第5話 名人だって叩きのめすにゃん

 ボクがそれから再度名瀬宅を訪れたのは10日後であったが、その間、将棋界ではちょっとした騒ぎが起きていたのだという。


「おい!あの名瀬君が弟子を取るって本当か?」

「ないない!弟子取らないと名人戦出られないよってくらいの脅しをしない限り絶対取らないでしょ」

「いやいや。弟子を取ったのは確定らしい。しかも高校生だとか」

「高校生?ありえないでしょ。そいつ、そんなすごいやつなの?」

「いや……調べてみたんだが、目ぼしい実績はゼロだ。増渕直樹って言うんだが……」

「増渕直樹……知らないな」

「俺も知らへんなぁ」

「しかもしかも!この増渕とか言う男が、名瀬研にも呼ばれているらしいぞ」

「ありえへん!!名瀬と藤倉さん以外にその輪に加われるやつなんかおるわけないやろ」

「僕もそう思う。弟子入りは本当だとしても、名瀬研には行けないでしょ」

「だよなぁ……すまん、やっぱ噂話なんか信じるもんじゃないな」


 話に程度の差があれど、プロ棋士や奨励会員が揃って話題にするのが増渕直樹という謎の少年のことであった。高校生ともなれば、アマといえど実績があるのなら誰かしらが知ってそうだが誰も知らない。直樹が先日唯一参加した大会も、規模がそれほどのものでもなかったため、ネット上に結果がのることはなかった。

 そして、この話に関わる藤倉、名瀬、唐牛の3人は揃って素知らぬふりをいるのでどうにもこうにもはっきりしない有様なのだ。



「はじめまして、増渕君。私は藤倉聡さとしといいます。あのアーティストと名前がそっくりだけど、覚えてもらえたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いします」

 ここは名瀬家の和室。そこでお会いしたのが、あの藤倉名人。こっちが年下だというのに丁寧に坐礼をしたものだから、ボクも慌てて腰を下ろして礼をする。

 ちなみに藤倉名人の言うアーティストのことはよく知らなかったが、ネットで調べてよくわかった。グループ名の知名度が高すぎるのだ。言われてみれば、漢字でもひらがなでも1文字違いだ。ボクは藤倉名人の名を心に刻んだ。


「名瀬先生。こちらをよかったら、ぜひ妹さんと召し上がってください。お口に合えばいいのですが」

 藤倉名人が取り出したのは名古屋名物ラングドシャだった。とても甘くて美味しそうなやつ。藤倉名人は名古屋出身なのだとその時認識する。そして、それをボクにもくれたものだから、てんやわんやして受け取る。


「まさか名瀬先生がお弟子さんを取られるなんて。目が飛び出るかと思いましたよ」

「ハハッ。まだ仮弟子といったところだけどね。多分、他ならぬ僕が1番驚いているんじゃないかな」

 名瀬がお土産を早速開封し、皆でラングドシャを食べる。机を藤倉名人、名瀬、ボク、そしてポニャンザが囲む。なお、ポニャンザには食欲がないようで、たとえテレビにちゃおちゅーるが映ってても気にも留めない。

「秋子。よかったら一緒に食べてけよ」

「いえいえ、あたしに構わなくていいんですよ。でもせっかくだから1枚いただこうかしら」

 名瀬が声をかけたのが、妹にあたる秋子さんだ。現在大学4年生で、名瀬と2人暮らしをしているらしい。お茶を入れてくれた秋子さんは、ラングドシャを1枚口にし、会話もそこそこに席を外した。


「でも新鮮ですね。いつも2人で延々と研究していますからね」

「ハハッ。僕は一生それでもいいと思ってたんだけど。とりあえず後で1局指してみてよ。とても将棋を始めて1ヶ月のそれじゃないからさ」

「ええ、とても興味があります。増渕君の存在は将棋界の発展につながるかもしれませんね」

「いえいえ、そんな……」

 お茶をすすりながらにこにこする名人にボクはたじろぎながら反応する。名人はたとえボクであっても終始懇切な姿勢を崩さない。誰からも慕われる理由がよくわかる。

 ところで、いつもは騒がしいポニャンザが今日は気味が悪いくらいに大人しい。「勝つにゃあ……勝つにゃあ……」と名人を睨みつけ闘志を燃やしている。故に、どう声をかけたらよいかわからないでいる。



「では、よかったら1局指しましょう」

 藤倉名人が将棋盤に手を指す。「わかりました」と声を絞り出すが、緊張感がとまらない。自分が戦うわけじゃないのに。これが名人と戦うということなのだろうか。



「7六歩にゃん」

 手合いは平手、ボクの先手で始まった。持ち時間は1手30秒で、名瀬研ではよく早指しが行われているという話は後々知った。

 ぱちんっ。藤倉名人が歩を上げる。名人だからか駒の持ち方、動かし方、さらには駒音まで特別なものに捉えられる。

「7八飛にゃん」

 名人を相手にして、ポニャンザの声にも力が入っている。ボクは、指示通り飛車を横に振る。




「ありません」

 ボクが頭を下げ、「ありがとうございました」と藤倉名人がそれに続く。……ポニャンザが負けた。形勢は悪くなかったように見えたのに。終盤、なんてことのない局面だと思っていたのに、名人が王手をかけ始めてから詰むまで一直線のようだった。負けるべくして負けた感じになった。これが、名人の強さなのか。

「うわーん、負けたのにゃん!!」

 呆然としているボクの背後で、ポニャンザが洪水のような涙を流している。拳を畳に叩きつけ、これでもかと言うほどに悔しさを露わにしている。ボクには放っておくことしかできない。


 すると、盤面を見つめていた名人がこちらに視線を向けてきた。

「対局ありがとうございました。これで将棋を覚えて1ヶ月だとは、とても信じられません。序盤中盤終盤隙がなく、歴代の名将に並ぶ棋力をお持ちなのではないかと思います」

「あ……、ありがとうございます」

 これでも言うかというほどに褒められ、ボクは素直に礼を言う。

「でも、驚きました。確かに伺ったとおり、この棋風は名瀬先生に瓜二つですね。まるで、名瀬先生と公式手合いしているかのような。いや……」

 藤倉名人は顎に手を当てて、何か考えこむように上を見上げた。やがて、何か答えを得たかのように頷いてみせると、こちらに再度視線を合わせた。


「……これはあまりに荒唐無稽な発言ではあるのですが。増渕君の左後ろ、そこには見えない何者かがいるのではないですか?」

 そう発言した名人は、今も涙を流すポニャンザのほうをじっと見つめた。

 

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