第35話 愛し子と共に(4/5)
「……お主の腹の音は、意外と大人しかったのだな」
「いやいやあれは夢ですから!! そんな、俺がお腹を空かせる度に震源地になるとか、それこそ呪いレベルじゃ無いですか!」
「ふむ、地震を起こすとなると最早神の所業であろう。……神同士、お揃いになれるぞ?」
「神様ったって、それじゃ俺、ただの祟り神じゃないですか……」
相変わらず容赦の無い太陽が少し西に傾き空の色を変え始めた頃、新太の腹から響く音にどことなく安心を覚えたムシュカは、そういえば、と台所を指さした。
「お主、確か前の仕事を辞めてから自ら料理を作り始めたと言っておったな」
「あ、はい。と言っても、そんな凄いものはとても作れませんけどね。今の俺はあの頃より不器用というか、この筋肉に振り回されっぱなしで」
「ふむ……だが作れるのであろう? ならば、是非味わってみたいものよ」
「ほげ」
思いもかけないムシュカの希望に、思わず新太の口から謎の言葉が漏れる。
ご冗談を! と顔に当惑の文字を貼り付け目を剥いた新太に「本当にお主の反応は……いや、比べてはならぬがあの頃よりずっと多彩で興味深いな」と実に楽しそうな笑顔を向けた神様は、しかし残念ながら先ほどの勅命を冗談で終わらせる気はないらしい。
「いや、ほんっとーに大したものは作れませんからね!! 後でこんな筈じゃ無かったなんて嘆かないで下さいよ!」
「案ずるでない、お主が作るものが不味いはずが無かろう? ……その食いしん坊を満たせるだけの味は保障されているようなものだからな」
「めちゃくちゃ説得力がありますけど、何だろうこの悲しさ」
渋々と言った様子で、新太はエプロンを手に取る。
そうして一人用の小さな冷蔵庫を開けると「……あ、これなら作れるかな……」と食材を調理台の上に並べ始めた。
「二人で住むなら、冷蔵庫ももう少し大きい方がいいですね。食器も……流石に全部外食じゃ、俺の給料が消えてしまうし」
「ふむ……お主に全て厄介になるわけにもいかぬしな。私も何かするべきだろうが……」
「神様は取りあえずこの世界に慣れてからにしましょう。感覚、まだしんどいでしょ? 大丈夫です、俺頑張ってご飯作りますからっていてっ!」
「ヴィナ!?」
とんとんと小気味よい音を立てていた新太が、突然悲鳴を上げる。
何事かと駆け寄れば、ぎゅっと人差し指を押さえたその端からじわりと血が滲んでいた。
「大丈夫です、良くあることなので」と冷静に傷を洗い、救急箱から絆創膏を取りだして処置する所作は実に手慣れている。確かに昔は小さな傷など日常茶飯事であったしなとその様子を眺めていたムシュカであったが、ふと違和感に顔を顰めた。
「……お主、先ほどまで包丁はどちらの手で持っておった?」
「え? 右手ですけど……流石に利き手は昔と変わらないですよ」
「うむ、そうであるよな? ならば何故お主『右手の人差し指』を切っておるのだ?」
「…………何もしてないのに切れるんですよね」
「そんなわけがなかろう! まさか、その包丁が呪われているのではないのか!?」
……そう、この段階で嫌な予感はしていたのだ。
だがヴィナのことだ、あれほどの剣さばきを披露していた豪傑が刃物の取扱いに苦戦することなどあり得ないと、不安を振り払ったというのに
「……あ、手の皮剥いちゃった」
「はい?」
「あっ野菜茹でないと、ってあっちいぃっ!!」
「待てヴィナ、そんな勢いをつけて投げ込めば湯が跳ねるのは当たり前であろう!」
「だってお湯が怖くて……遠くからだしちゃんと投げないと入らないかなって」
「そういう問題ではなかろうて!」
……どうやらこの男、不器用なのは恋だけでは無かったようだ。
恐らく筋肉を全力で使い倒す事にばかり長けて、繊細な動きを教え込む努力を疎かにした結果だろう。
飯が出来るまでの1時間は生きた心地がしなかったムシュカが、この新たな世界でまず己が為すべきは生活の糧を得ることでは無い、料理を覚えることだ! と密かに決意するのも無理からぬ事である。
「ふぅ……出来ましたよ神様! ……って、大丈夫ですか? 起きてるの、疲れちゃいました?」
「い、いや……ヴィナよ、次に買い出しに出たときには私にもその布を買ってくれ。これが毎日続くなど、私の心臓が持たぬ」
「布……エプロンをですか? え、まさか手ずから料理を!? 殿下、刃物は存外危険なのですよ! それにそんな食事のために殿下の手を煩わせることなど」
「既にお主の調理が私の心を煩わせていることに、気を配ってはくれぬか!?」
ぐったりした様子のムシュカをまあまあと宥めながら、新太は手にしたどんぶりをとん、とテーブルに置く。
フォークを受け取ったムシュカは、ほかほかと湯気を立てるその中を覗き込み「これ、は……!」と言葉を詰まらせた。
大きな鉢に、淡く澄んだかぐわしいスープ。
