欲ノ市 ―願いを喰らう八つの店―

ソコニ

第1話「声の瓶屋」



### 1


深夜二時。


桐谷ユイは暗闇の中、スマホの光だけを頼りに自分の投稿を眺めていた。


今日アップしたイラストは、三週間かけて描いた渾身の一枚だった。背景の光の表現、キャラクターの表情、構図——どれも妥協しなかった。プロのイラストレーターとして、これまでで最高の出来だと自負していた。


いいね、三つ。


コメント、ゼロ。


ユイは画面を下にスクロールした。タイムラインには、同期のイラストレーター・桜井の投稿が流れてくる。ラフスケッチのような簡単な絵。それなのに、いいねは十万を超えている。


「かわいい!」「天才すぎる」「桜井さんの絵、大好きです!」


コメント欄は賞賛で埋め尽くされていた。


ユイは息を吐いた。胸の奥に、何か黒いものが沈んでいく。


三年前、二人は同じ美術大学を卒業した。実力は同じくらいだったはずだ。いや、ユイの方が技術的には上だったかもしれない。それなのに、今では桜井は企業案件が途切れず、ユイの仕事は月に一件あるかないか。


違いは何だろう。


華やかさ? 愛嬌? それとも、運?


ユイは自分の投稿を再び見つめた。丁寧に描いた線。計算された色彩。でも、誰も見てくれない。


「もっと……」


声が、自然と漏れた。


「もっと、認められたい」


その瞬間、スマホの画面が歪んだ。


ユイは目を疑った。画面の中で、イラストが溶けていく。いいねのアイコンが液体のように流れ落ち、文字が形を失っていく。


そして、真っ黒な画面の中央に、一行の文字が浮かび上がった。


「欲ノ市、本日開市」


ユイは画面をタップした。しかし、反応がない。文字はゆっくりと明滅し、やがて消えた。


画面が元に戻る。さっきの光景が、幻だったかのように。


ユイは息をついた。疲れているんだ、きっと。最近、まともに寝ていない。幻覚を見ても、おかしくはない。


スマホを置き、ユイはベッドに横になった。


目を閉じる。


すぐに、眠りが訪れた——はずだった。


---


### 2


目を開けた瞬間、ユイは立っていた。


足元はアスファルト。見上げれば、夜空。しかし星は見えない。代わりに、薄暗い街灯が視界の端で揺れている。


ここは、どこだ?


ユイは周囲を見回した。


古い商店街だった。シャッターが閉まった店が並び、錆びた看板が風に揺れている。人の気配はない。静寂が、耳を圧迫するように重い。


しかし、遠くに——灯りが見えた。


八つ。


八軒の店だけが、暖かな光を放っていた。それ以外の店は、まるで廃墟のように闇に沈んでいる。


ユイは一歩、踏み出した。足音が、やけに大きく響く。


「ようこそ」


声が、背後から聞こえた。


ユイは振り返った。


そこに、少女が立っていた。


年の頃は十代前半だろうか。長い黒髪。白いワンピース。笑顔——しかし、その笑顔は、どこか人形めいていた。


そして、ユイは気づいた。


少女の影が、濃すぎる。


まるで、影だけが別の生き物のように、地面に這いつくばっている。さらに、少女の片足——左足が、わずかに外側を向いている。まるで、体の向きと関係なく、別の方向を見つめているかのように。


「あなたの欲しいものが、ここにあります」


少女は、そう言った。


ユイは一歩、後ずさった。「あなた、誰? ここは、どこ?」


「わたしは灯守(あかりもり)。この市を、守っている者です」


少女——灯守は、ゆっくりと歩き出した。足音が二重に聞こえる。カツン、カツン。しかし、その間に、もう一つ——ズリ、という音が混じる。まるで、片足が地面を引きずっているかのような。


