「ラヴィーナの政略結婚 ~冷たい婚約者が私に溺れる日~」
みずとき かたくり子
第1話:冷酷な婚約者と政略結婚の夜
広大なハーヴェル王国。その首都ヴィスヘルムの街は、夜になると静寂に包まれる。白亜の城壁に囲まれた王都はまるで宝石箱のように輝き、遠くから眺めるだけで気品を感じさせる美しさがあった。しかし、そんな優美な街並みとは対照的に、その深部では幾多の策謀と欲望が渦を巻いている。
そして今宵、この地に新たな婚姻関係が結ばれようとしていた。隣国ヴァイルロード公国から嫁いできた公女であるラヴィーナ・ヴィクトレールと、ハーヴェル王国の第二王子グレン・オルディスとの“政略結婚”がまさに執り行われようとしているのだ。
ラヴィーナ・ヴィクトレール――彼女はヴァイルロード公国の名門貴族ヴィクトレール公爵家の一人娘であり、周囲からは「公国随一の美姫」と称えられるほどの美貌を持つ。彼女の名前「ラヴィーナ」は、公国の伝統的な命名法に倣って自動車に由来するものであり、「優美さと力強さの両立」を願って付けられたとされていた。深い紺色の瞳は夜空を思わせ、艶のある黒髪は緩く波打ちながら背中を流れ落ち、その中にわずかに混じる濃い栗色のハイライトが異国情緒を漂わせる。華奢な体躯に映える公爵家のドレスは気品と威厳を漂わせ、彼女自身の繊細な雰囲気をよりいっそう引き立てていた。
そんなラヴィーナが嫁ぐ先の相手――グレン・オルディスは、ハーヴェル王国の第二王子でありながら、王族らしい華やかな雰囲気はどこにも感じさせない、冷徹で寡黙な人物として知られていた。民衆の中には「戦場の冷血王子」などと揶揄する者もいるほどで、そのあだ名のとおり彼の軍功は目覚ましいものがある。しかし、その武勲を余すところなく讃える声がある一方で、彼が敵味方関わらず必要とあらば情け容赦しない、厳しい行動原理を持つ人物だという噂が絶えないのだ。
さらにグレンはもともと、ヴァイルロード公国との縁組などまったく望んでいなかった。隣国同士の同盟のため、あるいは両国が交わす複雑な利害関係の結果として、この結婚が“道具”のように取り決められたことに、彼は心底嫌気がさしているらしかった。それゆえ、ラヴィーナとの初対面の際にも冷淡な態度を隠そうとしなかったという話は、すでに宮廷の内外で囁かれていた。
ラヴィーナは、その噂をヴァイルロード公国を出立する前から薄々聞かされていた。
(ハーヴェル王国の第二王子は相当な冷徹な性格らしい……政略結婚なんてよくある話だろうけど、本当にうまくいくのかしら?)
彼女は心配や不安を押し殺し、家族の命令に従って嫁ぐ道を選んだ。自ら望んだ結婚ではない。しかし、それでも彼女にはヴァイルロード公国の民や、父である公爵の期待がある。ことに今回の結婚は、両国の長い戦乱の歴史を終息させる一つの鍵となるかもしれないという意図があった。戦争などせず、平和的に国交を結ぶ。それを円滑に進める手段としての「政略結婚」であるならば、少なくとも国同士の安定を図れる。
ラヴィーナが生まれ育った公国も、そしてハーヴェル王国も、長きにわたって大国の影響下に置かれ、血生臭い争いを繰り返してきた。近年、ヴァイルロード公国は領内の鉱山資源の豊富さで勢いを増し、一方のハーヴェル王国は海沿いの都市と貿易で栄える国となった。
──そのふたつが強固な関係を築くことで、さらなる繁栄の道が開かれる。ラヴィーナは、政治的な思惑に翻弄される自分自身を「小さな駒」と自嘲しながらも、今はそれしか道がないのだと受け入れた。
開かれた結婚式は、大聖堂で荘厳かつ華やかに行われた。王族や高位貴族が集い、新しい婚姻の儀が滞りなく取り仕切られていく。天井のステンドグラスから差し込む光がラヴィーナの黒髪を照らし、その一房が金色にも見えるほど神々しい雰囲気さえ醸し出していた。しかし、当の花嫁であるラヴィーナの心は晴れなかった。祭壇の正面で、真っ直ぐに前を見据えているグレン・オルディスの横顔が、まるで氷のように固く冷たい。
