【お試し版】梁山行 Fatal Errors 108

一條茈

INTRODUCTION

 長きにわたる内戦が終わり、皇帝のもと統一された宋華そうか帝国は、束の間の平和を謳歌していた。

 だが、内戦で疲弊し弱体化した東の雄は、そこに付け込まんとする多くの外敵を未だに抱えていた。

 国土の北部は大国ルシンを後ろ盾とする旧ゴロキタイ軍の残党・マルガル人民戦線の支配下にあり、島国フサンや宗教国家シンドゥ連邦、さらには東南群島も虎視眈々と宋華の動向に目を光らせている。

 代々の皇帝は平和と風流を愛したが、一方で軍事力の強化は帝国にとって急務となっていた。

 平和の陰で再び戦争の足音が忍び寄る、そんな時代に、それは起こった。


 ある時、極めて致死率の高い強力な感染症が宋華で猛威を振るい始めた。

 この緊急事態を受け、皇帝と政府は、国内最高峰の研究機関である竜虎山りゅうこさん軍事科学研究所にワクチンの早急な開発を命じた。

 研究所の所長であり帝国随一の科学者である張教授は、ものの半月でワクチンを開発。その報告を受けた皇帝は、新任の国防部近衛軍大尉・洪信こうしんを研究所に派遣し、成果の確認と今後の全国民へのワクチン投与計画を協議するよう告げた。

 研究所に出向き、命じられた通りの任務を遂行した洪信は、高位の軍人ですら勅命がなければ立ち入りを禁じられている施設に純粋な好奇心がわいた。

 普段自分たちが使っている高科学兵器も、その出番を今かと待っている大型生物兵器も、すべてがこの施設で開発されているのだから。


 そして気が付けば洪信は、研究所内でも最も厳格に立ち入りを制限されている区画に足を踏み入れていた。

 生体認証でしか開かないはずの扉は、「洪ニ遇イテ開ク」という機械音声とともに洪信を招き入れた。

 薄暗い廊下を暫く歩くと、広大な空間が目の前に現れた。

 最新鋭の機械や兵器が並ぶ様を想像していた洪信は、言葉を失った。

 巨大な水槽に浮かぶ、いくつもの死体。人間の形をとどめていない生物。立ち込める臭気。巨大な画面に浮かぶ、理解不能な図や数字。その上に、血の色で表示された、「魔星計画」の文字。

 だが、若く正義に燃える大尉は、明らかに常軌を逸した光景を前にして己の使命を思い出した。

 この国を、この国の民を、国益を守ること。

 こんな大規模な人体実験を、許していいはずがなかった。張教授を問い詰めなければならなかった。だが一体、これは何の実験なのか、知らなければ。隠される前に。

 ――洪信が、そのタッチパネルに触れたのは、純粋なる使命感からだった。

 『遇洪而開』

 巨大なディスプレイがその四字でびっしりと埋め尽くされたと思った次の瞬間、光の洪水が起こったかのように、この区画の、そして研究所内のすべてのディスプレイが異常な画面を映し出した。

 「ああ、触ってしまったんですね」

 茫然とする洪信の背後から、張教授の柔らかな声が響いた。まったく悪びれも焦りもしないその声の主を、洪信は問い詰めた。

 「これは国家機密ですが……あなたは陛下の勅命でいらしたのだから、知る権利があるでしょうね」

 張教授の口から語られたのは、およそ洪信の理解の範疇を超えた話であった。

 大きくなる一方の外敵の脅威。増大し続ける軍事費。将来的な軍事費の削減と、コストパフォーマンス向上のために考え出された「一騎当千の死なない兵士」。

 「DNA改変による特殊能力発現のために、人体実験をお許しくださったのは陛下です」

 めまぐるしく光を放つディスプレイを見つめる張教授は、楽しそうですらあった。

 「後天的に特定の能力を引き出すための実験は成功し、すでに一部の兵士に手術を施してすらいる。ですが、先天的に完全な力をもった個体の開発は未だ成功していません。ああ、そうそう、貴方がさっき触ったのは、実験のエラーデータですよ。あまりにも強力過ぎて制御できない、『DNA改変による特殊能力発現実験に関する108の致命的なエラー』。そのエラーデータが今、あなたの手で、ウィルスとなって研究所内のすべてのシステムにばらまかれた。所内のシステムには普段どおりロックがかかっておりますが、そう言えば感染症ワクチンを生成するためのシステムだけは、先ほどあなたにお見せするため、ロックを外したままでしたね」


 洪信は、正義に燃える男だった。

 だが、己の軍人生命を、いや、生命そのものを投げ出して罪を受け入れられるほど、強い人間ではなかった。

 科学に関しては素人である洪信には、108のエラーがワクチンに与える影響を想像することはできなかった。

 ただ一つ確かなのは、「一騎当千の死なない兵士」を超える化け物のような存在を、この世に解き放ってしまったということだけ。

 「このワクチンは確か、すべての国民への投与が義務付けられていましたね。まあ、安心してください。DNA改変の影響は、遺伝によってのみ発現します。あなたが生きているうちは、誰にも知られることはないんじゃないですか?」

 洪信にできたことは、研究所内のすべての人間に対して口止めをすることだけだった。


<了>

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