第3話 引越しの儀
昼前の光は、少しだけ金の色を帯びていた。
障子の紙目がその明るさを吸い、縁側の木肌を温める。
風が一度通って、庭のハーブを揺らす。レモンバームとミントがこすれ合う音がする。
香りが薄く流れ込む。土の匂いと混ざって、家の呼吸が変わった。
「さて、始めましょうか」
淺黄(あさぎ)が静かに言う。
声に号令のような響きはない。
それでも柘榴(ざくろ)と真珠(まじゅ)は、ほぼ同時に立ち上がった。
家が、三人の動きを待っていた。
玄関の戸を開けると、軽トラックの荷台に積まれた段ボールの列。
真珠が袖をまくり上げる。
柘榴は明るいストールで髪をまとめ、両手に軍手。
その姿は七十歳というより、文化祭前夜の高校生のようだ。
「母さん、まずは軽いものからよ」
「任せて。私は軽やか専門よ」
「軽やか専門……それ、初めて聞いた職種ね」
「国家資格が要るのよ」
「嘘をつくにも説得力がある」
「淺黄、聞いた? 娘って冷たいの」
淺黄は微笑む。「真珠は冷たくないわ。温度管理が上手なの」
笑いが一つ。
湯気のない昼に、笑いが代わりの香気を放つ。
段ボールを一つずつ、家の中へ。
「管理栄養士」「会計士」「看護師」とラベルが貼られた箱。
どれも柘榴の職歴を示す遺物のようであり、勲章のようでもある。
真珠が箱の順番を読み上げ、淺黄が置き場所を指示する。
まるで式典の進行表。
「三人の夫の家をこうやって片づけた時、母は泣きもしなかったのよ」
真珠の声が少し柔らかい。
「泣く暇がなかったの。箱が先、涙は後」と柘榴。
「その順序が、母らしい」
「順序があると、悲しみも働き者になるの」
「……いい言葉ね」と淺黄。
午前の光が、廊下に淡く降りてくる。
影が三つ、ゆっくり動く。
段ボールの中で、茶碗や硯が小さく触れ合う音がする。
それがこの家の新しい脈拍だ。
---
作業の合間に、台所で麦茶を淹れる。
グラスの中で氷が音を立て、光を裂く。
水面がきらめいて、柘榴の笑い皺に反射する。
柘榴「ねえ、こうしてると、まるで新婚みたいじゃない?」
淺黄「そうね。式場が畳の家っていうのは、風情がある」
柘榴「私たち、ケーキじゃなくて煮物で祝うの」
淺黄「いいわね。塩梅さえ狂わなければ、恋だって長持ちする」
柘榴「あなたはいつも、笑いながら核心を突くのね」
淺黄「笑いで包むと、少し柔らかくなるだけ」
真珠「その“柔らかさ”を、母に輸入してください」
柘榴「ちょっと! 輸入品扱い?」
真珠「高級品の意味よ」
午後。
陽射しが濃くなる。
蝉の初鳴き。
畳に斑点のような光。
汗の粒が軍手の布目を濡らす。
柘榴がふいに息を止めた。
桐箱を抱えている。
手の中の木が少し鳴る。
「これ、三人目の人の硯。――淺黄、開けてくれる?」
「あなたの物よ」
「でも、もう長いこと、見られなくて」
「なら、二人で」
二人は膝をつき、ゆっくり蓋を開ける。
墨の香が、古い紙の匂いと混ざる。
真珠がそっと覗き込む。
硯の面には小さなひび。けれど艶が残っている。
「これ、最後に磨った時、母は泣きそうな顔してた」
「泣いてないわよ」
「泣きそうだったの。覚えてる」
「……あの人ね、泣かれるのが苦手だったの。私が泣くと、笑わせようとするから」
「あなた、笑ったんでしょ?」
「笑った。あの人、どうしても笑わせたくて、わざわざ小皿に墨汁を盛って、シミを作ったの」
「最低」
「最高よ」
三人が笑う。
硯が光を吸い、室内に小さな静けさを落とす。
光が一瞬止まり、風が入る。
柘榴の笑みの奥に、ほんのわずかな痛みが滲む。
「ねえ、あの人が生きてたら、今日、何て言うかな」
「“やっとか”よ」と真珠。
「“お疲れさん”ね」と淺黄。
「“決定!”だと思う」と柘榴。
笑いと涙が同時に喉をくすぐる。
その境界を、茶の香がやさしく拭う。
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真珠が時計を見て、段取りを整える。
「次は、布団とカーテン。――柘榴の宝箱ゾーンは後回し」
「えー」
「えーじゃない。飾るのは夕方」
「芸術は夕暮れに完成するのよ」
「……そういう名言を連発されると、もう止められないの」
淺黄「混沌がないと、秩序は眠る。だから、どちらも必要」
真珠「じゃあ、母の存在意義は確定ですね」
柘榴「やだ、そんな大きな役職。給料もらわなきゃ」
淺黄「報酬は、笑い。支給日は毎日」
柘榴「悪くない契約ね」
三人の声が家の隅々に届く。
廊下の埃が光る。
障子の向こうで、風が庭の樫を鳴らす。
---
真珠が一息つく。「よし。半分終わり」
柘榴が腕を伸ばし、「働いたら食べなきゃね」。
台所から、冷やしたスイカ。
赤と黒のコントラスト。
香りが夏の先端を切り取る。
淺黄は三つの皿を並べ、ナイフを入れる。
果汁が刃にまとい、光を反射する。
