は分からない。ただ胸の奥が、ざわついていた。


窓の障子を少し開けると、夜風が頬を撫でた。

風は冷たく、そして懐かしい匂いがした。

草の香りと、淡い鉄の匂い。

――清(しん)の匂いだ。



しん……?」



声に出した瞬間、風が微かに揺れ、障子が鳴った。

その音の向こうに、何かがいる気がした。

だが、誰もいない。



いや――屋根の上。



月明かりの下、黒い影が動いた。

軽い、だが確かな足音。

それは人のそれではなく、風のように柔らかで速い。


祭華まなかは無意識に立ち上がり、布団の脇に立てかけていた刀を手に取る。

障子を静かに開け、外を見下ろす。

風が、また囁いた。


(行け、と言っている……?)


見下ろすと、そこに居た影がこちらを振り向いた。

月光を背にした輪郭は――二つの尾を持っていた。

細い尾がゆらりと揺れる。

だが、目が合った瞬間、影は音もなく消えた。


祭華まなかはその場で動けなくなった。


見間違い? 幻覚?


それとも――。


夜は再び静けさを取り戻した。

刀を握る手が、少し震えている。

風は何も答えず、ただ髪を揺らした。



朝。

階下に降りると、香ばしい出汁の匂いが漂っていた。

大男ーー店主の楽空らくうが包丁を握り、静かに魚を捌いている。

しのが湯気の立つ味噌汁を運び、たまが元気よく声を張り上げた。

どうやら朝食の準備をしていたようだ。



「おはよう! ……って、寝癖ひどいよ、祭華まなかちゃん!」


「……あ、うん。寝癖……?」



祭華まなかは無意識に髪を触った。



「まったく、夜更かしでもしてたんじゃない? 灯が消えた後は風が冷たいんだから、風邪ひいちゃうよ!」



たまはそう言いながら、笑顔でお盆を抱えて朝食を運んで行く。

その横顔が――ふと、昨夜の月影と重なった。


尾のように揺れる髪。

目の奥に光る、獣のような輝き。

ほんの一瞬だったが、祭華まなかは息を呑んだ。


(……まさか、ね)


「どうしたの? ぼーっとして」



たまが振り向き、笑った。

その笑顔は、あまりに自然で。

“何も知らない”顔をしていた。


しのが茶を置きながら、穏やかに言う。



「この町の風はね、夜になると逆に流れるんですよ。山の方から海の方へ。だから昔から“風が記憶を運ぶ”って言われててね」


「記憶を……運ぶ?」


「そう。昔この町で亡くなった人たちの想いとか、消えた声とか。それが風に乗って漂ってるんです」



祭華まなかはゆっくりと窓の外を見た。

朝の風が、やわらかく吹き抜ける。

どこか遠くから、名を呼ばれたような気がした。


――また、風が呼んでいる。


彼女は胸の奥でそう呟き、静かに刀の柄を握った。

その瞬間、どこかで、鈴のような音が響いた。

魂響たまゆらの町の“あかり”が、かすかに揺らめいた。


それが、嵐の前の静けさであることを――

まだ誰も、知らなかった。


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