金色の海を泳ぐのは、半透明の平たい米麺だ。
その上にそっと添えられているのは、親指と人差し指で作った丸よりちょっと大きい、すり身らしき団子で……
「……お主……これは……!」
「ええと、流石に翠玉飯店の再現とはいかないですけど……どうぞ、召し上がれ」
かつて愛し子に振る舞い、新月の塔で流し込み、そして取り戻せなかった過去のヴィナを思って涙と共に啜ったあの魚団子麺が、そこに佇んでいたのだ。
◇◇◇
「お主、またどうしてこれを……?」
怪訝な顔で尋ねたムシュカに、新太は「その、全部美味しかったんですけど」と俯き頬を染める。
「神様の料理は何だって美味しくて、幸せで……あの夢の中で食べるのが一番美味しいのは分かっていたんです。でも、少しでも現実で神様を思い出したくて……」
「ヴィナ……」
始まりは、ういろうだった。
夢の中で食べた、緑と白の層でできたこってりもちもちした甘さの菓子に比べれば、実に儚くほどけてしまう甘さではあったけれど、それでも当時のすり切れた新太には命綱に等しい、推し神様との繋がりだったのだ。
それから環境が変わって、自ら鍋を振るうことも始めて。
けれどその度に思い出すのは、子供の頃から食べ慣れたこの世界の味では無く、神様の絶品料理ばかり。
だが、夢の料理などどこを探してもレシピが見つかるはずは無い。どうもこの世界におけるエスニック料理が近そうだというところまでは気付いたけれど、とてもあの味を再現することは出来なくていつも断念していたそうだ。
それでも。
壊れかけた心を癒やしてくれた初めての麺だけは、どうしても諦めきれなくて――何とか少しでもあの幸せを、感動をこの胸に灯らせたいと新太が手に傷を負いつつ試行錯誤した結果が、今二人の前で湯気を立てている。
「…………お主の気持ちは、実にありがたい」
ポツポツと語られた由来に、鼻の奥が痛くて、視界が滲んでしまいそうだ。
溢れそうな想いを必死に堪えながら、ムシュカは「しかしな、ヴィナよ」とフォークを手に取った。
「確かに麺は同じだが……いや、少し細いか……?」
「あ、それは輸入食品店でフォーを買ってきたんです。細めですけど食感もかなり近いですよ」
「ふむ、まあそれは良いとして……この魚団子は大きすぎないか。しかもやたら黒い」
「あー……それは鍋用のいわしつみれでして。色に拘ってイカ団子とかタコ団子とかも試してみたんですけど、何か物足りなかったんですよね……」
「で、青菜はどこへ」
「ちょっと高くて……取りあえず葉っぱなら良いかなって、茹でキャベツを」
「それは明らかに別物であろう!」
全力で突っ込みを入れながらも、ムシュカの手は迷い無くつみれへと伸びる。
ふぅふぅと冷ました団子を一口かじれば、口の中に広がるのは濃厚な赤身魚の旨みと、ほのかな塩気だ。
食べ慣れた白身魚の団子のような弾力は無く、歯を立てれば容易くほろりとほどけ、しかし口の中での存在感は圧倒的な強さを誇るからだろうか、少しえぐみのある青菜よりはあっさりしていて甘味も感じられるキャベツを合わせたくなる気持ちも理解できる。
「ずずっ……んん? この味は……」
「鰹出汁のスープです。醤油と塩で味を調えてて……その、この国の麺料理を参考に」
「…………うむ、断言するぞ。これは完全に別の料理だ、似て非なる、どころか似ているところが麺しかない」
「ですよねぇ……」
食べ慣れない醤油の風味は、しかしこれはこれで魚との相性が非常に良いらしい。
一口啜る度に広がる淡い塩気と澄んだ魚の旨みが、心と体をじんわりと温め、ほぐしていく。
「…………はふっ、はふっ…………ずずっ……はぁ……っ……」
「神様、その……すみません。お気に召さなければ何か別のものを」
「いいや……良いのだ、これで。むしろこれが良いのだ……ヴィナ、お主が作ったこの珍妙な麺料理が……」
心配そうにこちらを伺う新太に笑いかける神様の瞳から、ぽたり、ぽたりと鉢の中に涙が落ちる。
「まったく、これではヴィナの味を穢すでは無いか」と鼻を啜りながら、ムシュカはただ、一心不乱に愛し子から供された麺料理を口に運ぶ。
(ああ……古今東西あらゆる美食を口にしてきたが、これほど胸に迫る料理を私は食べたことが無い……!)
終ぞ叶わなかった最期の約束をベースに、ムシュカが与えた愛を形にするべく不器用な手つきで作られた、違う世界を纏った聖餐。
二つの文化が入り交じった味は、何もかもが記憶と違って、けれどそのどれもがヴィナという人を、そしてこれからの二人を表しているようで――
「ああ……これは、我らの新たなる門出にふさわしい」
ため息と共に溢れた言葉は、新太への最大の賛辞と未来への歓喜に満ちていた。
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