第13話 恋の鬼ごっこ

カフェを出てすぐ、秋の風が頬を撫でた。

 空は淡い青、金木犀の香りが街の隅々にまで満ちている。


「……神谷様、少し歩きませんか?」


 穏やかに微笑む美桜。

 柔らかで自然な生成りのワンピース姿の美桜を、通りすがりの人が二度見するほど絵になっている。


「いいけど、疲れてないか?」

「ええ、大丈夫です。……それに」

 美桜はくすっと笑い、

「神谷様と過ごす時間が、いちばん癒しになりますから」


 その言葉に、心の奥で小さな痛みが走った。


 ――俺は、癒される資格があるのか?




 秋の午後。

 街の噴水公園は、子どもたちの笑い声と水の音で満ちていた。


 ベンチに並んで座る神谷蓮と美桜。

 穏やかな風が二人の間を通り抜けていく。


「……今日は、穏やかですね」

 美桜が微笑む。薄桃色のマフラーがふわりと揺れた。


「ああ。こんな日が、ずっと続けばいい」

 蓮も笑みを返す。


 隣を歩く美桜が花壇の前で立ち止まる。

「わぁ……コスモス、もう咲いてるんですね」

 指先で花弁をそっと撫でる仕草が、まるで祈りのようだった。


「季節、早いな」

「そうですね。……でも、こうして季節を感じられるのって、幸せです」


 風が吹き、彼女の髪が光をまとって揺れる。

 その横顔に――心が一瞬、奪われた。


(……この時間が、ずっと続けばいい)

 そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられる。


 “そんな幸福を望む資格は、俺にはない”


 ふと、子どもたちの笑い声が聞こえた。

 小さな手をつないで歩く親子の姿。

 その「普通の幸福」が、ひどく遠くに感じる。


「神谷様?」

「いや、なんでも……」


 美桜は彼の顔をじっと見つめたあと、静かに微笑む。


「――神谷様。過去は消えません。でも、見つめ方は変えられます」

「見つめ方……?」

「ええ。罪を悔やむだけではなく、誰かの痛みを“共に抱く”こともできます」


 その言葉に、呼吸が止まった。

 彼女は、俺の罪を責めない。

 ただ、受け止めてくれる。


 少し沈黙のあと、美桜が右手をそっと差し出した。

「手……つないでもいいですか?」


 手のひらが、震える。

 触れた瞬間、壊してしまいそうで怖かった。


「……俺、こういうの……下手なんだ」

「知ってます」

「……知ってるんだな」

「はい。だから、大丈夫です」


 その笑顔が、あまりにも優しかった。


 手を伸ばしかけ――

 ふと、視線の端で“揺れる影”が見えた。

人混みの向こうで、ふと目に入った長い黒髪。

 こなれ感のあるデニムスタイルの服装。

 あの整った姿勢。

 蓮の心臓が一瞬、止まった。


(……なんで、ここに?)


 桐生里奈。

 生徒会長であり――

 そして、前世の小説『愛と裏切りの庭』の中心にいたメインヒロインの少女であり主人公の幼馴染。


 彼女の周囲に、三人の男がいた。

 見た目は派手で、どこか焦点の合わない瞳。

 軽い口調で笑いながら、里奈に手を伸ばそうとしている。

 嫌な予感が、蓮の背中を這った。





 ――目の前の二人が、笑っていた。


 里奈は木の影に身を潜め、息を殺していた。

 スカートの裾は土に汚れ、靴は泥まみれ。

 それでも目は、彼から離せなかった。


「……神谷くん、また笑ってる……」


 遠くで、彼が誰かに優しく微笑んでいる。

 あの、柔らかな表情。

 私には、向けてくれなかった笑顔。


「……どうして、そんな顔できるの?」

 声が震えた。

 唇を噛んでも、涙は止まらない。


 胸の奥が焼けるように痛い。

 なのに――不思議と、どこか心が温かい。


「……なんで、苦しいのに、嬉しいの……?」


 脳裏に、もう一人の自分の声が響いた。


 (甘やかで危うい声):

「ねぇ里奈、気づいた? 興奮してるんだよ」


(冷静で必死な声):

「や、やめろ……! そんなの違う……!」


 (甘やかで危うい声):

「違わないよ。彼が他の女と笑うほど、あなたは生きてるって感じるの」


「ねぇ――今度はあなたが、快楽を与える番だよ」


(冷静で必死な声):

