第1話「復讐妹、始動。」

 スマートフォンの画面が、無遠慮に私の心を削る。


 知らない誰かの投稿だった。何気なく開いたSNSで、ふと目に入った小さな動画。

 はじめは興味本位だった。ただの、女子ボクサーのスパーリング動画かと思った。


 でも、映っていたのは——“お兄ちゃん”だった。


 黒縁の眼鏡がずれていて、痩せた体が、ロープにもたれかかっていた。

 口元から何かを吐きながら、リングの上に膝をついていた。

 カメラの向こうの女たちは、笑っていた。

 嘲笑っていた。“お兄ちゃん”を。


 胸の奥が、静かに冷たくなるのがわかった。


 次の瞬間には、動画を保存していた。

 その指が震えていることに気づいたのは、もっとあとだった。


 私はすぐにお兄ちゃんの家に向かった。玄関の鍵は開いていた。相変わらずの油断。あの優しい性格が、こんな形で利用されたのだと思うと、息が詰まった。


「お兄ちゃん」


 リビングに入ると、彼はソファの端で丸くなっていた。テレビも照明もつけず、窓から差し込む僅かな光の中で、背中だけが見えた。


「……マツリ」


 彼は顔を上げた。やつれた頬、青白い肌。眼鏡の奥の瞳は、どこか虚ろだった。


「この動画、見たの。どうして……なにも言ってくれなかったの」


 問いかけた声は、自分でも驚くほど冷たかった。


「ごめん……僕、言えなかった。こんな……情けないこと……」


 彼の声は震えていた。言葉が途中で途切れた。唇が動いても、言葉にならない。

 そして次の瞬間、彼は声を殺して泣き始めた。

 泣きながら、震えながら、初めて心の奥を吐き出した。


「……僕は、昔からボクシングが好きだったんだ。でも、身体が弱くて……始める前から、あきらめてた。でも、マキが、ちょっと見学に来ればいいって……それだけのつもりだったのに……」


 嗚咽が止まらない。

 ああ、これが、壊れた心なんだと思った。


「僕はね……ボディブローで、誰かを倒すことが夢だった。……ただ、それだけだったのに……僕が倒された。あんなふうに……あんな、ふうに……」


 彼の声が、涙に溶けて消えた。


 私は……その場から、一歩も動けなかった。


 背筋が冷たくなったのは、怒りではなく、“恐怖”だった。

 私の知っている優しい兄が、誰かに壊されるという現実が、あまりにも恐ろしくて。


 でも、それでも——私は、立ち上がった。


 


 その日の夕方、私はマキを呼び出した。

 彼女は、どこまでも無邪気にやって来た。


「マツリちゃーん、どうしたの? こんな改まって」


「……お時間、いただいてすみません」


 私の声は丁寧だった。でも、心は冷えていた。冷えて、冷えて、これ以上ないほどに。


「この前のスパーリング動画の件ですが、お兄ちゃんが……あの、フミヤが……心を壊しました。どういうおつもりだったんですか」


「あっ、あれ? いやー、ちょっとノリでっていうか……いや、もちろん、悪気はなかったよ? てかさー、ユリカも本気じゃなかったし、ね?」


 マキは笑っていた。

 そうして、続けた。


「ていうかさ、ちょっと大げさすぎるって思わない? あの程度で男が泣くのって、どうなんだろって感じで……正直、恥ずかしくないのかなぁ~」


 私の中の何かが、はっきりと音を立てて壊れた。


「——もう結構です。ありがとうございました」


 そう言って、私は立ち上がった。

 マキの顔が驚きで歪むのが見えたが、もうどうでもよかった。


 その夜、私は眠った。……そして、“見た”。


 


 夢の中。

 あのリングに、私はいた。

 だけど、動けなかった。喉が裂けるほど叫んでも、身体は硬直し、足ひとつ前に出せない。

 お兄ちゃんが、吐いていた。

 ロープに縛られ、笑われていた。


「やめて……お願い、やめて……っ!」


 叫ぶたびに、視界が歪んだ。何も変わらない。

 殴られて、笑われて、それを見ているだけの私。

 自分が、これほどまでに無力だったなんて——


「動けないの? どうして?」


 声がした。

 もう一人の“私”だった。


 雪のように白い肌。茶色のセミロング。同じ顔、同じ声。でも——


 眼窩は空洞で、笑みは歪んでいた。


「……あの日、自分がその場にいればって、思ってるんでしょ?」


 彼女は、私の目の前に立った。


「でもね、どうせ何もできなかった。どうせ、弱い奴には誰も守れなかったよ」


 吐き捨てるような声だった。

 でも、私は否定できなかった。

 悔しかった。悔しくて、悔しくて——涙が止まらなかった。


 


 目が覚めたとき、枕が濡れていた。


 嗚咽が止まらなかった。喉がひりついた。

 でも、そのとき、ようやく決めた。


 私がやる。


 お兄ちゃんが夢見た、ボディブロー。

 あの女帝を、ユリカを、それで倒す。


 お兄ちゃんがこれ以上、自分自身を否定する前に。

 私が、その痛みを——取り返す。


 


 その朝。

 私はスニーカーの紐を結び、鏡の前で髪を整え、

 ユリカが所属するジムの前に立っていた。


 この手で、正す。

 すべてを。


 ……お兄ちゃん、私は、負けないから。

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