君のいない教室

詩守 ルイ

第1話:春の教室、君がいた席

春の風が、窓の隙間からそっと入り込んでくる。

新しい制服の襟元が少しだけ硬くて、千紗は指先で何度も撫でた。

教室は、ざわざわとした声で満ちている。新しいクラス、新しい席、新しい人間関係。

けれど、千紗の視線は、ただ一つの席に吸い寄せられていた。


窓際、三列目のいちばん後ろ。

そこは、律が座っていた席だった。


誰も座っていないその席は、まるで時間が止まったように静かだった。

新しい名簿には、律の名前はもうなかった。

先生も、誰も、そのことに触れようとしない。

まるで最初から、彼は存在しなかったかのように。


千紗は、鞄の中に手を入れ、小さな紙片を握りしめた。

それは、律が最後に渡してくれたメモだった。

「次の休みに、図書室で待ってる」

その約束は、果たされることはなかった。


事故だった。

春休みの終わり、律は自転車で坂道を下っている途中、車にぶつかった。

即死だったと聞かされたとき、千紗は何も感じなかった。

涙も出なかった。

ただ、心の中にぽっかりと穴が開いたような感覚だけが残った。


「ねえ、千紗って、律と仲良かったよね?」

隣の席の女子が、遠慮がちに声をかけてきた。

千紗は、笑顔を作ろうとしたけれど、うまくいかなかった。

喉の奥が詰まって、声が出ない。

代わりに、彼女は小さくうなずいた。


「そっか……ごめんね、変なこと聞いちゃって」

その子は、気まずそうに目をそらした。


千紗は、律との思い出を誰かに話すことができなかった。

ふざけ合った日々、喧嘩したこと、笑い合ったこと。

それらすべてが、今では自分だけの秘密になってしまった。


昼休み、千紗はそっと教室を抜け出し、校舎の裏にある小さなベンチに座った。

そこは、律とよく話した場所だった。

風が髪を揺らし、遠くでチャイムが鳴った。


「律……」

初めて、彼の名前を声に出した。

それだけで、涙が溢れた。


言えなかった言葉が、胸の奥でずっと疼いている。

「好き」って、たった一言が、どうしてこんなにも重いのだろう。

あの時、言えていたら、何か変わっていたのだろうか。

そんな問いは、もう誰にも答えてもらえない。


春の教室は、今日も変わらず騒がしい。

けれど、千紗の世界は、律がいないことで、少しだけ色を失っていた。

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