第13話「メールの中の“好き”は今も」
名古屋支店への異動が正式に決まった翌週。
湊のデスクは、東京本社の片隅で静かに片づけられていた。
経理部の窓から見える営業フロアの光景。
そこに、いつも彼がいた。
冗談を言いながら報告書を出しに来て、
時々、誰もいない時間にコーヒーを置いていく。
その全部が、もうすぐ消える。
引き継ぎ会議の最終日。
廊下の向こうで、営業部員たちが湊を囲んでいた。
「一ノ瀬さん、名古屋でも頑張ってくださいよ」
「次は支店長ですね」
「期待されてるな」
「お前が言うな」
笑い合う声が遠くに聞こえる。
その中に、自分の名前はなかった。
机の上に視線を落とすと、
ファイルの間に小さな付箋が挟まっていた。
【桜井経理へ】
まだ経費で落ちない気持ち、
名古屋でも処理しておきます。
思わず笑いそうになって、すぐに唇を噛んだ。
泣くのは、もっと後にしようと思った。
そして、出発の日。
昼休みの時間に、営業フロアへ向かう。
湊はすでにスーツケースを手にしていた。
「行くんですね」
「ああ。新幹線、もうすぐ出る」
「……気をつけて」
「お前が言うと、出張みたいに聞こえるな」
「出張じゃないんですか」
「違う。転勤。……でも、戻るよ」
「いつか?」
「うん。恋の帳簿、まだ締めてないから」
それ以上は言葉が出なかった。
無理に笑おうとしても、喉が詰まって声にならない。
湊が静かに言った。
「桜井」
「はい」
「メール、ちゃんと返せよ」
「わかりました」
「あと、たまに“お疲れさま”って言ってくれ」
「……了解です」
「それだけで、生きていける気がする」
美咲は小さくうなずいた。
扉が閉まり、エレベーターが下へと動く。
あっけなく遠ざかる背中に、
たった一言、心の中で呟いた。
(好きです)
数日後。
名古屋へ行った湊から、最初のメールが届いた。
件名:【出張報告(仮)】
本文:
名古屋の味噌カツ、美味しかった。
経費で落とせないけど、恋しさは増えてる。
どうすれば黒字になりますか。
美咲はモニターの前で笑ってしまった。
すぐに返信を打つ。
件名:【経理回答】
本文:
黒字にするには、努力と我慢と、少しの会いたさが必要です。
なお、今のあなたは見事に赤字です。
数分後、すぐに返信が届いた。
じゃあ、補填してくれ。
君の笑顔で。
画面越しなのに、まるで隣にいるみたいだった。
パソコンの光が、少しにじんで見える。
夜。
自宅の窓から見上げた空に、
ほんの少しだけ星が見えた。
遠く離れていても、
同じ空の下でメールを打っていると思うだけで、
胸の奥が温かくなる。
湊のいないオフィスはまだ寂しい。
でも、送信ボタンを押すたびに、
彼との距離が少しずつ近づいていく気がした。
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