第7話 衝突が生み出した溝

 駅前のロータリーは、夏の陽光で照り返しが眩しかった。蝉の声が容赦なく耳を打ち、汗ばんだ制服の首筋に夏の熱気がまとわりつく。波瑠香は、遠くで大和の背中が小さく見えるのを感じた。兄は配達物を抱え、忙しそうに立ち働いている。

 遼は町の少女・美月と駅前のベンチに腰掛けていた。美月は町で生まれ育った同級生で、祭りの手伝いのことで相談があると言っていた。遼はその話を真剣に聞きながら、時折笑顔を見せ、的確なアドバイスを返す。


 「そっか……ありがとう、遼くん」

 美月の声はか細くも心地よい響きがあり、遼は思わず肩をすくめ、少し照れくさい気持ちになる。


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 波瑠香は、遠くで大和の背中が小さく見えるのを感じた。兄は配達物を抱え、忙しそうに立ち働いている。


 駅前を通ったその瞬間、大和の視界に二人の姿が飛び込んだ。荷物を置き、ロータリーを見渡した先で、遼と美月が肩を寄せ合って話している——。その光景を、大和の脳裏は瞬時に解釈する。


 「遼が……俺の想いを……」

 胸の奥で何かが崩れ落ちる感覚。怒りと悲しみ、そして深い孤独。大和は足を止め、目の前の景色を信じたくない思いを押し殺す。


 波瑠香は、女性として、その距離感に気づき、心臓がぎゅっと締め付けられる。美月はただ相談をしていただけだ。遼は悪意など微塵もない——それを波瑠香は知っていた。しかし、大和の目に映る光景は、事実ではなく、感情で歪められた世界だった。


 「そんな……嘘だ……」

 大和は息を荒げ、拳を握る。怒りが熱を帯び、手のひらからじんわり汗が滲む。心の中で、遼への信頼と、町を守るという責任感が入り混じり、言葉にならない苛立ちが渦巻く。


 遼は話の合間に、ベンチの下で小さく転がったチラシを拾う。何気ない動作だが、大和の目には、まるで遼が少女に寄り添っているように見える。時間はゆっくりと流れ、夏の光と蝉の声だけが、二人の間に存在する現実を強調していた。


 波瑠香は思わず小さく息を呑む。兄の肩に見える緊張、指先にまで力が入っている様子——すぐにでも走り出して止めたい気持ちになるが、彼女の足は地面に釘付けだった。何も言えない無力感が、胸を重く押し潰す。


 波瑠香の心はざわめき、過去の小さなすれ違いの記憶が次々に蘇る。あの時の些細な言葉や行動が、いま目の前で再び連鎖しようとしている——。


 夕陽がロータリーの舗道をオレンジ色に染め、二人の影が長く伸びる。その影の重なりを見つめながら、波瑠香は心の中でそっと祈った——


 「どうか、二人の関係を壊しませんように……」


 しかし、その祈りは届かない。大和の胸の中で、信じていた友情の基盤がひび割れ始めていた。



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 町の空気は、朝から祭り一色に染まっていた。蝉の声が張り詰めるように響き渡り、潮風が微かに運ぶ海の匂いが混ざって、商店街の熱気とともに体中を包み込む。浴衣姿の人々が行き交い、色とりどりの提灯が風に揺れて揺らぎ、長い影を舗道に落としている。


 大和はすでに太鼓の前に立ち、両手にばちを握っていた。額に汗が滲み、呼吸は荒く、しかしその目は真剣そのものだ。父の体調が優れない今年、潮音館を守るため、祭りの一環として太鼓の指揮を任された彼の肩には重圧がのしかかっていた。


 「叩け……叩くんだ……」

 心の中で何度も自分に言い聞かせながら、鼓動に合わせてばちを上下させる。隣に並ぶ他の子どもたちも、緊張と興奮で小さく肩を震わせている。大和は、波瑠香が見守る目線を感じながらも、表情を引き締める。


 遼は祭りの会場にはいなかった。東京での大学説明会や模試に向けて、この日も朝から電車に揺られていたのだ。窓から差し込む夏の光が、車内の床に長い影を描き、彼の胸に小さな寂しさを落とす。祭りの熱気、太鼓の音、町の笑顔——すべてを遠くに置いてきてしまった自分への苛立ちと、どこか申し訳なさが心に混ざる。


 そのころ、波瑠香は祭りの混雑の中、兄の背中を目で追っていた。太鼓の前で集中する大和の姿は、普段の少年らしい笑顔とは違い、責任感にぎゅっと固められた強さを帯びている。だがその背中には、孤独という影も長く伸びていた。


 「お兄ちゃん……」

 小さく呟いた彼女の声は、人混みにかき消される。しかし、その心は確かに、兄の孤独を感じ取っていた。彼の心の奥底に、誰にも言えない不安と苛立ちが渦巻いていることを、波瑠香は知っている。


