第十三章∶ミイロタテハの沈黙
それからの日々は、言葉にしづらいほど静かに傾いていった。
最初に学校を休んだのは、一度きりのつもりだった。
頭が痛いと感じたのか、心が重かったのか、自分でもよく分からない。
けれどその朝、制服に袖を通す手が止まったまま、結局動かなくて──
俺は、布団の中に埋もれた。
スマホは見なかった。
グループLINEも、メッセージも、通知はすべて無視した。
けれど、昼前。
玄関の開く音がして、
その直後、あたたかい匂いと一緒にやってきた気配があった。
「……お兄さん、だいじょうぶ?」
声をかける前に、ロアは俺の布団に潜り込んできた。
いつものように、何のためらいもなく、まるでここが定位置だと言わんばかりに。
俺は、寝たふりをしていた。
けれどロアは気づいていたと思う。
それでも何も言わず、黙って俺の背中に手を回し、静かに抱きしめてきた。
「……ねえ、今日は、なにもしなくていいよ」
耳元で、そっと囁くように。
「学校も、勉強も、誰かの目も。ぜんぶ、いらない」
その声はとても優しくて、でも──
なぜだか、ひどく危険だった。
「……お兄さんのこと、わたしが見てるから。ぜんぶ、見てるから」
布団の中の世界は暗くて、温かくて、何もかもから隔絶されていた。
その中でだけ、俺は安心して呼吸ができる気がしていた。
数日が経った。
気づけば、学校を「休む」ことに、何の違和感も覚えなくなっていた。
部屋にはロアがいた。
先に家に来て、掃除をして、洗濯をして、食事を用意して。
静かに、何も言わずに、ただ、そばにいてくれた。
「お兄さん、今日はちゃんと食べた、えらい」
「ちゃんと顔洗って、えらいね」
「外に出なくても、だいじょうぶだよ。壊れてても、わたしはずっといるから」
それらの言葉は、俺に必要を感じさせた。
なにか成し遂げなくても、ここにいていい。
誰からも評価されなくても、ひとりじゃない。
そんな感覚が、あの桃色の髪飾りとともに、家の中に染み込んでいった。
ロアは、俺がどんな状態でも微笑んでいた。
汗をかいても、無気力で一日中寝ていても、
部屋が散らかっていても、何日も着替えをしてなくても。
「お兄さんが、なにもしないなら、わたしが全部やるよ」
それは、甘い申し出だった。
けれどその言葉の先にあるものは、もはや支えではなく──
共に沈もうとする覚悟のようだった。
「だから、安心して。壊れてもいい」
その囁きは、どこまでも優しくて。
けれど、逃げ道をすべて塞ぐように、やさしさの皮を被っていた。
俺はまだ気づいていなかった。
──このままでは、自分の輪郭すら、彼女に溶かされてしまうことを。
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