西園寺青豆の不運

雨水卯月

第一章

第1話 青豆、名前は気に入っているけれど

西園寺青豆。

苗字は重たいが、名前は軽い。青豆。気に入っている。


人に名前を説明するときは、豆腐の豆じゃなくて、「緑の豆のほうです」と言う。するとたいていの人は「ああ」とか「かわいい」とか、社交辞令を返してくれる。彼らが本当に可愛いと思っているかどうかは、問題ではない。社交辞令をもらえること自体が、社会にうまく溶け込めている証だから。


ただ、残念なことに、彼女の人生はあまり「かわいい」とは言えない。


西園寺家の一人娘。財閥のお嬢様。屋敷には執事がいて、テニスコートもある。漫画ならさぞかしキラキラした青春が約束されていそうだが、現実はそううまくいかない。


青豆は、やたらと運が悪い。



今朝もそうだった。


通学路の角を曲がったところで、犬の糞を踏んだ。

しかも白いスニーカーで。


彼女は慌てて足をこすりつけたが、アスファルトのざらざらに茶色はしぶとく残り、見た目は完全に「模様」に昇格してしまった。


「これ、新しいデザインですか?」とでも聞かれたら、「そうなの」と答えるしかないだろう。いや、聞かれたくない。



コンビニで争奪戦の末、買ったばかりのビニール傘。外へ出た瞬間、風が吹いた。

ぱん、と裏返る。


あっけなく、壊れる。


「青豆、傘の寿命短すぎない?」とクラスメイトに笑われたが、笑って済ませるしかない。彼女は深呼吸をした。肺いっぱいに吸い込んだ空気は、雨なのに、なぜかほこりっぽかった。


教室に着くと、席に座る前に隣の女子が緑の女神のカフェのコーヒーを倒した。


見事に青豆のスカートへ。


「ごめん! ほんとごめん!」と連呼され、青豆は「大丈夫」と答えた。そう答えるしかない。実際、大丈夫ではないが、大丈夫と答えないと友達が減る。お嬢様だから友達が多いと思われがちだが、そんなことはない。運の悪さは、交友関係にまで影響する。




この調子なら、昼休みにはきっと別のトラブルが待っているだろう。靴下に穴があくか、スマホを落とすか、あるいはもっと大きな、運命的な何か。


――そういう人間が一人くらいいてもいいだろう。


世の中には幸運の星に生まれた人がいる。ならば、不運の星に生まれた人がいたって、バランスが取れる。


青豆は、その星の住人なのだ。

もっとも、本人は青豆という名前がけっこう気に入っている。人生がまずしくても、名前がかわいければ、それで帳尻は合うのかもしれない。




——


その日、ホームルームで先生が言った。


「今日から新しい仲間を紹介します。えーっと、自己紹介してくれる?」


教室に入ってきた男子生徒は、背が高く、端正な顔立ちだが――目つきが鋭く、空気がピリッとしていた。


青豆は自然と目を細め、距離を取る。転校生、**藤堂海翔とうどうかいと**だ。金髪にピアス、服装も少し派手で、不良系の雰囲気を漂わせている。


海翔は教室を見渡し、自己紹介を始めた。

申し訳程度の。


藤原海翔とうどうかいとです。よろしく」

「西園寺、世話役をお願いね。二階堂、席変わってやって。」


先生の言葉に、青豆は内心で「やっぱり」とつぶやいた。なぜなら、こういう役は大抵、自分に回ってくるのだ。不運の女神に選ばれし者だから。断りたい。でも、断れない。断ったら「冷たいお嬢様」と陰で言われる未来が見える。


隣の二階堂すずめが、

ガタガタと音を立てて席を立った。


「え、待って」青豆は、目で必死に追いすがる。

すずめは、ばちん、とウィンクして、今日になって追加されたばかりの最後尾の席に移動した。


――奴め。私を生贄に、後ろの楽園を手に入れた。


親友のすずめの隣になれたことが、最近で数少ない幸運だったのに。




そして案の定、不運は待っていた。


まず教科書だ。


転校生は自分の教科書を注文し忘れていた。先生が「西園寺さんのを見せてあげなさい」と言う。青豆は渋々、机をくっつけ、教科書を見せる。しかし、問題は中身だ。青豆の教科書には、退屈に耐えかねて描いた落書きがある。歴史の偉人の顔に、堂々と太いひげ。コミカルすぎて、自分でも思わず笑いそうになった。


転校生はページをめくり、そこで立ち止まった。


「……これ」


青豆は慌てて落書きを隠そうとするが、遅かった。

彼は小さく笑った。肩まで揺らして笑った。


「アンタが書いたの?意外…」


青豆は無言でページをめくる。褒められるようなことではない。これはただの、自分の小さな罪だ。



次に、昼休み。


青豆はいかつい転校生を案内して校内を歩いた。図書室、購買部、理科室。

返事が平坦すぎて、青豆は反射的に眉をひそめる。

あの声には、心拍数を下げる効果があるのではないか。怖すぎる。

そこへ、窓から小さな虫が飛び込んできた。まるでここぞというタイミングを狙っていたかのように。


青豆の口めがけて。


「ごほっ、ごほっ」


転校生は醒めた目をしていたが、意外にも「大丈夫?」と聞いてきた。「大丈夫」としか言えない。大丈夫ではなかった。


(大丈夫じゃないと答える勇気が、もっと大丈夫ではなかった。)


そして、不運は続く。


廊下の向こうに、片想いの相手が歩いてきた。

よりによって、虫を吐き出した直後。しかも転校生と二人きりの図。


恋はタイミングと言うけれど、不運もまたタイミングである。どちらかと言えば、不運のほうが俊敏だ。


どう解釈されたかはわからない。楽しそうに見えたかもしれないし、誤解されたかもしれない。


青豆の心臓は嫌なリズムで跳ねた。まるで太鼓を叩く練習中の小学生。


不運とは、連続するもの。


そして、なぜかその中心に自分がいる。

西園寺青豆はため息をついた。


怖すぎる転校生に、これからも目を細めて付き合わなければならない予感がしていた。

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