第一章 第三話 揺れる灯
灯の舎の二階。
軋む床の上に薄い布団が敷かれ、
外は静かで、遠くの川のせせらぎがかすかに聞こえる。
町の
眠れない。
理由は分からない。ただ胸の奥が、ざわついていた。
窓の障子を少し開けると、夜風が頬を撫でた。
風は冷たく、そして懐かしい匂いがした。
草の香りと、淡い鉄の匂い。
――清(しん)の匂いだ。
「
声に出した瞬間、風が微かに揺れ、障子が鳴った。
その音の向こうに、何かがいる気がした。
だが、誰もいない。
いや――屋根の上。
月明かりの下、黒い影が動いた。
軽い、だが確かな足音。
それは人のそれではなく、風のように柔らかで速い。
障子を静かに開け、外を見下ろす。
風が、また囁いた。
(行け、と言っている……?)
見下ろすと、そこに居た影がこちらを振り向いた。
月光を背にした輪郭は――二つの尾を持っていた。
細い尾がゆらりと揺れる。
だが、目が合った瞬間、影は音もなく消えた。
見間違い? 幻覚?
それとも――。
夜は再び静けさを取り戻した。
刀を握る手が、少し震えている。
風は何も答えず、ただ髪を揺らした。
*
朝。
階下に降りると、香ばしい出汁の匂いが漂っていた。
大男ーー店主の
どうやら朝食の準備をしていたようだ。
「おはよう! ……って、寝癖ひどいよ、
「……あ、うん。寝癖……?」
「まったく、夜更かしでもしてたんじゃない? 灯が消えた後は風が冷たいんだから、風邪ひいちゃうよ!」
その横顔が――ふと、昨夜の月影と重なった。
尾のように揺れる髪。
目の奥に光る、獣のような輝き。
ほんの一瞬だったが、
(……まさか、ね)
「どうしたの? ぼーっとして」
その笑顔は、あまりに自然で。
“何も知らない”顔をしていた。
「この町の風はね、夜になると逆に流れるんですよ。山の方から海の方へ。だから昔から“風が記憶を運ぶ”って言われててね」
「記憶を……運ぶ?」
「そう。昔この町で亡くなった人たちの想いとか、消えた声とか。それが風に乗って漂ってるんです」
朝の風が、やわらかく吹き抜ける。
どこか遠くから、名を呼ばれたような気がした。
――また、風が呼んでいる。
彼女は胸の奥でそう呟き、静かに刀の柄を握った。
その瞬間、どこかで、鈴のような音が響いた。
それが、嵐の前の静けさであることを――
まだ誰も、知らなかった。
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