『最適化された虚無(オプティマイズド・ヴォイド)』

トモさん

第1話:モニター料、10万円の重さ

相馬圭吾は、窓の外をぼんやりと見ていた。


三年。


ベストセラー作家として名を馳せ、華やかなパーティーで笑っていたのは、たった三年前だ。今は、築四十年は経とうかという安アパートの一室。窓の外に見えるのは、雑居ビルの古びた非常階段だけだ。


パソコンの画面は、もう三時間、白いままだった。


新しい小説を書こうにも、脳みそが痺れて動かない。かつては頭の中で言葉が洪水のように溢れ、指がキーボードを追いつかないほどだったのに、今の圭吾の手から生まれるのは、陳腐で、薄っぺらで、何より「売れない」文章だけだった。


「どうしてだ……」


低い声が、埃っぽい部屋に響く。


圭月堂書店に持ち込んだ最新の原稿は、編集長から冷たいメール一つで突き返された。「相馬さんの作風は、今の読者層には響きません。時代の変化についていけていません」。そのメールを読んだ日以来、圭吾はまともにキーボードを触れていない。


机の上には、わずか二ヶ月分の家賃と、今月の食費を引いた残りの金が、無造作に置かれていた。七万八千円。このままでは、冬を越せない。


ふと、画面の隅に溜まっていた迷惑メールフォルダが気になった。どうせロクなものはないだろうと消去しようとした指が、ある件名で止まる。


【緊急募集】新世代AI創作支援システム・モニター


なんだ、これは。胡散臭いにも程がある。


しかし、そのメール本文に書かれていた一文が、圭吾の心をざわつかせた。


あなたの過去の成功体験をAIが深く学習。「売れる小説」のパターンを最適化し、あなたの創作活動を完全にバックアップします。


【限定特典】参加初月のモニター協力費として、一律100,000円をお支払いします。


※システム登録料として、初めに100,000円をお振り込みいただく必要があります。


「モニター協力費10万円。登録料10万円」。


結局、金銭的にはプラマイゼロではないか。それどころか、怪しいシステムに銀行口座の情報を知られてしまう。即座に「詐欺だ」と切り捨てるべきだった。


だが、圭吾の指は、もう一度、置かれていた七万八千円を数えた。そして、心の中で計算した。


あと二万二千円をどこかで工面すれば、この「売れる小説のパターン」とやらを試せるかもしれない。このAIが本当に自分の過去の栄光を分析し、「時代の変化についていけていない」自分を最適化してくれるのなら——。


それは、まるで悪魔との契約のようだった。だが、今の圭吾には、プライドも、失うべきものも残されていなかった。


七万八千円を握りしめ、圭吾は立ち上がった。


「二万二千円……どこから作る?」


彼の視線は、部屋の隅に置かれた、かつて彼を「時の人」にしたベストセラー小説の初版本に向けられていた。帯には、彼の満面の笑みの写真と、「天才、相馬圭吾、ここに誕生!」というコピーが躍っている。


それを売れば、二万二千円どころか、もっと金になるだろう。


圭吾は初版本を手に取った。分厚く、重い。それは、過去の栄光そのものだった。


そして、その栄光を売って、未来の成功という名の、胡散臭いAIに賭ける。


彼は、その初版本を段ボール箱に乱暴に放り込んだ。そして、キーボードを叩き、AIのモニター申し込みフォームへと進んだ。


もう後戻りはできない。100,000円の重みは、彼の全財産を失う恐怖と、「もう一度売れたい」という泥のような渇望だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る