 祭りの太鼓の音が高く、軽やかに町中に響く。大和はその響きに合わせて叩くが、時折ばちがずれ、焦りのためにリズムが乱れる。周囲の子どもたちは必死で合わせようとするが、大和の緊張感が伝染し、微妙なずれが生じる。その瞬間、彼は自分の胸の中に、ふいに「遼がここにいたら……」という考えが浮かんだ。


 同時に、遼の顔が脳裏に蘇る——祭りを手伝えずに東京にいる自分、そしてかつて交わした夏の約束。幼い頃、防波堤で三人が手を合わせた日の誓い。「将来もずっと一緒に町を盛り立てよう」——その記憶が胸を刺す。


 波瑠香は、兄の肩に流れる汗を目にしながら、手をぎゅっと握った。どんなに離れていても、二人の間には確かに繋がりがあった——しかし、その繋がりが今、誤解と距離によって揺らいでいることを、彼女は痛感する。


 祭りのクライマックス、太鼓の音が高まり、人々の歓声が一段と大きくなる。大和は全身の力を込め、最後の一打を打ち込む。その瞬間、彼の胸の中で小さな達成感と、同時に深い孤独がせめぎ合った。隣で叩く子どもたちは笑顔で応え、観客は拍手を送るが、兄の心には一抹の寂しさが残る。


 遠く離れた場所で、遼もまた自分の席で模試の問題に向かいながら、心の片隅で祭りの太鼓の音を思い出す。目を閉じれば、兄の真剣な姿、そしてあの誓いの日——過去と現在が微かに重なる。


 この日の熱気と歓声の中で、まだ解けない誤解の糸は少しずつ絡まったまま。三人の夏は、友情の試練を静かに、しかし確実に刻み込んでいく。



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 夜の神社は、昼間の喧騒から一転、静寂に包まれていた。夏祭りの熱気は遠くの町並みに消え、境内には提灯の柔らかな光がぽつぽつと灯るだけ。蝉の声はもうなく、代わりに涼やかな風が竹の葉を揺らし、かすかな音を立てる。


 遼は、祭りの手伝いを断って東京行きの準備をしていたせいで、心のどこかに後ろめたさを抱えたまま、この神社に立っていた。足元には、砂利の粒がひんやりと冷たく、歩くたびに小さな音を立てる。深呼吸しても、心の中のざわめきは収まらなかった。


 一歩前に踏み出すと、境内の奥に、大和の姿があった。太鼓を叩く姿とは違い、肩に力が入り、目が怒りでぎらついている。風に揺れる提灯の明かりが、彼の険しい表情を浮かび上がらせる。


 遼は声をかけようとしたが、言葉はのどに詰まり、何も出てこない。沈黙が二人の間に重く垂れ下がり、波瑠香の姿も、まるで遠くから二人を見守るように立っていた。


 ついに大和が口を開く。声は震えているようで、しかし確固たる決意がにじんでいた。


 「お前……お前なんか、もう友じゃない!」


 その言葉は、遼の胸に冷たい刃のように突き刺さった。子どもの頃、何度も笑い合い、約束を交わした親友から放たれた言葉が、これほどまでに重く、痛いものだとは思わなかった。


 「……な、何だよ、それ!」遼は言葉を震わせ、必死に平静を装う。だが、その声は空に吸い込まれ、夜の静けさに溶けてしまう。


 「祭りも、町のことも……全部、放って東京に行くつもりだった。お前は、俺たちの時間を何だと思ってる!」大和の怒りは抑えきれず、声が高くなる。手には小さな振動が走り、緊張で肩が震えていた。


 遼は言い返す。声は震え、手もわずかに震える。

 「……違う!俺は、夢を掴むために……町を見捨てるつもりなんか、なかったんだ!」


 しかし、大和の目には届かない。駅前で遼と町の少女が話していた一瞬の光景——あの誤解が、怒りの火種となり、心を覆っていた。


 「じゃあ、あのとき……駅で何してたんだよ!お前に奪われたって思ったんだぞ!」大和の声は悲しみと憤怒が入り混じり、震える。


 遼は口を開いたまま、言葉が出ない。真実を語ろうとしても、相手の心に届く自信がなかった。彼の目に、幼い日の約束や笑顔が次々と浮かぶ——防波堤の下で誓った「ずっと一緒に町を盛り立てよう」という約束。しかし、その記憶は今、大和の怒りの前で無力に揺れていた。


 「……じゃあ勝手に町に縛られてろ!」遼の声がようやく夜に響いた。怒りというより、悔しさと絶望の入り混じった叫びだった。


 言葉を放った瞬間、境内に重い静寂が戻る。互いに息を荒げ、肩で息をする二人の間には、かつての絆の面影がかすかに漂うだけ。波瑠香はその背中を見て、涙がこぼれるのを止められなかった。