神父の言葉にあわせて誓いを述べるときも、グレンの声にはまったく感情がこもっていないように聞こえた。やがて指輪の交換がなされ、形式的な誓いの口づけが交わされる。そのとき彼が花嫁の頬に触れた指先は、驚くほど冷たかった。
(……ここまで冷淡なものなのね)
ラヴィーナは、誓いのキスに込められる幸福など存在しないことを改めて突きつけられた気がした。政略結婚だ。形式を重んじなければいけないから、儀礼として口づけをする。それだけのことなのだ。
その後、神聖な結婚の儀式が終わりを告げ、大聖堂の外では盛大な祝賀の鐘が鳴り響いた。宮廷の廊下を出れば、左右に整列した人々が「万歳!」「おめでとうございます!」と口々に歓声をあげている。王国の繁栄を象徴する装飾が施された宮廷馬車に乗り込み、新郎新婦は祝福の花びらが舞う中をゆっくりと城へ戻っていった。
外面だけ見れば、なんとも絵になる華やかな場面である。ラヴィーナは笑顔を向けて拍手をしてくれる人々に、ささやかな微笑を返す。けれども、その隣に座る新郎の横顔にはどこか不満が滲んでいるようにも見えた。馬車の揺れの中、グレンが一度たりともラヴィーナに視線を向けることはなかった。
(仕方ない……政略結婚なんて、グレン様にしてみれば好ましい話じゃないのでしょう。私だって望んだわけじゃない。こうして結ばれてしまったけど……今はお互いに割り切るしかないわ)
胸に巣食うわだかまりが静かに大きくなるのを感じつつも、ラヴィーナは意を決して小さく息をついた。
城に戻ったあと、豪華な披露宴が開かれた。ハーヴェル王国の第一王子やその后妃、各地の領主らが一堂に会し、華麗な音楽と舞踏が催される。白いテーブルクロスには上質な料理がずらりと並び、振る舞われるワインはハーヴェル王国が誇る最高級のヴィンテージだという。
ラヴィーナはここでも愛想笑いを絶やさずにゲストたちと挨拶を交わしていた。ヴァイルロード公国の代表として、また新たな王子妃として、失礼のないように振る舞わなければならない。ただ、それはとても神経をすり減らす行為でもあった。
「ラヴィーナ殿下、ようこそハーヴェル王国へ。私どもも、この婚姻を心待ちにしておりました」
「あなたの美しさは噂以上だ。第二王子殿下も、きっと内心お喜びでしょう」
表面上は祝福を述べる言葉が続く。けれども、その裏にあるのは「王国のため」「自分たちの派閥の利益のため」という思惑も多分に含まれているのだろう。とはいえ、ラヴィーナはそうした複雑なやり取りを察しながらも、笑みを絶やさない。長年、父の下で宮廷マナーを叩き込まれた彼女は、政略結婚の場がどれほど偽りに満ちていても、取り繕うだけの度量を十分に備えていた。
――だが、問題は肝心の新郎であるグレン本人だ。披露宴の卓でも彼はまったく必要最低限の言葉しか発さない。よほど興味がないのか、空になったグラスを侍女が継ぎ足そうとすると、ただ視線だけで断る。それどころか途中で王族や貴族に挨拶をされた時も、ほんの一瞬、顔を向けて小さく返事をするだけで終わらせてしまう。
(やっぱり、私に構ってる暇なんてないってこと? そもそも私自体、彼の好みじゃないのだろうけど)
ラヴィーナは切なさというよりも、むしろ虚しさに似た感覚を味わっていた。初対面から冷たかったといえど、今日という日は結婚式だ。形だけでも寄り添う素振りを見せてくれてもいいのに、と思うのは甘えなのだろうか。しかし、そう考えれば考えるほど、自分が惨めになるような気がして、胸の奥が痛む。
高砂席から眺める晩餐会場は、絢爛豪華な装飾で彩られていた。金と銀の燭台には繊細な彫刻が施され、壁にはハーヴェル王国の歴史を讃えるタペストリーが飾られている。王族・貴族たちのあでやかな服装が会場をさらに華やかにし、美酒と美食がそこかしこに並んでいる。
だが、そうした華やかさはラヴィーナの目にはあまり映らなかった。彼女はちらりと横目でグレンの表情をうかがうが、やはりその瞳には冷たい光しかない。