灯守は、八つの灯りの方を指差した。


「あちらに、あなたの求めるものがあります」


「求めるもの?」


「ええ。あなたは、何かを欲しがっている。そうでなければ、ここには来られません」


ユイは息を呑んだ。


さっきの、スマホの画面。


「欲ノ市、本日開市」


「これは……夢?」


「夢かもしれませんし、そうでないかもしれません」灯守は、微笑んだ。「大切なのは、あなたが"ここにいる"ということです」


灯守は、ユイの手を取った。冷たい。まるで、氷のような手。


「さあ、行きましょう。最初の店が、あなたを待っています」


---


### 3


灯守に導かれ、ユイは商店街を歩いた。


両脇の店は、どれも閉まっている。窓ガラスは割れ、看板の文字はかすれている。しかし、遠くの八軒の灯りだけが、まるで生き物のように明滅していた。


やがて、最初の店の前に辿り着いた。


看板には、古い文字で書かれている。


「声の瓶屋」


店の前には、無数のガラス瓶が並んでいた。大小さまざま。透明なもの、色付きのもの。それぞれの瓶の中で、何かが揺れている。


光? いや、違う。


声だ。


瓶の中に、声が封じられている。


ユイは、一つの瓶に近づいた。耳を澄ますと、かすかに聞こえる。


「愛してる」


別の瓶からは、笑い声。


「ありがとう」


「君は最高だよ」


「ずっと一緒にいよう」


無数の声が、瓶の中で囁き合っている。


「どうぞ、お入りください」


灯守がそう言うと、店のドアが、ひとりでに開いた。


ユイは躊躇した。しかし、灯守の視線に押され、店内に足を踏み入れた。


中は、想像以上に広かった。天井まで続く棚に、無数の瓶が並んでいる。どの瓶も、微かに光を放っていた。


そして、店の奥——カウンターの前に、老婆が座っていた。


背中が丸く、皺だらけの顔。しかし、その目だけは異様に澄んでいた。まるで、ガラス玉のような。


「いらっしゃい」


老婆の声は、しわがれていた。しかし、不思議と耳に心地よい。


「あなたに必要な"言葉"を、売りましょう」


ユイは、声を絞り出した。「言葉……?」


「ええ。あなたが欲しい言葉。あなたが聞きたい言葉。あなたが、言えなかった言葉」


老婆は立ち上がり、棚の前に歩いていった。ガラス、ガラス、ガラス——瓶が触れ合う音が、店内に響く。


「さあ、選びなさい。どの声が、あなたの心を満たすか」


ユイは、棚を見上げた。


無数の瓶。無数の声。


そして、ある瓶が、ユイの目を引いた。


小さな、透明な瓶。中で、金色の光が揺れている。


ユイは、その瓶を手に取った。


瓶を耳に当てると——声が聞こえた。


「あなたの絵、最高です」


ユイの心臓が、跳ねた。


別の瓶を手に取る。


「才能あるね」


さらに別の瓶。


「ずっと見ていたい」


ユイの手が震えた。


これだ。


これが、ユイが欲しかった言葉。


「これを……ください」


老婆は、ゆっくりと頷いた。


「よろしい。では、代金をいただきます」


「代金?」ユイは財布を取り出そうとした。


しかし、老婆は首を横に振った。


「お金ではありません。この店では、"声"で支払っていただきます」


「声……?」


「ええ。あなたの声を、少しだけいただきます。ほんの少し。気づかない程度に」


老婆は、カウンターの上に小さな漏斗を置いた。


「ここに、あなたの声を吹き込んでください」


ユイは、漏斗を見つめた。


おかしい。何かが、おかしい。


しかし——


瓶の中の声が、再び聞こえた。


「あなたの絵、最高です」


ユイの胸が、熱くなった。


認められたい。


評価されたい。


誰かに、「すごい」と言われたい。


ユイは、漏斗に口を近づけた。


そして、息を吹き込んだ。


漏斗の奥で、何かが光った。


---


### 4


気づくと、ユイは自室にいた。


ベッドの上。スマホが、手の中にある。


夢……?