 「二人とも……本当は、同じ夢を語っていたのに……」心の中で叫ぶ声は、夜空の闇に吸い込まれる。


 夏祭りの灯りは美しく揺れているが、三人の心に映る光は、もはや温かさではなく、痛みの影を落としていた。


 遼と大和の間に流れる空気は、友情が完全に裂けたことを示していた。過去の思い出や誓いも、この夜の衝突の前では、ただの幻のように消え去ったのだった。



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 神社の境内は、夜風に揺れる竹の葉の音だけが響き、夏祭りの喧騒は遠くに消え去っていた。提灯の柔らかい光が地面に映る影は、揺れるたびに形を変える。そんな光景の中、波瑠香は木の陰に立ち、二人の姿を見つめていた。


 兄・大和の肩は怒りと孤独で硬直し、遼は悔しさと苛立ちで呼吸を乱している。互いに言葉をぶつけ合い、声を荒げる二人の間には、かつて交わした約束や笑顔の記憶が、何の力も持たないまま漂っている。


 「二人とも……本当は、同じ夢を語っていたのに……」


 波瑠香の胸にこみ上げる言葉は、言葉として口から出ることはなく、ただ心の奥で震えた。幼い頃から見守ってきた二人。秘密基地で夢を語り合った夏の日々、海沿いの防波堤で誓った未来、太鼓を一緒に叩いた日々——そのすべてが、今、目の前で砕け散る。


 目に熱いものが滲む。指先がかすかに震え、掌の中で握りしめた手が小さく震えた。波瑠香はそっと目を閉じ、涙が頬を伝うのを止められなかった。


 「どうして……どうしてこんなことに……」


 声にならない呟きが、夜空に吸い込まれる。涙は、怒りでも、悲しみでもなく、ただ純粋な絶望のように波瑠香の心を満たした。


 振り返れば、祭りの灯りが遠くにちらちらと揺れている。浴衣姿の人々が楽しげに笑う影は、まるで別世界の光景のように感じられた。二人の間に横たわる深い溝は、どれほど近くにいても越えられない壁のように見える。


 胸が締め付けられる。幼い頃から見守ってきた友情が、一瞬の誤解で崩れてしまった現実を、波瑠香はまだ受け入れられなかった。


 「お願い……お願いだから、互いを憎まないで……」


 心の奥底で叫ぶその願いは、夜風に消え、二人には届かない。それでも波瑠香は、涙を拭うことなく、静かにその場に立ち続けた。自分には何もできない無力さを痛感しながらも、二人の心がまた交わる瞬間を、ただ祈るように願っていた。


 境内の闇に溶ける彼女の涙は、夏祭りの灯りに反射してかすかに輝き、二人の友情が残した最後の光のように見えた。



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 波瑠香は夜の海辺を一人で歩いていた。足元に小さな波が寄せては返し、砂浜に細かい跡を残す。潮の香りとひんやりした風が、かつての夏祭りの日々を静かに呼び起こす。


 あの夜、神社の境内で兄と遼が言葉を交わした光景は、今も鮮明に胸に焼き付いていた。提灯の明かりに浮かんだ二人の影、怒りと悔しさを隠せずにぶつかり合う姿——それはまるで、時間が止まった瞬間のようだった。


 「あの時、私が間に入らなかったから……」


 波瑠香は自責の念に胸を締め付けられた。小さな誤解の積み重ねが、二人の友情を壊してしまったのだ。彼女は子どもながらに、どうすることもできなかった自分の無力さを痛感する。


 波瑠香の目の前には、海面に映る月の光が揺れている。淡い光の中で、夜の海はあの頃と変わらず穏やかで、しかし自分の胸の奥に残る痛みだけが、時を経ても消えずに漂っている。


 「でも……二人は互いを憎んでいない……ただ、傷が深すぎるだけ……」


 妹として長く二人を見守ってきた波瑠香は、そう確信していた。遼の夢も、大和の責任感も、どちらも正しかった。なのに、ほんの些細な誤解が二人の距離を決定的に引き離した——その現実に、彼女の胸は痛む。


 やがて、夜風が髪を撫で、耳に潮騒が届く。まるで時間の流れが戻ったかのように、彼女は深呼吸を一つする。心の中で、二人がまた交わる日が来ることを、静かに願った。


 「いつか……必ず、二人の心が重なる日が来ますように……」


 波瑠香の小さな祈りは、夜の海に溶けていく。目に映る波の揺らぎが、まるで二人の友情の残り火のように、かすかに揺れているようだった。


 立ち止まり、彼女は月明かりの砂浜を見つめる。その瞳の奥には、過去の痛みと同時に、未来に向けた小さな希望が宿っていた。風に揺れる潮の香りが、彼女の胸の奥に静かに染み渡る——それは、あの夏の記憶が今も生きている証のように。

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