「……殿下、本日はありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます」
ワルツの合間を縫って挨拶に来た侯爵夫人が頭を下げると、グレンは短くうなずくだけ。何か言いたげな夫人は一瞬困ったような笑みを見せたが、そのまま立ち去った。
(せめてもう少し、愛想良くできないものかしら……)
けれども、グレンの評判を考えれば、これは仕方のないことなのだとラヴィーナは思い直す。彼の代わりに、ラヴィーナがにこやかに笑顔で対応する。それが新たな王子妃としての務めだろう。
やがて宴もたけなわとなり、乾杯の音頭や余興などが相次いで披露される中、グレンがラヴィーナに小声で告げた。
「……悪いが、俺はここで失礼する。軍の連中と話をしなければならない。お前も好きにしていいぞ」
「え……」
ラヴィーナは思わず目を見張った。いくら軍事会議が大切だといえ、今日は自分たちの結婚式。披露宴の真っただ中、花嫁である彼女を置いて会場を後にするなど、常識的に考えればありえない話だった。だがグレンはそんな周囲の視線などまるで気にする様子もなく、席を立ってしまう。
「ちょっ……待ってください、殿下。それでは……」
慌てて彼の背中を引き止めようとしたが、彼はちらりと冷ややかな視線を投げて言った。
「王族の面倒な儀式に最後まで付き合う義理はない。あとはお前が適当にやり過ごせ。祝宴の終わりには戻らないつもりだから、お前も勝手に部屋へ行って休むといい」
それだけ言い放つと、グレンは足早に会場を後にした。そこには花嫁であるラヴィーナの存在などまるでなかったかのような冷酷さしか漂っていない。
高砂席に取り残されたラヴィーナは、一瞬、呆然とする。王家の者でさえ驚いた表情を浮かべているのが視界の隅に映った。
(これが……私の夫なの?)
胸がきゅっと締めつけられるような苦しみに襲われるが、それを悟られないようにラヴィーナは笑顔を守り続ける。彼女はその場に残り、王族や貴族に対して礼儀を尽くし、せめて祝宴の締めくくりだけでも無難にこなすことを自らに課した。
披露宴の終盤になり、花嫁としての挨拶が求められた。ラヴィーナは一人で壇上に立ち、客人たちに向かって微笑む。
「本日は私たち二人のために、このように盛大なお祝いをしていただき、誠にありがとうございます。夫のグレン殿下は軍の要務で先に退席されましたが、皆さまのお心遣いを大変嬉しく思っております。ヴァイルロード公国より嫁いだ私ではございますが、今後はハーヴェル王国の一員として精一杯尽くす所存です。どうか皆さま、末永くよろしくお願いいたします」
その言葉には彼女の本心のすべてがこもっているわけではなかった。だが、少なくとも新たな王子妃として“相応しい”態度だけは見せねばならない。ラヴィーナが深々と頭を下げると、会場からは一斉に拍手が湧き起こった。
(グレン様……あなたは、どうしても私との結婚など望んでいないのね。それは分かっていたけど、ここまであからさまに無視されると、さすがに堪えるわ)
拍手の中で小さく息をつく。そして、ラヴィーナは微笑みを浮かべたまま壇を降りた。
夜も更け、祝宴の熱気も幾分落ち着いた頃。ラヴィーナは侍女の誘導で新居となる王宮の一角へと通された。豪奢な調度品が並ぶ廊下を進み、ようやく扉の前に立つと、侍女が深々と頭を下げる。
「ラヴィーナ殿下、こちらが今宵よりお使いいただく部屋でございます。第二王子殿下はまだお戻りではございませんので、お先にお部屋でお休みくださいとの伝言を預かっております」
「そう……わかりました。ありがとう、もう下がって構わないわ」
ラヴィーナは心中の寂しさを悟られぬように微笑みながら、部屋に入る。その広々とした部屋は深い青を基調とした内装で統一され、壁にはハーヴェル王国の国花であるエゼルフラワーをあしらった装飾が施されていた。柔らかな照明がゆったりとした影をつくりだし、まさに王族の私室に相応しい豪華さを誇っていた。
