第17話 すれ違い、三叉路

――西園寺青豆、今日も通常運転である。


友達と話していただけなのに、なぜか左足がつる。

痛みをこらえていたら、今度は右足も参戦。


授業が始まったと思えば、ノートは残り一ページ。

残りの55分、ノートの余白との持久戦。


極めつけは、親知らずを抜いたら感染して発熱。

歯も、運も、タイミングも、全部が裏目に出る。


それでも、彼女は笑う。

――だって、これが西園寺青豆の日常だから。





友達と話していただけなのに、なぜか左足がつる。


どうしよう、痛いって言おうかな。

でも耐えられそう。

いや、やっぱり痛い? あ、治った――


と思った瞬間、今度は右足が参戦。


結局、両足同時つり、という未知の戦いに突入。

笑顔を保つのに、全神経を総動員する。

「あはは」と笑った顔は絶対に引き攣っていた。




授業が始まった瞬間、胸の奥で警報が鳴った。

――嫌な予感。


ページをめくる。

ない。ノートは、残り一ページ。


残り55分。

この一枚で、すべてを完結させねばならない。


青豆は決意した。

米粒サイズの字で、黒板を写すことを。


もはや授業ではない。

これは、文字とスペースの壮絶な戦いである。



極めつけは、親知らず。

受験前に残り三本、計画的に抜く――そう決めた時の彼女は、完璧だった。

同じ轍は踏まない。私は計画的な女。


……のはずだった。


しかし、最後の一本で油断した。

運悪く、菌が入って発熱。

歯も、運も、タイミングも、ぜんぶ裏目に出た。


ベッドの上で頬と頭を冷やしながら思う。

――いや、模試と被らなかっただけマシか。

私にしては、これでも上出来。



熱というのは、人を心細くさせる。

どんなに強がりな人間でも、体温が39度を超えると急に弱くなる。


青豆はベッドに寝転び、スマホを胸の上に置いたまま、何度も画面を点けては消した。


――LINEの既読は、つかない。

いつもならこの時間は数分で《どうした?》って返ってくるのに。


不安、寂しさ、悲しさ。

普段は理性で仕分けられる感情が、熱にあてられて一気に溶け出す。


どうしよう。いっそ電話……?

いやいや、向こうは夜中の12時。

きっと寝てる。いや、勉強してるかも。

どちらにしても、邪魔はしたくない。


「……あぁもう」


枕に顔をうずめて、ベッドの上で何度も寝返りを打つ。

治らない熱と、鳴らないスマホ。

その両方が、今の青豆をじわじわと追い詰めていく。


すると、LINE電話のベルが表示される。

すかさず受信。


『青豆?大丈夫?』


心配そうな、でも一番聞きたかった声


「うん、大丈夫。でもちょっと辛いかな」


ちゃんと本音も言える。大丈夫


『だよな。39度も出てたら、辛いよな。』


もはや会話の内容なんて関係なくて

ただ、同じ時間を共有できることが嬉しい。


「今週末、模試だから、死ぬ気で治す。」

『あはは、うん、死ぬ気で頑張れ。俺も、レポート死ぬ気で頑張る』

「レポートって大変?」


向こうは大学生、こちらは高校生だから分からない。

レポートっていまいち実体がない。


『うん、もっと自分の意見で文章書く練習しておくんだったって、後悔してる』

「えー…そうなんだ。苦手になりそう」

『青豆は建築学部だから、ちょっと違うんだろうけど』


最近、会話が上滑りする。

海翔の言っていることの半分も分からない

分からないのに、分かった振りをしてしまう


「うん…うん。ありがと。海翔もレポート頑張って」


そう言って電話を切る。

電話していても、寂しいなんて

環境が変わった時に別れるカップルたちは、

同じような悩みがあったのかもしれない


話題を共有出来ない虚しさ、みたいな。


じわじわと得体の知れない怪物のように

不安が這い上がってくる。

この時すでに、青豆は何かが起こることを感じ取っていたのかもしれない。





---


週末

熱も下がり、不安も去った。


青豆は塾の扉をくぐった。

時間通り、忘れ物なし、頭はクリア。――今日の私、グッジョブ。


今日の模試の結果次第で、大学の選択肢が変わる。

青豆は深呼吸をして、気合を入れ直した。


「よっ!青豆」

「あ、おはよ、七瀬」


気づけば、呼び方はすっかり『青豆』『七瀬』になっていた。

百田香織と『モモ』『青豆』呼びなのに、

同じ時期に仲良くなった七瀬だけ『西園寺さん』と

呼ばれるのもおかしい気がして、そのままになっている。


青豆にとっては小さなこと。――だから、海翔には報告していない。

彼にとってそれが小さくない火種になるかもしれないことも、まだ知らない。



---


試験が終わる頃には、外はすっかり夜の色になっていた。

空気にはかすかに、秋の気配が混じっている。


ポケットの中でスマホが震えた。


「はい」

『青豆? もう模試終わった? どうだった?』


さすが、タイミングの神。藤堂海翔。

模試が終わり、塾を出た瞬間に電話をかけるなんて。

――が、こちらにも“悪い方のタイミングの神”がいた。


「青豆ー! マック寄って帰ろうぜー!」


後ろから七瀬の声。

青豆は反射的に振り向く。


電話の向こうの海翔が、一瞬でピリリとした空気を纏ったのが分かった。

え、えっと……こういう時って、どうしたら?


