其の壱 鬼食イ姫、地獄ニ降リ立ツコト④

 ふいに鋭い声が飛んできた。

 素早く下に目を向けると、すらりと背の高い誰かが立っていた。

 全身、黒ずくめだ。上に身に着けているのは、形からして直衣のうしだろう。下は足首を絞ったさしぬき。どちらも漆黒で模様一つ入っていないので、まるで影をまとっているように見える。

 真っ黒ないでたちにも驚いたが、明乃が何より気になったのは、『顔が見えない』ということだった。

 黒ずくめのてっぺんにある冠から薄く黒い布が垂れていて、あご先までをすっぽりと覆い隠しているのだ。

 ただ、立ち姿と声からして若者だということは分かった。身に着けている直衣は、正装ではなく少しくだけた恰好だ。内裏でこのいでたちが許されているのは、特に身分が高い人物のみ。ということは、どこかの若君だろうか。顔が見えないので、それ以上のことはよく分からない。

うめつぼの梅をへし折るとは、なかなか豪胆な盗人だな」

 考え込んでいた明乃は、黒ずくめの若者にそう言われて我に返った。

「ち、違う! 私、盗人なんかじゃ……あっ!」

 反論しようと身を乗り出したのが過ちだった。体勢が大きく崩れ、足場にしていた枝がみしっと嫌な音を立てる。

 落ちる──そう気付いたときにはもう、身体がふわりと宙に投げ出されていた。顔の横を、小さな花弁がひらひらと舞い落ちていく。

 これから固い地面にたたきつけられる。そうなればきっと、ただでは済まない……。明乃はぎゅっと目を閉じて、襲ってくるはずの衝撃に備えた。

「あ、あれ……?」

 だが、いつまでたっても痛みは感じなかった。なぜか、身体がぬくもりに包まれている気がする。

 明乃はおそるおそる目を開けた。

 そして、息をんだ。黒い布に覆われた顔がすぐ近くにある。身体を包んでいるのは、たくましい二本の腕……。

 木から落ちてきた明乃を、黒ずくめの若者が受け止めてくれたのだ。

「梅の枝をへし折って何をする気だったんだ、花盗人」

 再び盗人呼ばわりされて、明乃はぶるぶると首を横に振った。

「人聞きの悪いことを言わないでください。梅の枝が病になっていたから、これ以上広がらないように悪いところを折っただけです。梅は、実だけじゃなくて花も食べられるのです。枯れてしまったらもつたいないでしょう」

 傍らに、先ほど折り取った梅の枝が散らばっていた。それを指さして黴が生えていることを説明すると、黒ずくめの若者は「なるほど」とうなずく。

 ようやく納得してもらえたらしい。誤解が解けてあんすると同時に、明乃は気付いた。先ほどから、抱き上げられたままだ。

 父と弟を除いて、殿方とこれほどまで近づいたことはない。触れ合っている部分から改めて温もりを感じて、頰が熱くなる。

「……あの。降ろしていただけますか?」

 ぼそりと言うと、黒ずくめの若者は明乃の身体をそっと解放した。

 完全に離れる直前、漆黒の直衣からふわりといい香りが漂ってきた。きしめるこうの類ではなく、もっと甘い感じ……。

「もしかして、どこかであんずを口にしましたか? ほんのりと香りがする」

 明乃の問いに、黒ずくめの若者は頷いた。

「ああ。ここに来る前に、干したものを少し。よく分かったな。俺は杏の香りなど全く感じないが」

 多分、普通は気付かないだろう。

 だが、常に空腹だった明乃は、『食べられるもの』のにおいならどんなにかすかでも感じ取れる。

「そういえば、今日から新しい掌侍が来ると聞いている。お前のことか」

「はい」

「なら、ひとまずないどころがあるうんめい殿でんに行くといい」

 黒ずくめの若者は進むべき方向を指し示したあと、そのままくるりときびすを返して去っていった。

 杏の甘い香りを、ほんの僅かに残して。


    ***


 温明殿に赴いたのち、明乃はどころという場に行くことになった。

 御厨子所は、上つ方たちが口にするものの調理が行われるところである。

 内裏に並んでいる殿舎のうち、みかどやしきとなっているのが清涼殿で、そのすぐ西側にあるのがこうりよう殿でんだ。ここ──御厨子所は、後涼殿の西廂に置かれている。

 料理をする場ということもあり、あたりには食材や皿がたくさん並んでいた。明乃は隅の方で湯気を立てているなべに、吸い寄せられるようにして近づく。

わしの手元ばかりそんなに見つめて、楽しいかね」

 鍋の中身をかきまぜていたろうが、動きを止めて明乃を見た。

「楽しいです。それに、美味おいしそう!」

 思ったままを口にすると、老爺は細い目をさらに糸のようにして笑った。

 じきに食事時ということもあり、御厨子所には給仕役の女官たちが集まっている。調理をする者たちもいて、少々慌ただしい気配が漂う。

 女官たちは皆、正装であるからぎぬ姿だった。壺折姿で内裏に辿たどり着いた明乃も、今は同じかつこうをしている。

 一番上に纏っている唐衣は薄紅色。うわだいだいで、その下のいつぎぬはすべて異なる色だった。この装束は、明乃を内裏に呼んだ左大臣が用意してくれたものだ。

 女房装束の色使いにはある程度決まった組み合わせがあり、かさねの色目と呼ばれている。明乃が身に着けている組み合わせには『いろいろ襲』という名が付いており、にぎやかな感じがして気に入った。

 それはいいのだが……とにかく、重い。

 黒ずくめの若者に言われて温明殿に辿り着くと、すぐさま下級女官が駆け寄ってきてこの恰好に着替えさせられた。家にいたころは、はかまひとえを身に着けた上にうちぎを引っかけただけの袿袴姿で過ごしていたのだ。重ねる枚数が増えた分だけ肩が凝るし、長い袴と裳を引きずって歩かなければならないのが煩わしいことこの上ない。

 というわけで唐衣裳のうっとうしさにだいぶ参ったが、そのあと御厨子所に行ったら美味しそうな香りに包まれて、幾分気が晴れた。

 御厨子所は以前に明乃の父がいた内膳司の管轄で、実務として調理を担うのは膳夫かしわでと呼ばれる者たちだ。

 その膳夫の中でも一番としかさなのが明乃の傍で鍋の様子を見ている老爺であり、皆からは『ととおきな』と呼ばれている。

 しわの刻まれた手がかきまぜているのはとろりとしたかゆだった。若菜が少し加えてあって、彩りもいい。あまりにも美味しそうで、明乃は思わず鍋にぐっと顔を近づける。

「──そんなに身を乗り出したら、鍋の中身が鼻先につくわよ」

 白の唐衣に若草色の表着をまとったすっきりした顔立ちの女官が、明乃のそでを引っ張って冷たいまなしを向けていた。

 春華門に辿り着いた明乃を置いていってしまったあの娘である。

 明乃は慌てて頭を下げた。

「とても美味しそうだったから、つい……。ごめんなさい、ゆずりさん」

 楪羽というのは、出仕する女官に与えられるにようぼうだ。明乃が温明殿に行ってみると門で別れた娘がいて、そのときにこの名を告げられた。

 楪羽の歳は明乃より二つ上の十九。一年ほど前に掌侍になったというこの同僚が、しばらく指導役を務めてくれるらしい。

「御厨子所では火を焚くし、刃物も使うの。怪我をしたくなかったら大人しくしていた方がいいわよ──鬼食いの君」

 楪羽が口にした鬼食いの君というのが、明乃の女房名だった。安直にもほどがあるが、決まってしまったものは仕方がない。

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