第1話「努力って、誰が決めるの?」

「頑張れば報われる」──救いにも圧力にもなる短い言葉。

教室で交わされるごく普通の会話から、この言葉の裏に隠れた基準と仕組みを掘り下げます。

知識で問いを立て、体験で問いを揺さぶる――そんな五人の視点を通して、読者自身が感じている違和感を一緒に確かめていきたいと思います。

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『努力の国の裏側──「報われる社会」の正体を君は知らない』


### プロローグ:ある日の教室



窓から差し込む午後の光が、教室の後ろの壁を照らしている。


そこには、大きなポスターが貼られていた。


「頑張った人が報われる社会へ」


青空を背景に、力強い文字。希望に満ちた、前向きなメッセージ。


でも──


教室の一番後ろの席で、藤井葵はそのポスターをじっと見つめながら、なんとも言えない違和感を覚えていた。


葵の頭の中で、断片的な記憶が浮かび上がる。


母親が深夜、家計簿を前に溜息をついていた姿。

スーパーのレジで、「今月厳しいから」と言って、好きなお菓子を棚に戻したこと。

父親が「頑張ってるのに、なんでこんなに大変なんだろうな」と、誰にともなくつぶやいた声。


葵の両親は、毎日朝早くから夜遅くまで働いている。

休みの日も少ない。文句も言わない。


でも、生活は楽にならない。


「頑張った人が、報われる……」


葵は小さくつぶやく。


胸の奥に、モヤモヤとした何かがある。

それは、怒りなのか、悲しみなのか、それとも──


「……本当に、そうなのかな」


葵は、自分がなぜこんなに息苦しいのか、まだ言葉にできなかった。


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### 放課後の教室



いつもの公民の授業が終わった後、何人かの生徒が教室に残っていた。


葵、星野怜、佐々木遥、大西健太。そして、担任の天野創先生。


「先生、あのポスターなんですけど」


葵が手を挙げる。天野先生は穏やかに笑って、椅子に座った。


「うん、どうした?」


「頑張った人が報われる社会って、すごくいい言葉だと思うんです。でも……」


葵は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「でも、実際には頑張っても報われない人って、いますよね?」


葵の声は、少し震えていた。


それは、自分の家族のことを言っているのか、それとも──


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教室に、静寂が落ちる。


怜が顔を上げた。


「……それ、俺も思ってた」


怜の声は、いつもより少し低い。


「うちの母親、介護の仕事してるんだけど、毎日朝早くから夜遅くまで働いて、休みもほとんどない」


怜の拳が、わずかに震える。


「それなのに給料は……正直、割に合わない。母親は文句言わないけど、疲れた顔してる。あれって、頑張ってないことになるのか?」


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遥が、小さく息を吐く。


「わかる」


遥の声には、抑えきれない何かがあった。


「私の家、祖母の介護してるから。介護の仕事って、すごく大変。体も心も削られる。夜中に何度も起きなきゃいけないし、認知症の人の対応は本当に気を遣う」


遥は、窓の外を見た。


「それなのに、社会的な評価は低いし、給料も全然……。『誰にでもできる仕事』って言われることもある」


遥の目には、涙が浮かんでいた。


「でも、本当に誰にでもできるの?命を預かる仕事なのに」


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健太も、ゆっくりと口を開いた。


「俺の親父、タクシー運転手なんだ」


健太の声は、いつもより少し硬い。


「毎日長時間運転して、客の安全を預かって、事故のリスクと隣り合わせで働いてる。深夜も早朝も関係ない」


健太は、拳を握りしめた。


「それでも、収入は安定しない。お客さんがいなければ稼げないし、車の維持費もかかる。親父、最近痩せたんだ」


健太の声が、かすかに震える。


「『頑張ったら報われる』って言うけど、親父は頑張ってないのかな。俺、そうは思えないんだ」


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天野先生は、生徒たちの言葉を静かに聞いていた。


教室の空気が、重く沈んでいる。


先生は、ゆっくりと立ち上がり、黒板に向かった。


そして、チョークで一つの式を書いた。


努力 = 成果


「多くの人は、こう思ってる」


天野先生は、チョークを置いた。


「努力すれば、必ず成果が出る。頑張れば、報われる。これは、学校でも、社会でも、よく言われることだ」


先生は、その式を見つめる。


「でも、君たちが今話してくれたことを聞くと……」


先生は、その式に横線を引いた。


そして、新しい式を書く。


努力 × 評価構造 = 成果


「実際には、こうなんだ」


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葵が、目を見開く。


「評価構造……?」


「そう」


天野先生は、黒板の隣に、簡単な図を描き始めた。


三つの大きな箱を描く。それぞれに「市場」「企業」「政治」と書く。


「君たちの努力は、ここを通る」


先生は、箱の上に矢印を描いた。


「どれだけ頑張っても、その努力が『評価される場所』──つまり、この構造の中で価値があると認められなければ、報われない」


先生は、箱から外れた矢印も描く。


「逆に、評価される場所にいれば、少ない努力でも大きな報酬を得られる。つまり、『報われる』かどうかは、努力の量だけじゃなくて、その努力がどう評価されるかという『仕組み』に大きく左右されるんだ」


