第3話「顔屋」



### 1


山崎美咲は、鏡の前で三時間が経過していた。


ファンデーション、コンシーラー、アイシャドウ、アイライン、マスカラ、チーク、リップ——すべてを完璧に仕上げた。


しかし、満足できない。


スマホのカメラを起動し、自撮りをする。


画面に映る自分の顔を見て——美咲は、ため息をついた。


目が小さい。鼻が低い。輪郭が丸すぎる。


美咲は、加工アプリを開いた。


目を大きくする。鼻を高くする。輪郭をシャープにする。


画面の中の自分が——変わっていく。


理想の顔。


完璧な顔。


美咲は、その顔を見つめた。


「この顔に……なりたい」


その瞬間——


画面の中の顔が、歪み始めた。


美咲は目を見開いた。


顔の輪郭が溶け、目が大きく開き、口が裂けていく。


「え……?」


画面が、真っ黒になった。


そして——


美咲の視界が、歪んだ。


---


### 2


気づくと、美咲は古い商店街に立っていた。


シャッターが閉まった店が並び、街灯が薄暗く道を照らしている。


しかし、遠くに——灯りが見えた。


八軒の店。前回よりも、さらに明るい。まるで、街全体が息をしているかのように。


「お待ちしておりました」


声が、背後から聞こえた。


美咲は振り返った。


少女が立っていた。長い黒髪、白いワンピース。しかし、その影が——異様に濃い。


そして、少女の手には——古い手鏡が握られていた。


鏡の表面が、月光を反射して揺れている。


「あなたは……」


「灯守です」少女は微笑んだ。「お顔を、お探しですか?」


灯守は、手鏡を美咲に向けた。


美咲は、鏡を覗き込んだ。


そこに映る自分の顔——しかし、わずかにズレている。


まるで、顔が二重に重なっているかのように。


「あなたの顔は、ここにはありません」灯守は、商店街の奥を指差した。「でも、手に入れることができます」


灯守は歩き出した。カツン、カツン——そして、ズリ、という音。


美咲は、その後を追った。


---


### 3


三軒目の店の前に辿り着いた。


看板には、古い文字で書かれている。


**「顔屋」**


店の前には——無数のマネキンが並んでいた。


それぞれが、異なる顔を持っている。美しい顔、幼い顔、大人びた顔、中性的な顔。


どれも、完璧だった。


しかし——


どのマネキンも、表情がない。


まるで、顔だけが別の場所から切り取られて、貼り付けられたかのように。


「どうぞ」


灯守がそう言うと、店のドアが開いた。


美咲は、店内に足を踏み入れた。


中は——さらに多くのマネキンで埋め尽くされていた。


天井まで続く棚に、無数のマネキンの頭部が並んでいる。それぞれの顔が、微かに光を放っていた。


そして、店の奥——


一人の人物が立っていた。


性別がわからない。背が高く、痩せていて、白い服を着ている。しかし、顔の下半分が——白いマスクで覆われている。


目だけが、美咲を見つめていた。


「いらっしゃい」


声は——男とも女ともつかない、中性的な響き。


「あなたの顔を、交換しましょう」


主人は、棚の前に歩いていった。


マネキンの頭部を一つ手に取り、美咲に差し出した。


「どの顔が、お好みですか?」


美咲は、棚を見上げた。


無数の顔。無数の表情——いや、表情のない顔。


そして——


ある顔が、美咲の目を引いた。


完璧な造形。大きな瞳。誰もが振り返るような美貌。


美咲は、その顔に手を伸ばした。


「これ……」


主人は頷いた。


「良い選択です。では——」


主人は、別のマネキンを指差した。


そのマネキンは、他とは違った。


口が、微かに動いていた。


まるで、何かを話しているかのように。


美咲は、そのマネキンに近づいた。


耳を澄ますと——声が聞こえた。


「あなたの絵、最高です」


美咲は息を呑んだ。


この声——


「これは……」


「以前のお客様の、"声"です」主人は、マネキンの肩に手を置いた。「このマネキンには、声が封じられています。だから、話すことができます」


美咲は、マネキンを見つめた。


顔は美しい。しかし、その表情は——固まっている。


「では、交換しましょう」


主人は、美咲の前に立った。


「あなたの顔を、いただきます」


主人の手が、美咲の顔に触れた。