ユイは身体を起こした。時計を見ると、午前六時。外は明るくなり始めている。


あの商店街は、夢だったのか。


ユイはスマホを見た。昨夜投稿したイラストが、画面に表示されている。


いいね、三つ。


変わっていない。


やはり、夢だ。


ユイは息をついた。しかし、その時——


通知が、画面に現れた。


「新しいいいねが100件あります」


ユイは、目を見開いた。


画面を開く。


いいねの数が、急激に増えていた。百、二百、五百——あっという間に、千を超えた。


コメント欄も、賞賛で埋め尽くされている。


「すごい!」


「才能の塊ですね」


「あなたの絵、最高です」


ユイの心臓が、激しく打った。


これは——


夢じゃない。


---


### 5


それから、ユイの生活は一変した。


投稿するたびに、いいねが爆発的に増えた。フォロワーは一週間で一万人を超え、企業からのオファーが次々と舞い込んだ。


桜井よりも、ずっと多い。


ユイは、毎日が夢のようだった。


しかし——


ある日、友人から電話がかかってきた。


「ユイ、最近すごいね! SNS見たよ!」


ユイは笑った。「ありがとう」


しかし、その声は——ユイのものではなかった。


友人は気づかない。「また今度、飲みに行こうよ!」


「うん、楽しみにしてる」


電話を切った後、ユイは鏡を見た。


口を動かす。


「あ、い、う、え、お」


声が出る。しかし、それはユイの声ではなかった。


まるで、録音された音声のような——どこか、機械的な響き。


ユイは、喉に手を当てた。


何が起きている?


その夜、ユイは再びスマホを見つめた。


フォロワーは三万人を超えていた。毎日、賞賛のコメントが届く。


しかし、ユイ自身の声は——もう、ない。


友人と話すとき、家族に電話するとき、すべて「瓶の声」が代弁する。


「あなたの絵、最高です」


「才能あるね」


「ずっと見ていたい」


同じ言葉が、繰り返される。


ユイは、鏡の前に立った。


口を開く。しかし、自分の言葉が——出ない。


口が、半透明になっていた。


まるで、そこに何もないかのように。


ユイは叫ぼうとした。しかし、出てくるのは——


「あなたの絵、最高です」


瓶の声だけだった。


---


### 6


その夜、ユイは再び商店街にいた。


灯守が、目の前に立っている。


「お帰りなさい」


灯守は、微笑んだ。


「楽しんでいただけましたか?」


ユイは、声を——瓶の声を絞り出した。


「わたしの声を……返して」


灯守は、首を傾げた。


「返す? おかしなことをおっしゃいますね。あなたは、自分で売ったのですよ」


「でも……」


「代償です。あなたは、認められたかった。その願いは叶いました。だから、代わりに"声"をいただいた。それだけのことです」


灯守は、ユイの肩に手を置いた。


冷たい。


「安心してください。あなたの声は、大切に保管されています」


灯守は、声の瓶屋の方を指差した。


店の中で、新しい瓶が光っていた。


その中に——ユイの声が、封じられている。


「次のお客様に、喜ばれますよ」


灯守は、そう言って笑った。


ユイは、膝から崩れ落ちた。


「いや……」


しかし、出てくるのは——


「あなたの絵、最高です」


瓶の声だけだった。


---


### 7


翌朝、ユイは目を覚ました。


スマホを見ると、フォロワーは五万人を超えていた。


コメント欄には、賞賛の言葉が溢れている。


ユイは、笑った。


「あなたの絵、最高です」


瓶の声で、笑い続けた。


---


店の奥で、何かが動く音がした。


マネキンたちが、声を求めて蠢いている。


灯守は、その音を聞きながら、次の客を待っていた。


---


あなたの声を、瓶に詰めるとしたら、誰に聞かせたい?

【第1話 終】

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