第六章∶雨に濡れるルリタテハ
あの日から、公園が少しだけ特別な場所になった。
約束どおり、週に何度か、というより──
気がつけばほぼ毎日、ロアはベンチに座っていた。
俺がたまたま通る時間に、たまたまそこにいる。
いつも同じ場所。
いつも同じ、柔らかな佇まいで。
「お兄さん、今日……顔、こわい」
「えっ、マジ?」
「うん。学校で、なにかあった?」
「……小テストが……」
「うーん……じゃあ、わたし、やさしくする……」
そんな他愛もない会話を交わすようになった。
ときどき、彼女からぽつりと学校の話も出た。
ロアは近くの小学校に通っていて、同級生の名前をいくつか挙げては「……でも、べつに、話したりはしない」と口を濁す。
俺が「折り紙、また持ってくるよ」と言うと、彼女は静かに頷いて、「じゃあ、うさぎがいいな」と目を細めた。
その瞳には相変わらず光はなかったけれど、見つめられるたび、どこかひやりとした感触が胸に残る。
ロアは、笑う。
でもそれは、嬉しさや喜びで笑ってるんじゃない。
──俺がここにいるから、ただ、それだけで笑ってるように見えた。
そうして過ぎていく、淡くて、どこか息苦しいような春の日々。
──そんなある日のことだった。
天気予報は外れて、夕方になって空が急に泣き出した。
ずぶ濡れになるほどの土砂降りで、俺はリュックを守りながら急ぎ足で家路を急いでいた。
けれど、いつもの公園の前を通りかかったとき──
視界の中に、見慣れた青が、ぽつんと浮かんでいた。
「……ロア……?」
思わず足を止める。
小さなベンチの上、ロアが傘も差さず、髪も服も濡らしたまま、空を見上げて座っていた。
ピクリとも動かない。
まるで、人形みたいに。
「おい! なにやってんだよ……!」
駆け寄ると、ロアはゆっくり顔を上げた。
青い髪が頬に貼りついていて、桃色の瞳が、ぼんやりと俺を映していた。
「……お兄さん、いた」
その声はいつも通り、淡々としていて。
まるで、自分が濡れていることにも気づいていないみたいだった。
「……なに考えてんだ……風邪ひくぞ!」
俺は咄嗟にロアの手を掴んで、傘を押しつけるように肩へ被せた。
彼女の手は氷みたいに冷たくて、思わずギュッと強く握り返した。
「うち、すぐそこだから。行くぞ」
「……うん」
抵抗はない。
むしろ、最初から連れて行かれるのを待っていたかのように、ロアは静かに歩き出した。
俺の家の前まで来るころには、靴の中までぐしょぐしょで、ロアの髪からは滴がぽたぽたと落ちていた。
玄関を開けて、タオルを乱暴に取り出してロアの頭にかぶせる。
「ほら、拭けって。服も……着替えあるかな……妹のがあれば……」
「……お兄さんのでも、いい」
一瞬、背中にぞくりとした感覚が走る。
ロアは、じっと、俺の顔だけを見つめていた。
雨粒がまだ頬をつたっていたけれど、それはもう冷たいものじゃなかった。
「……お兄さんの、家。あったかい」
そして、それっきり黙り込んでしまった。
家の中に入り込んできた雨の匂いと、静かに息を潜めるロアの気配。
そのふたつが、いつもの日常を少しだけ、違うものに変えていた。
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