しかし、ラヴィーナの視線が最初に向かったのは、絹のカーテンで囲われた大きな寝台。その横に、今夜の花嫁衣裳を脱いで休むためのドレッサーと屏風がある。部屋の中央には夫婦で使うはずのソファとテーブルがあり、そこにはまだ誰も座っていない。
(……ここが、私とグレン様の初めての“夫婦の部屋”……)
本来ならば喜ばしいはずのその光景が、ラヴィーナの胸に痛みをもたらした。あれほど冷たい態度をとられて、披露宴では放置され、しかもこの結婚は政略結婚……。そんな思いが頭をよぎるたびに、ラヴィーナの瞳に宿る光が曇っていく。
彼女は静かに靴を脱ぎ、部屋の奥へと足を進める。今まで着ていたウェディングドレスの裾を広げたまま歩くと、絨毯に織り込まれた金糸が静かにきらめいた。
足先が少し重い。胸の奥が沈んでいるせいか、まるで自分の意思ではなく、何か別の力で身体を動かしているような感覚になる。
(私は……ただの道具なのかもしれない。父にとっても、グレン様にとっても……)
暗い思考が首をもたげる。いや、そう思いたくはない。ラヴィーナは唇をぎゅっと引き結んだ。
(でも、政略結婚だからといって、何もしないままじゃ終われないわ。私はただの飾りではいたくない。王族に嫁ぐ以上、私自身の力で何か役に立てることがあるはずよ……)
彼女は鏡台の前に腰を下ろし、侍女たちが用意してくれた化粧道具に手を伸ばす。今夜はもう眠るだけかもしれない。けれど、少しでも自分が生き生きとした姿を取り戻すために、淡いシャドウを塗り直し、その上から控えめに香水を振りかけた。
その香りは、ヴァイルロード公国の宮廷で愛用されてきた花のエッセンスを基調としたものだ。ラヴィーナの故郷を思い出させ、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「……私だって、こんな結婚を望んだわけじゃない。けれど、皆の幸せのため、平和のためだというならば……やってみせるわ」
軽く口に出してみると、不思議と気持ちが整理される。ラヴィーナは瞳を閉じ、深呼吸をしてから再び鏡を見つめた。
そこでふと視線に入ったのが、彼女の指にはめられた結婚指輪だった。王室の紋章が内側に刻まれ、外側には小さな宝石があしらわれている。輝きは確かに美しいが、その指輪がどこか手に馴染んでいないのをラヴィーナは感じる。
「これが……今日からの私の証なのね」
政略結婚の象徴ともいえるその指輪は、思っていた以上に重く冷たかった。あのグレンの指先を思い出してしまう。唇に触れたあの瞬間の、氷のような温度を。
ラヴィーナはわずかに眉をひそめ、手の平をぎゅっと握り締めた。彼の冷たさに屈するわけにはいかない。自分が新たに進む道を、決して悲嘆のうちに閉ざされてしまっては意味がない。いつの日か、ただの政略結婚ではなく、自分の意志で歩んでいたと思えるようになるかもしれない。それを信じて、ラヴィーナは立ち上がった。
部屋に用意されていたナイトガウンに着替え、婚礼衣裳を丁寧にたたんで衣装箱に収める。ヴェールを外すとき、ふわりと漂う真っ白なレースが、ラヴィーナの黒髪に淡い影を落とす。侍女に手伝ってもらうのが普通のところを、ラヴィーナは頑なに一人で着替えをした。今はまだ、侍女の手を借りられるほど気持ちの余裕がないのだ。
そして大きな寝台の縁に腰を下ろし、部屋の中を見渡す。ブルーを基調にした重厚なカーテンや、磨き抜かれた大理石の床。ヴァイルロード公国の自室とはまったく違う環境に戸惑いを覚えながらも、ここが今後の生活の場なのだと改めて思い知らされる。
「……このまま眠るべきか、それともグレン様の戻りを待つべきか」
思い悩んだ末、ラヴィーナはそっと起き上がった。窓辺に寄り、夜の城下町を見下ろす。王都ヴィスヘルムの夜景は暗闇の中にもわずかな明かりを点々と浮かべ、どこか幻想的な雰囲気を醸していた。