「やめて……! これ以上、壊れたくない……!」


 頭の奥で、何かが崩れる音がした。


 目の前が、ぐにゃりと歪む。

 風の音だけが鮮やかに響く。

 世界が“色”を失い、“音”だけが残る。


 ――鳥の鳴き声。風のざわめき。

 遠くで聞こえる、あの人の笑い声。


 それだけが、はっきりと聞こえた。


「……神谷くん」


 その瞬間、世界が色を取り戻す。

 瞳が赤く潤み、唇が自然に笑った。


 恋愛脳・由奈が、完全に目を覚ます。

「見つけた……神谷くん。やっと、また会えるね」


 ふらつきながら、彼女は立ち上がる。

 そして、迷いのない足取りで、歩きだした――。



 噴水の前。

 秋の陽射しが傾き、銀の飛沫が光を跳ね返している。


 桐生里奈は、微笑んでいた。

 その笑みは穏やかで、どこか夢を見るようにぼんやりしている。


「私? 恋の観察中なの」

 柔らかな声で言う。

 それは――“理性の里奈”ではなかった。

 彼女の笑みに、3人の男たちの動きが止まる。

 瞳が濁り、理性が溶ける。


 “恋愛脳”の由奈。

 前世の小説『愛と裏切りの庭』の設定どおりに、男を魅了し暴走させた。


「……なんだ、この女……」

「……離したくねぇ……」


 その瞬間、由奈の肩に男の手が伸びた――

 そして。


「離せ。――彼女に触るな!」


 蓮が飛び込んだ。

 由奈の腕を掴み、そのまま走り出す。


「えっ……神谷くん!?」


 彼の手は温かく、力強かった。

 水音と人のざわめきを背に、二人は全速力で走る。

 噴水公園を抜け、商店街の路地へ。

 夕暮れの街を、二人は駆け抜けた。

「神谷くん、これってまるで――鬼ごっこね」

 

里奈が笑う。少し息を切らしながらも、どこか楽しげだった。


「笑ってる場合か! 走れ!」

 蓮は手を強く握り、振り返りもせずに叫ぶ。


 背後では、男たちの足音が響く。

 まるで“鬼”が追いかけてくるようだった。


「あなたの手、あの頃より……温かい」

 

 里奈の呟きに、蓮の心が揺れる。

 頭の奥でフラッシュバックする記憶。

 “押し倒されたベッド”

 “泣きながら拒む由奈”

 “それでも笑う自分”――。


 “あの頃”――

 彼がまだこの身体に憑依する前。

 彼女を壊してしまった過去。


(もう二度と、あの時の俺には戻らない。絶対に……)


 蓮は自分に言い聞かせるように息を吸い込む。


「ねぇ神谷くん」

 里奈が小さく笑う。

「逃げてるのは……どっち?」


 蓮は言葉を失った。

 その問いが、胸の奥の痛みを正確に突いてきたから。




 裏通り。

 古びた街灯が灯り始め、夕焼けが影を長く引いていた。


 二人はようやく立ち止まり、壁に背を預ける。


「……はぁ……なんとか、撒いたか」

「神谷くん、息が上がってますよ」

「そりゃそうだ……全力疾走だもんな」


 笑い合うその一瞬、時間が止まったようだった。

 里奈は蓮の肩にもたれ、静かに微笑む。


「あなたはいつも、私を救って、壊す」

「……救いたいんだ。本当に」


 蓮の声は震えていた。

 彼は憑依前の神谷から逃れられていない。


「ねぇ」

 里奈が小さく囁く。

「私、追われるの……好きなの。あなたとなら、どこまででも逃げたい」


 その声には、甘さではなく“痛み”があった。

 愛されることを恐れ、失うことを恐れる声。


 蓮は彼女の腰に手を回し。

 そして、ゆっくりと由奈を抱きしめながら言った。


「もう逃げなくていい。……俺がいるから」


 その言葉に、里奈の瞳がわずかに震えた。



 やがて、警察のサイレンが遠くで鳴り響く。

 混乱の末、男たちは保護され、事態は静かに収束した。


 噴水前に戻ると、夕陽が水面を赤く染めていた。

 里奈は水面を見つめながら呟く。


「やっぱり、あなたは……私の運命」

「運命なんて、信じたくなかった」

「でも、信じちゃう。だって、また出会えたから」


 蓮は何も言えなかった。

 “赦されること”が、こんなにも苦しいとは思わなかった。


 二人をずっとつけていた美桜は遠くの木陰で、二人を見ていた。

 表情には、嫉妬でも怒りでもなく――静かな哀しみ。


「……神谷様、どうか……」


 風が吹き、彼女の声は噴水の音にかき消された。

 それでも祈るように、美桜は目を閉じた。



 夕暮れ。

 人の気配が減った公園で、里奈が一歩、蓮へと近づく。


「ねぇ神谷くん」

「……なんだ」

「次は、私が“鬼”ね」


 そう言って、彼女はふっと微笑んだ。

 それはもう“狂気”ではなく――静かな決意の笑みだった。


「……逃げても無駄ですよ。だって、もう一度あなたを見つけたから」


 蓮はため息をつき、苦笑した。

「怖いな、それ」


「でしょ? でも、少し嬉しいでしょ」


 二人の影が、朱い噴水の上に重なった。

 風が吹き抜け、水面が揺れる。


 ――恋の鬼ごっこは、まだ終わらない。

 けれど、もう誰も泣かない鬼ごっこであってほしいと、蓮は願った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る