1章:太陽は影を射さない
異物 その1
消毒液の匂いが、鈍くなった思考をゆっくりと覚醒させる。
チクタク、と規則正しく時を刻む時計の音。
湊がゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた自室の天井ではなく、清潔な白い天井だった。
「……ここは……」
身体を起こそうとするが、激痛こそないものの、全身が鉛のように重く、言うことを聞かない。
視線をさまよわせると、大きな窓があることに気づいた。窓の外には、抜けるような青空と、見たこともないような近未来的な高層ビル群が、整然と立ち並んでいるのが見えた。
白い外壁とガラスで統一された街並みは、自分が住んでいた雑多な街とはまるで別世界だ。空には、巡回ルートを飛ぶものだろうか、小型のドローンが静かに編隊を組んでいる。
一目で、ここが普通の場所ではない——天照学園という、巨大な研究都市の内部なのだと理解できた。
湊は、あの事件が起きた日のことを必死に思い出す。友人が襲われ、自分が力を暴走させた……あれは確かに昼間の出来事だったはずだ。
(あれから、どれくらい経ったんだ……?)
窓の外は、昨日と同じように、太陽が空高く昇っている。
(まさか……丸一日以上、俺は寝てたのか……?)
時間の感覚が曖昧になっていることに、湊は軽い眩暈を覚えた。
「目が覚めたかね、神凪 湊くん」
声のした方へ顔を向けると、ベッドの傍らに白衣の男性が立っており、安堵の息を漏らした。
「あんたは……? 俺は……そうだ、東雲は!? あいつ、血を流して……!」
「落ち着いて。ここは天照学園の医務室だ」
医師は、湊を安心させるように穏やかな口調で続ける。
「東雲 一華くんも、隣の集中治療室で無事だ。適合者特有の回復力もあってね、命に別状はないよ」
その言葉に、湊は全身から力が抜けるのを感じた。
医師は、湊の瞳孔にペンライトを当てながら、事務的に、しかし優しく問いかける。
「いくつか質問させてくれ。自分の名前は言えるかな?」
「……神凪、湊です」
「よし。では、あの日のこと、覚えているかい?」
「……覚えて、ます。街が、
湊が必死に訴えると、医師はペンライトを消し、手元のカルテに視線を落としながら、静かに首を振った。
「……ふむ。神凪くん、少し落ち着こう。記憶に少々の混濁が見られるようだ」
「混濁なんかじゃな……!」
湊が食ってかかろうとすると、医師はそれを制するでもなく、不思議そうに続けた。
「いや、君がそう思うのも無理はない。凄惨な事件だったからね。だが公式記録では、あの事件での死者は一名も確認されていないんだ」
「——な……にを……?」
湊の思考が停止する。
「だって、俺は見たんだぞ! あいつらが、目の前で、あの
「ショックによる記憶の誤認だろう」
医師は優しく諭すように言った。
「幸い、負傷者は多数出たが、全員命に別状はない。……それもこれも、一人の適合者が身を挺して
「一人……?」
「ああ。君も知っている通り、東雲 一華くんだ。今や、街を救った若き英雄として、報道は彼女の話題で持ちきりだよ」
東雲が英雄。それは、分かる。彼女は確かに戦っていた。
だが、死者はゼロ?
では、俺がこの目で見た、佐藤と武田の「死」は? あの絶望は?
自分の記憶だけが間違っているというのか?
自分の知る現実と、この世界の認識がズレている。湊は、そのあり得ない事実に、言われもない恐怖を覚えていた。
「ともあれ、君自身の自己認識に混濁がないことは確認できた。ゆっくり休んで……」
医師がそう締めくくろうとした時、病室のドアがノックもなく開いた。
「——容態は?」
鈴を転ごすような、しかし妙に響く幼い声。
医師は、その声を聞いた瞬間、弾かれたように立ち上がり、声の主に向かって深々と頭を下げた。
「が、学園長! お早いお着きで……!」
(学園長……?)
湊は、医師が首を垂れる先を見た。
そこに立っていたのは、場違いなほど豪奢な黒いゴスロリ服に身を包んだ、小柄な銀髪の少女だった。月光のような銀髪がフリルの付いたヘッドドレスからこぼれ、その口にはカラフルなキャンディが咥えられている。
——どう見ても、自分より遥かに年下、10歳くらいにしか見えない。
「……え……? 子供……?」
あまりの光景に、湊の口から疑問がそのままこぼれ落ちる。
(いや、でも、医師の人があれだけ本気で頭を下げてる……? 冗談か何か? それとも、学園長のお孫さんとか……?)
湊が混乱していると、医師がそのただならぬ雰囲気に気づき、慌てて小声で湊に囁いた。
「き、君! 失礼だろう! この方こそが、常世学園長ご本人だ!」
「え、マジで……!?」
湊は、その小さな少女をまじまじと見つめ直してしまう。どう見ても学園のトップというには幼すぎる。
「あ、あの……はじめまして……? 俺、は……」
湊がしどろもどろになっていると、少女——常世学園長は、値踏みするように湊をジロリと睨みつけ、咥えていたキャンディをごろり、と口の中で転がした。
「……なんじゃ。その不満そうな顔は」
「い、いえ、そんなつもりじゃ……ただ、その……学園長って、もっとこう、年配の方かと……」
「ほぅ。病人だと思って見逃しておったが、随分と率直な物言いをする小僧じゃの」
学園長は、フリルだらけの袖で口元を隠し、わざとらしくため息をついた。
「見た目で人を判断するでないわ。人間の価値は、生きた時間の長さだけで決まるものでもなかろう?」
その言葉には、見た目にそぐわない重みがあった。
「儂が、天照学園の長、常世 時子じゃ。異論は認めん」
そう言って、彼女は湊に対する当てつけのようにキャンディをガリッ、と音を立てて噛み砕いた。
湊は、その子供じみた行動と、放たれる威圧感のギャップに、ただただ圧倒されるしかなかった。
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