遠くに見える川向こうの街並み、天を衝くようにそびえ立つ大聖堂の尖塔、漆黒に染まる空。すべてが見知らぬ地――しかし、これからはここで生きていくのだ。
「……グレン様は、まだお戻りにならないのね」
そう呟きながら、ラヴィーナは意を決したように部屋を出た。夫がどこにいるのか、今何をしているのか少しでも知りたいという気持ちがわき上がったのだ。もちろん無理に押しかけるつもりはないが、せめて動向を探ることはできるかもしれない。
廊下に出ると、控えていた侍女が慌てて頭を下げる。
「殿下……夜分にどちらへ?」
「少し、歩きたいの。新しい城の中を把握しておかなくちゃいけないわ。案内してくれる?」
「は、はい。かしこまりました」
侍女は緊張した面持ちで、ラヴィーナの先を歩き始めた。とはいえ、ラヴィーナが本当に歩きたいのは「グレンがいるかもしれない場所」だ。それはきっと軍事関連の重役が集まる会議室や執務室に違いない。
「この先には何があるの?」
「こちらは、宮廷の兵士たちが詰める部屋が並んでおります。さらに突き当たりを左に曲がった先には、軍議などが開かれる会議室もございます。ただ、夜ですので、警備の方以外はあまり……」
侍女は言葉を濁すが、ラヴィーナはそれが気になる。夜中に軍議を開くというのは、それこそなにか緊急の事態があるか、あるいは王族が独断で会議を開いているか、など限られた状況だ。
(やっぱり、グレン様はここで何か重要な協議をしているのかしら……)
少し胸がざわつく。自分を放置してまで彼が取り組んでいる“要務”が、どんなものなのか知りたい気持ちが募る。しかし、王宮内で勝手に動くのはリスキーだ。
「ありがとう、もう十分よ。私は少し散歩をして、今夜は休むわ」
ラヴィーナは優しい笑顔を浮かべ、侍女を下がらせた。彼女には大勢の目がある中で「グレンの居場所」を探るような下手な真似はしないほうがいい。政略結婚で嫁いできたばかりの新王子妃が、無遠慮に動き回るのは却って波風を立てるかもしれない。今はまだ、その時ではないのだ。
結局、ラヴィーナは廊下を一周するだけで部屋に戻ってきた。深夜に差し掛かった王宮は冷んやりとした静寂に包まれ、かすかな足音が石畳に反響する。時折、巡回中の衛兵とすれ違うが、皆目を伏せて敬礼しては通り過ぎるだけだった。
部屋に戻ったラヴィーナは、ふと窓の外を再び見やる。城下町の明かりはだいぶまばらになり、黒々とした静寂が一段と深まっているように感じられる。
(今日はもう、彼は戻らないのでしょうね)
内心が不安に揺れながらも、ラヴィーナはベッドに横になる。シルクのシーツが肌をやさしく包み込むが、その温もりは心の冷え切った部分を癒してはくれなかった。
──ただ、いつまでもこうしているわけにはいかない。ラヴィーナは意識が朦朧とするなかで思う。自分は今日からハーヴェル王国の王子妃として、確固たる地位を築かなければならない。形ばかりの存在で終わるつもりなどない。きっと、いつかはグレンに振り向いてもらう必要も出てくるのだろうか。
(そうしなきゃ、きっと私はこのまま……)
まぶたが重くなり、いつしか浅い眠りに落ちていく。その夜、夢の中でラヴィーナは、まだ見ぬ未来の光景をかすかに垣間見たような気がした。深い霧の向こうで、何者かが手を差し伸べてくる。その手は冷たいが、どこか温かな優しさが宿っているように感じて――。
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翌朝。朝日が差し込む部屋の中で、ラヴィーナは重たげに瞼を開いた。慣れない寝台の感触と、昨夜遅くまで続いた披露宴や新環境への気疲れで、身体はだるさを感じる。
起き上がりかけたそのとき、部屋の扉が控えめにノックされた。
「……はい、どうぞ」
声を掛けると、侍女が朝の給仕を担う者たちを連れて入ってくる。銀のトレーに乗った軽い食事とお茶、そしてハーヴェル王国の宮廷での日課や行事予定をまとめた書類が運び込まれた。