冷たい。


---


### 4


カク、カク、カク。


何かが外れる音。


美咲は、自分の顔が——外されていくのを感じた。


痛みはない。しかし、奇妙な感覚。


まるで、マスクを外すように。


そして——


美咲の顔が、完全に外れた。


主人は、美咲の顔を手に持った。


「美しい顔です。次のお客様に、喜ばれるでしょう」


美咲は——顔のない状態で、鏡を見た。


そこには、何もなかった。


のっぺらぼう。


「さあ、新しい顔をどうぞ」


主人は、美咲が選んだ顔を差し出した。


美咲は、その顔を受け取った。


そして、自分の頭に——装着した。


シュッ。


真空が解除される音。


顔が、吸い付くように定着した。


美咲は、鏡を見た。


そこに映る自分の顔——


完璧だった。


大きな瞳、高い鼻、シャープな輪郭。


理想の顔。


美咲は、笑った。


しかし——


鏡の中の顔は、笑っていなかった。


「え……?」


美咲は、もう一度笑おうとした。


しかし、顔は——動かない。


表情が、固定されている。


「大丈夫です」主人は、美咲の肩に手を置いた。「慣れるまで、少し時間がかかります」


美咲は——鏡の中の自分を見つめ続けた。


完璧な顔。


しかし、表情のない顔。


---


### 5


翌朝、美咲は目を覚ました。


鏡を見る。


そこには——昨夜の顔が、そのまま残っていた。


夢じゃない。


美咲は、スマホを手に取った。


自撮りをする。


画面に映る自分の顔——完璧だった。


加工の必要がない。


美咲は、その写真をSNSに投稿した。


反応は——瞬時だった。


いいねが、爆発的に増えていく。千、一万、十万——


コメント欄は、賞賛で埋め尽くされた。


「美しすぎる!」


「どうやったらそんな顔になれるの?」


「完璧すぎて言葉が出ない」


美咲は——喜ぼうとした。


しかし、顔は動かない。


笑顔が、作れない。


---


それから、美咲の人生は一変した。


撮影依頼が殺到し、雑誌の表紙を飾り、テレビにも出演した。


誰もが、美咲の顔を褒めた。


しかし——


誰も、美咲自身を見ていなかった。


ある日、友人が美咲に言った。


「美咲、最近、表情が硬くない?」


美咲は答えようとした。しかし、口が——動かない。


「まあ、疲れてるんだろうね」友人は笑った。「でも、相変わらず美人だよ」


友人は、美咲の顔を見つめた。


しかし、美咲自身を——見ていない。


その夜、美咲は鏡の前に立った。


完璧な顔。


しかし、泣くことも、笑うことも、怒ることもできない。


鏡の中で——


美咲の元の顔が、映った。


涙を流している。


美咲は、鏡に手を伸ばした。


しかし——


触れることはできなかった。


---


### 6


その夜、美咲は再び商店街にいた。


灯守が、目の前に立っている。


「いかがでしたか?」


灯守は、手鏡を差し出した。


美咲は、鏡を見た。


そこに映る自分の顔——完璧だった。


しかし、表情がない。


「元に……戻して」


美咲は、声を絞り出した。


しかし、灯守は首を横に振った。


「戻すことはできません。あなたの顔は——もう、あなたのものではありません」


灯守は、顔屋を指差した。


店の奥で——


美咲の元の顔が、新しいマネキンとして並んでいた。


涙を流したまま、固まっている。


「安心してください」灯守は、そのマネキンの顔を撫でた。「次のお客様に、人気が出そうです」


美咲は、膝から崩れ落ちた。


完璧な顔で——


泣くことさえできなかった。


---


### 7


翌朝、美咲は撮影現場にいた。


カメラマンが言う。


「はい、笑って!」


美咲は——笑おうとした。


しかし、顔は動かない。


「もっと表情を!」


美咲は——必死に笑おうとした。


しかし、完璧な顔は——何も語らなかった。


---


店の奥で、何かが脈打っていた。


繭のようなもの。


灯守は、それを見つめながら、微笑んだ。


「次のお客様も、もうすぐですね」


---


"理想の顔"を手に入れたら、最初に誰に見せる?


【第3話 終】

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