青豆は七瀬と百田に手を振って、「電話中、ごめん!」とジェスチャーする。

すると、百田がニヤリと笑って――七瀬に向かって「行け」と目で合図した。

(完全に、犬をけしかける飼い主の動き。)


次の瞬間、七瀬が勢いよく突進してきた。


「えっ? 待って? 何?」

『……誰?』


電話口から、地の底から響くような低音が聞こえる。

青豆は思わず、スマホを耳から離した。


そして、追い打ちをかけるように七瀬が――満面の笑みで、言い放つ。


「青豆の彼氏さん、今から模試の打上げだから、青豆借りるね!」


(悪い方の神、圧勝。)


『は?お前誰だよ?』


低く、短く、鋭い、詰問。

そして――通話が、ぷつりと切れた。


「えっ……? え? ええ?」


人は、想定外の沈黙にひどく弱い。

青豆は、電話を見つめたまま固まった。

そのまま抵抗も出来ず、七瀬と百田に両腕をつかまれ、

気づけばマックのトレイの前に座っていた。


もぐもぐ。

……うん。模試明けのポテト、優勝。


完全なる逃避行動。


分かってる。青豆だって分かってる。

今すぐLINEを開いて弁明すべきだし、

なんならここから抜け出して電話をすべき。


でも――出来ない。


あの、地獄の釜の蓋が開いたような声を、もう一度聞く勇気はない。


(……どうしよう。)


ふと、思い出す。

そういえば、七瀬に名前呼び捨てにされていることは報告してなかったかも。

きっと、彼は気にするタイプのような…?


気がしてきた。

いや、絶対そう!

怒らせた気がするぅ!!


青豆はポテトをつまみながら、

塩のきいたジャガイモに、罪悪感をまぶして食べた。






---


通話が途切れた。

海翔には一瞬、何が起きたのか分からなかった。

スマホの画面には「通話終了」の文字。

……終了? どっちが? いや、俺が。切ったのか。


「はぁ……」


ため息とも、苦笑ともつかない息が漏れる。

午前2時のサンフランシスコ。


藤堂海翔、18歳。

冷静沈着、常に穏やか。――という評判は、表向きの話だ。

内側は案外、人間らしい。嫉妬とか、怒りとか、

あと、何かこう……理不尽な“負けた感”。


模試の打上げ。

なんだそれ。楽しそうな響きが気に入らない

スマホを持つ手が、じんわり熱くなる。

嫉妬というより、悔しさ。

自分でもよく分からない感情が、胸の奥をくすぐる。


「……ったく。」


机の上には、途中で放り出した生物学のテキスト。

細胞の構造を描いた図が、やけに綺麗に見える。

こんなときでも、勉強に逃げられる自分が、ちょっと嫌いだ。


メッセージアプリを開いては閉じ、開いては閉じる。

「誰?」って聞いたあの瞬間の自分の声が、まだ耳に残っている。

我ながら怖かったと思う。

青豆、絶対びっくりしてたな……。


(……ごめん。)


でも、心の中では少しだけ、拗ねている。

いい。俺だって、友達とマックぐらい行くし。

デイビッドとエミリアを誘って、ポテト山盛りで対抗してやる。


――そんな夜に限って、

冷蔵庫には牛乳しか入っていなかった。






---


模試の結果を眺めながら、青豆は満足げな笑みを浮かべた。


「結果、良かったね。志望大学、Y大も入ってるんだって?」


ひょい、と後ろから桜井が顔を出す。

見ないで欲しい。あ、講師だから知ってるか。


「はい…第一希望です。AO入試で入れたら一番なんですけど…」


一般入試の偏差値的にはギリギリだ。

もしダメだったら、大阪とか名古屋になるかもしれない。

そしたら、すずめと離れる。

妹・香澄とも、もう頻繁には会えないかもしれない。


「面接試験、個別指導しようか?」

「えっ!?いいんですか?」


桜井の目は、虎視眈々と青豆に近づく機会を狙っている。

感慨にふけるのは、今じゃなかった。


お母さん。私、思わず返事をしてしまったこと、後悔しています。


「なるほどね。誰にどういう指導受けてきたら、こんな素敵な受け答えできるのかな。教えてくれる?」


桜井が毒舌皮肉屋だということ、忘れていた。

疲れた心に皮肉はよく刺さる。

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