「ラヴィーナ殿下、おはようございます。朝食をお持ちいたしました。本日の日程表と合わせて、今後の宮廷の行事予定もこちらにまとめております」
「ありがとう。助かるわ」
ラヴィーナはベッドから下りると、すぐに姿見の前で身支度を始める。寝ぐせを軽く整えながら、侍女に尋ねた。
「……グレン様はもう起きていらっしゃるのかしら?」
侍女は少し困ったように視線を落としながら答える。
「実は、第二王子殿下は今朝方、まだ夜が明けきらないうちに早馬で王都を出立されました。国境付近で発生した軍事上の問題に対応するために、しばらくお戻りにならないとのことで……」
「そう……」
ラヴィーナの胸に、昨日の冷淡な態度が再び突き刺さる。結婚式から一夜明けてすぐに出立するというのだから、どれだけ彼は自分を避けたいのかと思ってしまう。
(やっぱり、本当に私のことなどどうでもいいのね。いや、彼は最初からこの結婚に乗り気ではなかったのだもの……)
頭ではわかっていても、心が抉られるような思いを禁じ得ない。けれど、ここで落ち込んでいても仕方がない。ラヴィーナは鏡に映る自分の姿を見つめ、まっすぐに背筋を伸ばす。
「わかったわ。ありがとう……。食事を済ませたら、私も今後の行事予定を把握しておきたいから、それまで少し時間をちょうだい」
「かしこまりました。失礼いたします」
侍女たちが下がっていくと、部屋は再び静寂に包まれる。ラヴィーナは目の前の朝食に視線を向けるが、正直食欲はほとんど湧かなかった。
それでも、空腹のままでは体が持たない。彼女は勧められたハーブティーを一口含み、果物を少し齧る。酸味が舌に広がり、かすかに生気が戻ってくる気がした。
(グレン様に認められる日が来るのだろうか。政略結婚だからこそ、私は私なりに努力しなければならない。たとえ愛がそこになくても、せめて同盟関係を円滑にする役目を果たしてみせる。そのために私はここへ来たのよ……)
自分に言い聞かせるようにして、ラヴィーナは少しずつパンを口に運ぶ。朝日の中で揺れるティーカップの影は、彼女がこれから進む厳しい道のりを象徴しているかのようだった。
それから数日が過ぎても、グレンは戻ってこなかった。ラヴィーナが聞かされるのは「国境付近での兵の配置を見直す」「盗賊団の根絶作戦に出向いている」「領内の不穏分子を制圧する」など、軍事一辺倒の報せばかり。肝心の彼が何を考えているのか、どんな人物なのか、ラヴィーナはまるでつかめないままの日々を過ごしていた。
一方でラヴィーナは、王宮内の生活や行事を一通り見学し、ハーヴェル王国の貴族や使用人たちとの関係構築に努め始めた。政略結婚だとはいえ、立場としては正式に王子妃となったのだ。礼儀を欠かさず、誰にでも分け隔てなく接するラヴィーナの人柄は、少しずつ人々の心をほぐしていく。
中には彼女を快く思わない貴族たちもいた。
「どうせ形式だけの王子妃だろう。第二王子殿下も、すぐにでも離縁するんじゃないか?」
「ヴァイルロード公国から送り込まれたスパイかもしれない。ああ、こわいこわい」
陰口も聞こえてはきたが、ラヴィーナはそれに負けず、地道に自分の立場を確立しようとした。公国で学んだ礼儀作法と、多くの人と信頼関係を築くために努力を惜しまない姿勢。それらが少しずつ周囲の評価を変えていく。
(私がただの飾りで終わらないために、できることをする。それが、きっといつか私自身を救う道にもなる……)
そう信じて、ラヴィーナは一歩ずつ前へ進もうとしていた。
そんなある日、ラヴィーナは書庫で大量の資料に目を通していた。ハーヴェル王国の行政や税制、貿易の仕組みなどを詳細に理解するために、できるだけ文献を読み込んでいるのだ。父であるヴィクトレール公爵が「ラヴィーナは優れた学識と知性を持っている」と誇っていたのは本当で、ラヴィーナ自身も専門分野への探求心が強い。
