泡沫をなぞる
相生春平
一通目
拝啓
この手紙は最近忙しいこともあり、帰宅途中の電車で書いています。電車はかたかたと心地よいリズムで揺れながら進んでいます。しかしあんまりにも心地がいいので、眠くなったりして書いている文字が歪んでしまったらごめんなさい。この手紙を書くためにたくさん漢字の練習をしたけれど、いくら書き連ねても文字の丸みが抜けなくて。かえって見苦しさが増しているかも知れません。
今日は空が曇っていて、田んぼの奥に見える民家の群もその屋根の色をくすませています。僕は思っていることが顔に出やすい性格で、それは貴方が一等判っていることでしょうが、こうやってただ手紙を書いていても対面に座った女学生らにクスクス笑われてしまいます。
僕はいつも貴方の前ではくだけた話し方をしていたから、こうやってうやうやしく話をすると笑われてしまうかもしれません。しかし僕はどうしても、貴方にこの実直な気持ちをそのまま届けたくてこうしているんですから、あんまり笑わないで聞いてください。
貴方が東京に行ってしまってからも、この街はあまり変わっていないように思えます。でも、僕はそれで良かったと思っているんです。僕は貴方と一緒に下校している時も、買い物中にうっかり出くわして立ち話をした時も、貴方と共にした時間の全てを自分だけののものにしてしまいたいと、いつも考えていました。貴方が他の人、ひいてはありものの全てに何か働きかけているのを見るのが耐えられなかったんです。
一遍貴方が体育の時間に足をひねらせて、保健室で休んでいるところに僕がちょっかいをかけに行ったことがありましたね。と言っても、貴方は僕が何をしに来たのか分からないままであったかも知れません。僕はその時貴方に対して何か上からものを見るような、少し愉快な気持ちで保健室まで向かっていました。歩いている中に少しスキップを混ぜてみたりした覚えもあります。
僕が部屋に入ると、貴方は2組の保健委員をしていた高野くんと何か話していました。その時僕は、筆箱の隅にちいさな穴が空いてしまったような不安感に迫られて、そこから出て行ってしまった。彼も何が何やら理解できなかったと思います。本当に申し訳なかった。
でも、あれは僕の本質であったのだろう思います。貴方は頭がいいから、僕の行動を理解してくれると考えて逃げ出したのです。しかし貴方は追いかけてきてはくれなかった。僕はあの時、周りの全てが一変してしまったように思えたんです。
攻めているんじゃありません。貴方は足をくじいていたのだから、よく考えれば当たり前なんです。あれは僕の傲慢さが引き起こした、僕と貴方の間の事件です。いや、僕が勝手な想像で作り上げた、僕だけの事件でした。
僕は、ずっと貴方によりかかっていました。貴方は嫌がらなかったけれど、疲れていたと思います。貴方が身を引いて僕が倒れたりするなんてことは考えもしませんでした。僕は僕の考えるまま貴方を想像し、貴方はその通りに動こうとしました。違いますね、動こうとしていると僕が信じていました。そこに貴方の意思は挟まれなかった。僕がそれを許さなかったんです。申し訳ない。僕はあの三年間で、貴方が故郷を逃げ出したくなるほどに疲弊させてしまった。
僕は来年の春に卒業し、大学に入ろうと思います。しかし、僕は地元で進学をするつもりです。H大学に入学する予定です。貴方の人生に、これ以上僕が侵入してしまうことは避けたかった。
僕は貴方を美しいと思います。肩くらいまで垂れたつやつやの黒髪を、滝に打たせたようにぴんと張った背中を、積もりきりの雪を踏んづけて校舎まで向かっていく足を。そして何より、貴方によりかかりきりであった僕が頭を打たないようそっと地面に下ろして去って行ったその優しさを尊いと思います。しかし僕には貴方をどう扱うべきか当分わからないのだろうと思います。貴方も、僕には分からないだろうと考えて去ったのだと思います。
僕は貴方に恋をしています。寝ても覚めても貴方との日々が延々と思い出されて、苦しくなってしまいます。ですから今日は、貴方とお別れをするためにこの手紙を書いたのです。とても一方的であることは自覚しています。貴方が僕を思い起こすことなど、この手紙を開くまで無かったのだろうとも考えます。なのでこれはあくまで形式的な、自分には関係のないことだと思って聞いてください。
僕はあの保健室での出来事の後、高野くんをいじめるようクラスメートを扇動しました。いやな噂を流しました。彼の貰った習字の賞状を休み時間にこっそり破きました。彼の体育着に先生の飲んだコーヒーをかけました。彼を叩きました。蹴りました。財布を盗みました。そして僕は、その一切を誰にも話さず今まで平穏の中を過ごしてきました。彼の泣いているのを尻目に見ておおいに笑いました。そしてこれからも、僕はこの行いを全てひた隠しにして生きていきます。さようなら、お元気で。
十月十六日
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