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怜が、黒板を睨みつけるように見つめる。


「じゃあ、その『評価の仕組み』って、誰が決めてるんですか?」


天野先生は、少し考えてから答えた。


「それは、政治、企業、そして市場だ」


先生は、窓の外を見た。


「1990年代以降、日本は『構造改革』という名のもとに、市場原理を強く取り入れた。小泉政権の時代だ。規制緩和、民営化、競争原理の導入」


先生の声が、少し低くなる。


「これらの政策は、効率性を追求する一方で、『市場で評価されやすい仕事』と『評価されにくい仕事』の格差を、決定的なものにしてしまった」


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遥が、小さく声を震わせる。


「じゃあ、介護や農業や運送みたいな仕事が低賃金なのは……」


「社会に不要だからじゃない」


天野先生は、はっきりと言った。


「市場で『希少価値が低い』と判断されているからだ」


先生は、黒板の図を指差す。


「市場は、『売れるもの』『利益を生むもの』を高く評価する。金融商品、IT技術、広告戦略──これらは、一度成功すれば何千万、何億という利益を生む」


「でも、社会を支える多くの仕事は、直接的な利益を生まない。だから、市場では低く評価される」


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このとき、教室のドアが開いた。


「ちょっと待ってください」


入ってきたのは、同じクラスの生徒、田中隼人だった。


隼人は、進学校への転校を控えている成績優秀な生徒だ。


「先生、それっておかしくないですか?」


隼人は、少し興奮した様子で言った。


「だって、市場で評価されるってことは、それだけ難しい仕事、希少な能力が必要ってことでしょう。介護や運送だって大事だけど、誰でもできる仕事と、特別な能力が必要な仕事の給料が同じなのは、逆におかしいと思います」


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教室の空気が、一気に張り詰める。


健太が、立ち上がった。


「誰でもできる?」


健太の声は、怒りを抑えているようだった。


「お前、本当にそう思ってるのか。親父の仕事、誰にでもできるって言うのか」


「いや、そういう意味じゃなくて──」


隼人が言い淀む。


「じゃあ、どういう意味だよ!」


健太の声が、教室に響く。


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「待って、健太」


天野先生が、静かに割って入った。


「隼人くんの言いたいことも、わからなくはない。これは、とても難しい問題なんだ」


先生は、二人を見た。


「でも、ここで考えてほしいことがある」


先生は、黒板に新しい言葉を書いた。


使用価値と交換価値


「介護や運送の仕事は、『使用価値』──つまり、社会にとっての必要性は、極めて高い。この仕事がなければ、社会は成り立たない」


「でも、『交換価値』──つまり、市場で取引される価値は、低い。なぜなら、市場は『利益を生むか』『希少性があるか』で価値を決めるからだ」


先生は、隼人を見た。


「隼人くんが言った『誰でもできる』という言葉は、実は市場の論理をそのまま言っているんだ」


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隼人が、困惑した表情を浮かべる。


「でも、それって……」


「おかしいだろ」


怜が、静かに言った。


「本当に『誰にでもできる』なら、なんで人手不足なんだよ。介護も、運送も、保育も、みんな人が足りないって言ってる」


怜は、隼人を見た。


「それって、『誰でもできる』んじゃなくて、『誰もやりたくない』ほど、大変で、報われない仕事だからじゃないのか」


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教室に、重い沈黙が落ちる。


隼人は、何も言い返せなかった。


天野先生が、ゆっくりと口を開く。


「隼人くんの感覚は、今の社会の『当たり前』だ。でも、その『当たり前』が、実は誰かによって作られたものだとしたら?」


先生は、生徒たち全員を見渡した。


「『頑張った人が報われる社会』──この言葉は美しい。でも、その裏には、『何を頑張りとして認めるか』という基準が、すでに決められているんだ」


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葵が、震える声で言った。


「じゃあ、うちの両親は……」


葵の目に、涙が浮かぶ。


「あんなに頑張ってるのに、それは『頑張り』じゃないって、そう言われてるってことですか?」


天野先生は、優しく首を横に振った。


「違う。君のご両親は、間違いなく頑張っている。でも、今の社会の『評価の仕組み』が、その頑張りを正当に評価していない。それが問題なんだ」


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天野先生は、黒板の図を指差す。


「この『評価構造』を作っているのは、市場、企業、そして政治だと言った」


「では、政治は何をすべきなのか」


先生は、新しい言葉を書いた。


全ての国民の福利


「日本国憲法は、『全て国民は、個人として尊重される』と定めている。そして、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』と保障している」


