二章 習慣の力

 そして、あたしと先生は、あたしの部屋に移動した。

 大して広くもないけれどそれでも、乙女の秘密がギッシリ詰まったあたしだけの聖域。いままで、ただの一度だって男の人なんて入れたことのないその聖域に、生まれてはじめて男性を招き入れた。それも、こんなさわやかイケメンを。

 マズい。

 ドキドキがとまらない。

 ああ、もう! こんなさわやかイケメンだったらそう言ってくれたらいいのに。

 「どうせ、ガリヒョロメガネ勉強オタクが来るんでしょ」

 って、嫌がらせのために散らかったままにしておいたのに……。

 こんなさわやかイケメンが来るってわかってたらきちんと片付けて、掃除もしておいたのに!

 「さて」

 と、先生はあたしを見て言った。

 うわわわっ。こんなさわやかイケメンに真っ正面から、それも、こんな近くから見られるなんて。初恋もまだの中三女子には心臓に悪すぎる。いまにも発作を起こして倒れてしまいそう。

 「お母さんが言うには、君は意志が弱くて勉強がつづけられない、とのことだったね」

 「はい……」

 あたしはカの泣くような声で答えるのが精一杯。ママの言い草は気に食わなかったけど、ろくに勉強してないのは事実だし……。

 ――叱られる!

 との予感に身をちぢこませた。でも――。

 先生の態度はあたしの予想とはまったくちがったものだった。

 「まず、最初に言っておく。君が毎日、勉強できないのは決して意志が弱いからじゃない。自分を責める必要はない」

 「えっ?」

 そんなことを言われるなんて思ってもいなかった。おかげであたしは、さわやかイケメンの前だというのに、なんとも間の抜けた表情になってしまった。

 先生はそんなことにはかまわずにつづけた。

 「君が毎日、勉強できない理由。それはただひとつ。勉強しない習慣が身についているからだ」

 「勉強しない習慣って……」

 「そう。習慣こそは人間の行動を支配する最強の力。すべてはどんな習慣を身につけているかによる。意志の力なんて問題じゃない」

 先生は、はっきりそう言ってからさらにつづけた。

 「では、どうすればいいか? 答えは簡単。勉強しない習慣が身についているなら新しい習慣で上書きすればいい。つまり、毎日、勉強する習慣を身につけると言うことだ」

 「勉強する習慣を身につける……」

 なんか、それだけでもう『地獄への入り口!』って感じがするんですけど。

 「そして、そのために必要なことは……」

 「必要なことは?」

 ゴクリ、と、息を呑んで、あたしは先生の言葉をまつ。思わずさわやかイケメンなその顔をガン見してしまった。

 先生はおごそかに断言した。

 「毎日、やる。これだ」

 ――それが、できないから……!

 「……苦労してるんでしょうがあっ!」

 ……と、声に出して叫んでのけたのは断じてあたしではない。

 先生の方だ。

 あたしが叫びそうになったことをかわりに叫んでおいて、先生はニコッと笑った。

 うわ、この先生、さわやかイケメンなだけじゃなくて、けっこうお茶目だったりする? それってもう反則なんですけど……。

 先生は真顔になってつづけた。

 「……と、そう叫びたかっただろう?」

 「……はい」

 「気持ちはわかる。でもね。そう思った時点で、君はひとつの大きなまちがいを犯しているんだよ」

 「まちがい?」

 「そう。毎日やる。そう聞いて、君はどう思った? 決められたノルマを毎日こなすこと。そう思っただろう?」

 「それは、まあ……」

 そう思うのが当然でしょう?

 ママからも口を酸っぱくして『決められたことは毎日きちんとやりなさい!』って言われているし。でも、先生はあたしの思いとは全然ちがうことを言った。

 「それがまちがいなんだ。ノルマなんて気にしなくていい。そんなものは、できるときだけやればいい。やりたくないときはやらなくていいんだ」

 「いいの⁉」

 天国から響いてきたかと思うようなその言葉に、あたしは思わず叫んでいた。

 「そうだ。ただし、勘違いしないように。これはあくまでも『ノルマにこだわる必要はない』と言うことだ。やる気になれないときはノルマをこなす必要はない。でも、そのかわりたった一問、たった一問だけは必ず問題を解く。なんなら、教科書を一ページざっと読むだけでもいい。とにかく毎日、必ず、ひとつだけは勉強する。それを徹底することだ」

 「毎日、ひとつだけ……。そんなのでいいんですか?」

 信じられない。

 その思い全開で言うあたしに対し、先生は力強くうなずいて見せた。

 ……だから、そのさわやかイケメンスマイルやめてってば。心臓に悪いんだから、ほんと。

 「そうだ。たったひとつでもまちがいなく勉強したんだ。いままで、ひとつもしなかったのにだよ。すごい進歩じゃないか。まずは、そのことを認めるやることだ」

 おおっ。

 そう言われるとたしかに、なんかすごいことのような気になってきた。

 「そして、たったひとつでもまちがいなく勉強した以上、脳にはそのことが日々の経験として記憶される。その積み重ねが習慣となる。

 『今日は全然、やる気になれないから教科書、読むだけでいいや』

 そんな思いで教科書を開いたのに、気がついてみるときちんとノルマをこなしている。そういう状態になる」

 「ほんとに?」

 うわっ。我ながらなんて疑いぶかい言い方。表情もさぞかし嫌味ったらしいものになっていただろう。それでも、先生はそんなことは完全スルーでつづけた。

 さすが、さわやかイケメン。

 態度もイケメンまっしぐら。

 「そう。それが『習慣になる』と言うことなんだ。最終的には勉強しないとなんとなく落ち着かない、という状況になる。おれもそうやって勉強してきた。そして、いまの高校に入れた。だから、確かだよ」

 って、相変わらずのさわやかイケメン顔で笑ってみせる。

 その態度にあたしは心臓ドキドキ。

 顔だって、もう真っ赤になっていただろう。

 「家庭教師としてのおれの役目は勉強を教えることじゃない。生徒が自分で勉強できるようにすることだ。そのために……」

 って、先生は問題集を取り出した。

 「これから、毎日こなすだけの問題集とノルマを出しておく。でも、勘違いしないように。さっきも言ったとおり、ノルマを気にする必要はない。ノルマなんて破るためにある。それが合い言葉だ。ノルマなんてできるときにこなせばいい。それよりなにより、毎日ひとつだけでも、教科書を一ページ眺めるだけでも必ずやる。それを徹底することだ」

 「ノルマを気にする必要がないって……だったら、ノルマなんて必要ないんじゃない?」

 「ノルマがなかったら、ノルマをこなせていないこともわからないだろう? だから、必要なんだよ」

 はあ、そういうものですか。

 「まあ、とにかく、今日は初日だ。まずは君のいま現在の学力を見せてもらおうか」

 って、先生はテスト用紙を取り出した……。

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