「母、種は吐かずに皿へ」
「飲み込んだら芽が出るって、子どもの頃言ってたわね」
「出なかったけど、娘は出たわ」
「……うまいこと言う」
笑いの波。
スイカの甘さ。
口の中に残る水の匂い。
その香りが家の奥まで行き渡る。
夏が正式に始まる音がした。
午後三時。
日差しが少し傾き、障子の枠が畳に格子の影を描く。
風の音がやわらぎ、家の呼吸が落ち着いていく。
真珠はタオルで汗を拭きながら、作業リストを見た。
「残りは寝具と照明。あとは、例の“飾り”ね」
柘榴がすぐに反応する。「飾りが一番大事なのよ。魂の栄養だから!」
「……ほどほどにね」
「はいはい、栄養過多には気をつけます」
リビングの中央に段ボールが山のように積まれている。
そこから柘榴が次々と取り出す。
色とりどりのクッション、派手な布、写真立て、小さなオルゴール。
どれも少し古びていて、それでいて温かい。
彼女の人生を縮小した博物館の展示品。
「母、これ……全部置く気?」
「置くわよ。空間を明るくするの」
「空間が明るいを通り越して、まぶしすぎる」
「じゃあサングラスを用意しなきゃ」
「……お手上げだわ」
柘榴「ねえ、淺黄。あなたは飾り気がなさすぎるのよ」
淺黄「装飾は嫌いじゃない。ただ、意味のないものを置くと、心が散る」
柘榴「意味はあとから生まれるの。置けば、思い出になる」
真珠「つまり“思い出の種まき”ね」
淺黄「なるほど、栽培系インテリア」
柘榴「そうそう、“思い出農法”!」
三人で笑いながら配置を決める。
派手なクッションはソファに。
写真立ては窓際。
オルゴールは床の間。
淺黄がそっとスイッチを回すと、柔らかな旋律が流れた。
その音が部屋の空気に溶ける。
午後の日差しが音の形をなぞる。
「これ、三番目の夫がくれたやつ」
柘榴の声は穏やかで、少し遠い。
「音が古くなって、テンポがずれるの。でも、それが好きなの」
「年を重ねると、テンポのずれも調和になる」淺黄が言う。
「あなたね、そういうこと言うとすぐ惚れられるわよ」
「惚れられても、手続きが面倒だから」
「ほんと、昔から変わらない」
風が障子を揺らす。
一瞬だけ、光が室内を横切り、柘榴の笑みを照らす。
その横顔を見ながら、淺黄の胸に言葉にならない温度が灯る。
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真珠が再びリストを確認する。
「はい、儀式の最終項目。“鍵の授与”。」
テーブルの上には、三本の鍵が並んでいる。
金属の冷たい光が、午後の色を映す。
「母、淺黄さん、順番を」
淺黄が言う。「では、まずは住人代表から」
柘榴が胸を張る。「このたび、同居の運びとなりました柘榴です!」
真珠「違う、プレゼンじゃないから」
柘榴「いいの。宣言することで覚悟が固まるの」
淺黄「覚悟は声にすると軽くなる。――でも、響きは残る」
真珠「淺黄さんの言葉、母の日記に書かれますよ」
柘榴「もう書いたわ」
真珠「はやっ」
三人で笑い合いながら、鍵を交換する。
金属が触れ合い、小さな音を立てた。
それが儀式の鐘の代わりだった。
「これで三人、同じ家の音を持ったわね」淺黄。
「うん。合鍵の響きが好き。カチっていう、あの小さな肯定の音」柘榴。
真珠が静かに頷く。「母に足りなかったのは、この音かもしれない」
---
午後四時。
作業がすべて終わる。
家具の位置が変わり、空気の流れも変わる。
この家が新しい呼吸を覚えた。
三人は縁側に腰を下ろし、冷たい緑茶を飲む。
視覚:夕方の光が庭の紫陽花を照らす。
音:風鈴がひとつ、かすかに鳴る。
匂い:土と茶葉の香りが混ざる。
「終わったわね」
「終わりじゃなくて、始まり」と淺黄。
「うん……たぶん、そうね」
柘榴は軽く笑ってから、両手を膝に置く。
「ねえ、浅黄。私、怖かったのよ」
「何が?」
「帰る場所がなくなること。誰も私を“待つ”人がいなくなること」
「待つのは、まだ私の得意分野」
「……ずるい言い方」
柘榴「でも、嬉しい。あなたと笑いながら箱を開ける未来を、若い頃の私に見せてやりたい」
淺黄「見せられないから、代わりに今作ればいい」
真珠「私も見てます。だから大丈夫」
陽が沈みかけている。
柘榴のストールが風で揺れ、淡いオレンジ色が縁側を染めた。
空の端が赤く滲む。
家の中ではオルゴールがまだ小さく鳴っている。
「ねえ、夕食どうする?」
「煮物で祝うんでしょう」
「じゃ、私が味を作る。あなたは塩を見て」
「了解。――賑やかすぎないように」
「静かすぎないように」
「妥協点、見つけたわね」
風が流れる。
障子がかすかに鳴る。
新しい暮らしの音が、確かに根を下ろした。
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