「つまり、政治が目指すべきは、市場で勝てる一部の人だけではなく、『全ての国民の福利』なんだ」


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怜が、スマートフォンを取り出す。


「先生、調べてみたんです。政治家のスローガンと、実際の政策」


怜の目には、何かが燃えている。


「『頑張った人が報われる社会』って言葉の裏に、隠されてることがあるんじゃないかって」


怜は、画面を見せる。


「例えば、大阪維新の会は『身を切る改革』って言ってますけど、実際には社会保障費の削減とか、公務員の給与カットとか……」


怜の声が、少し震える。


「これって、『市場で評価されない仕事』を切り捨てるってことじゃないんですか?」


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天野先生は、興味深そうに頷いた。


「いいね、怜くん。まさにそこが、次に考えるべきポイントだ」


先生は、黒板に新しい式を書く。


政治のスローガン = 市場の論理?


「『頑張った人が報われる社会』というスローガンが、実際には『市場で勝てる人が報われる社会』を意味しているとしたら──」


「それは、憲法が求める『全ての国民の福利』に反するんじゃないか」


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葵は、ポスターを見上げる。


その言葉が、もう前と同じようには見えない。


美しい言葉の裏に、何かが隠れている。


葵の胸の中の違和感が、少しずつ形を持ち始めていた。


それは、怒りでもあり、悲しみでもあり、そして──


「なぜ、私たちはこんなに生きづらいのか」


その答えを知りたいという、強い願いだった。


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### エピローグ:葵の帰り道



放課後、葵は一人で家路についていた。


夕焼けが、街を赤く染めている。


葵の頭の中には、今日の対話がぐるぐると回っていた。


「評価構造……」


葵は、つぶやく。


自分の両親が頑張っているのは、間違いない。

でも、その頑張りが、正当に評価されていない。


それは、両親のせいじゃない。


社会の仕組みが、おかしいんだ。


葵は、胸の奥に湧き上がる感情に気づいた。


それは、怒りだった。


でも、その怒りは、誰か特定の人に向けられたものではない。


この仕組みそのものへの、怒り。


葵は、スマートフォンを取り出す。


検索窓に、指が動く。


「頑張った人が報われる社会 嘘」


検索結果が、次々と表示される。


同じように感じている人が、たくさんいる。


葵は、一人じゃなかった。


「……次の授業、もっと知りたい」


葵は、決意した。


この違和感の正体を、もっと深く知りたい。


そして、できることなら──


この仕組みを、変えたい。


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### 次回予告:第2話「市場と福祉のすれ違い」



怜が集めた資料を前に、生徒たちは衝撃を受ける。


「先生、これ見てください」


怜の声が震える。


「維新の政策、『国民医療費4兆円削減』って……。これって、病気になった人が困るってことじゃないですか」


田中隼人も、複雑な表情で資料を見つめていた。


「でも、国の財政も大変なんじゃ……」


「それは、誰の財政なんだよ!」


健太が叫ぶ。


「国民の税金だろ。それを、国民のために使わないで、何に使うんだよ!」


天野先生は、静かに言った。


「次回は、この『市場の論理』と『公共の福祉』がどうすれ違っているのか、一緒に考えていこう」


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──「効率」は、誰のためのものなのか?


──「改革」は、誰を救い、誰を切り捨てるのか?


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次回、第2話「市場と福祉のすれ違い」


憲法が約束した「全ての国民の福利」と、政治が推進する「市場効率」の対立が、明らかになる。


生徒たちは、自分たちの武器を見つけ始める。


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## 作者より



この物語は、政治批評ではありません。


私たち一人ひとりの人生が、「社会の仕組み」の中でどう扱われているかを、一緒に考えるための物語です。


教室での対話を通じて、あなたも生徒たちと一緒に、この社会の「おかしさ」に気づいてください。


そして、もし同じように感じているなら──


あなたは、決して一人ではありません。

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読んでくれてありがとう。

この話は結論を与えるためのものではなく、あなたと共有したい「問い」を投げるためのものです。

もし胸に残る違和感があるなら、それはあなた一人のものではありません。

話をして、調べて、考えを交わすことが次の一歩になります。

次回も教室での対話を手がかりに、現実と制度のずれを一緒に見つめていきましょう。

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