第十章∶承認のアサギマダラ
そんな生活が、まるで正しい日常のように続いた。
学校に行き、部活をして、家に帰るとロアがいる。
玄関の靴がひとつ増えていて、洗濯機が回っていて、ソファには青い髪の女の子が静かに座っている。
俺が帰る時間を、ロアは正確に把握していた。
時間のズレがあっても、彼女はもう待つことになれている。
まるで、家の中に組み込まれた機能みたいに、俺が帰るまでの時間を、当たり前に過ごしていた。
気づけば春が過ぎ、制服の袖も半袖へと変わり──
ロアは、進学した。
「……今日から、わたしも中学生になったの」
初めてその制服を着て現れた日のことを、俺は今でもよく覚えている。
紺色のブレザーに、水色のリボン。
きちんと整えられた前髪の下で、彼女の目だけが──いつもと変わらず、
どこまでもこちらだけを見つめていた。
けれど、それよりも目を引いたのは、髪に留められた飾りだった。
桃色の、蝶の髪飾り。
翅の先端がふわりと揺れる、薄絹の細工。
「それ……新しいやつ?」
「……うん。進学祝い、わたしから、わたしへ」
そう言って、ロアは目元をわずかに細めた。
「どうかな……お兄さん、すき?」
唐突な問いかけに、一瞬言葉が詰まる。
似合ってる、って言えばいいだけのことなのに。
なのに、なんでこんなに喉が重たいんだろう。
「……うん、似合ってる。きれいだよ」
言いながら、なぜだか妙な汗が背中をつたった。
するとロアは、ひとつうなずいて、
「じゃあ、ずっとつけるね」と告げた。
まるで、それが許可だったかのように。
あるいは、承認の印だったかのように。
次の日から、ロアはその蝶の髪飾りを欠かさずつけて現れた。
制服を脱いでジャージに着替えても、風呂上がりに髪を下ろしても──
その蝶だけは、決して手放さなかった。
「お兄さん、折り紙の蝶より、こっちのが好き?」
「いや、比べるもんじゃないって……」
「でも、ずっと見てくれてた」
さらりと落とされた言葉に、また胸がざわめいた。
自分でも気づかないうちに、その蝶を目で追っていたのかもしれない。
そのたびに、ロアは──確かに見られていると感じていたのだ。
いや、もしかしたら最初から──見られるためにつけていたのかもしれない。
「……もうすぐ、お兄さんと同じ制服、着れるんだね」
そんな一言に、ドキリとする。
冗談で言ったわけじゃない。
ロアの声に、軽さは一切なかった。
あくまで自然に、事実として。
そして、それを楽しみにしているような、柔らかさで。
「……おいおい、俺もうとっくに中学卒業してるぞ」
「うん。でも、すぐ」
答えながら、ロアはソファで俺の着ていたシャツをぎゅっと抱きしめた。
昨日まで、俺が使っていたやつ。洗い立てじゃない。
それを、まるで安心材料みたいに、肌にすり寄せている。
桃色の蝶が、その肩にふわりと揺れていた。
まるでその翅が、心音に合わせて脈打っているみたいに。
俺は目を逸らした。
ロアの微笑みが、どうしようもなくそこにいてはいけないものに見えた。
だけど言えなかった。
拒めなかった。
だって、俺がここまでずっとなにも言わなかったせいだ。
境界を曖昧にしたのは、俺だ。
そして今、そこに羽ばたく蝶は──
すでに、俺の部屋を棲み処に選んでいた。
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