(こうして調べてみると、ハーヴェル王国とヴァイルロード公国は互いに補完し合う関係になれる可能性があるわ。公国には金属資源が豊富で、王国には豊富な海産物と商船がある。双方が協力すれば、貿易ルートの拡大と軍需品の安定供給が見込めるかも……)
彼女はメモを取りながら、視線を滑らせていく。国民の暮らしを向上させるために、自分が何かできることはないか。それを模索することが、今のラヴィーナの生きがいになりつつあった。
ふと背後に人の気配を感じて振り返ると、そこには初老の男性が静かに立っていた。深い皺の刻まれた顔には穏やかな笑みが漂い、王宮図書館の管理を任されている司書長のヴェルトという人物だ。
「ラヴィーナ殿下、いつも熱心にお勉強されておられますね。大変立派なことです。ハーヴェル王国の資料は分かりづらいものも多いかと思いますが、ご質問があればいつでもどうぞ」
「ありがとうございます。こちらに来てから、まだ日が浅いもので……私なりに勉強しておきたくて」
「殿下のお姿勢は素晴らしいです。どうか何なりとお申し付けくださいね」
ヴェルトは深々と一礼すると、ラヴィーナのために追加でいくつか書物を運んできてくれた。その中には公国内の主要産業についてまとめた文献や、歴史上の重要な条約に関する書簡などが含まれていた。
「これはありがたいわ。助かります」
ラヴィーナがそう微笑むと、ヴェルトはしみじみと言葉を継ぐ。
「私が思うに、ラヴィーナ殿下はもともと『公女』というより『学者』か『研究者』の道を志してもよかったのでは、などと感じてしまいますね。今後、王国のためにその知性を振るっていただければ、さぞ素晴らしい功績を残せるでしょう」
「ふふ、そう言っていただけると嬉しいです。私にできることがあれば、ぜひお力添えさせてくださいね」
こうして王宮図書館に籠もるうちに、ラヴィーナはわずかずつではあるが、宮廷内の人々とも信頼関係を築きはじめていた。グレンがいない間にできることをする。それがラヴィーナの心を支える大きな原動力になっていた。
しかし、夜になると、どうしても胸に空いた穴を感じずにはいられない。どれだけ勉学に励もうと、どれほど周囲と良好な関係を築こうと、“夫”であるグレン・オルディスの冷たい現実を忘れることはできないのだ。
「……はぁ」
ある晩、ラヴィーナは自室のバルコニーに立ち、城下町の夜景を見下ろしながら大きなため息をついた。ここ数日、グレンからは一切連絡がない。彼が本当に軍の仕事にかまけているだけなのか、それとも意図的に避けられているのか――考えれば考えるほど、虚しさが募るばかり。
それでも、すでに自分は彼の妻なのだ。いずれ直接言葉を交わさなければならない時が来るだろう。そのときまでに、ただの“政略結婚の駒”で終わるつもりはない。
(いつかきっと……私の存在が、彼の冷たい仮面を割るきっかけになるかもしれない。そう信じて、自分にできることを続けよう)
夜風に揺れる黒髪を押さえながら、ラヴィーナは自分に言い聞かせた。ヴァイルロード公国を出るとき、父は確かに「お前ならば大丈夫だ」と言って送り出してくれた。あの言葉を裏切るわけにはいかない。そして何より、ラヴィーナ自身が流されるだけではいたくないのだ。
政略結婚の夜は、あまりにも冷たい現実を突きつけてきた。しかし、ラヴィーナは“ここで終わりにしたくない”という強い思いを胸に秘めている。彼女は夜の闇を見つめながら、薄く唇を噛んだ。
やがて、一陣の風がバルコニーを通り抜ける。遠くの方からは、騎馬の足音や鍛冶屋の打撃音がほんのかすかに聞こえてくる。眠らない城の一角に、ラヴィーナはじっと立ち続けた。手に触れた指輪の冷たい感触が、今は何よりも彼女の決意を強固にしてくれる。
──ここで諦めてしまえば、本当にただの“道具”で終わってしまう。
そうして、ラヴィーナの長い夜は、静かに、しかし確かに明日への希望を孕みながら幕を閉じていったのだった。
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