第2話 放課後の雨
放課後のチャイムが鳴る頃、一時は止んでいた雨も再び雨が降り出した。
校舎の窓を叩く雨音が、どこか遠い場所の出来事のように思える。
神崎湊は、誰もいなくなった教室で鞄を閉めながら廊下を見た。
そこに――篠原黎が立っていた。
傘を持たず、濡れた制服のまま。
彼は何かを待っているように、じっと湊を見ていた。
「……帰らないのか?」
湊の声に、黎は小さく首を横に振った。
「雨が止むまで」
その言葉の響きは、まるで祈りのように静かだった。
二人はしばらく、教室に残った。
雨がガラスを滑る音だけが響く。
湊は落ち着かない気持ちで口を開いた。
「この前、屋上で言ってた“音が消える”って、どういう意味だったんだ?」
黎は少しだけ考えるように目を伏せた。
「人の心って、音がするんだ。ざわざわして、痛くて……ずっと聞こえる」
「……幻聴ってこと?」
「違う。たぶん、感じるんだ。誰かの“痛み”を」
湊は言葉を失った。
黎の声は淡々としているのに、そこにはどこか、切実な悲鳴のようなものが滲んでいた。
沈黙を破ったのは、廊下から聞こえる女子たちの声だった。
「ねえ、あの転校生、やっぱり何かおかしくない? 今日もずっと一人で……」
「だって、あいつ、前の学校で――」
湊が振り向いた瞬間、黎の表情が変わった。
微かに眉が動き、唇が震えた。
すると、ガラスの外で雷鳴が鳴り響いた。
一瞬、停電のように教室の灯りが落ちる。
湊は息を呑んだ。
その刹那、黎の背後に――人の形をした“影”のようなものが立っていた。
黒くゆらゆらと揺れて、窓の外に溶けていく。
灯りが戻ると、黎は目を伏せ震えるように言った。
「……ごめん。見せたくなかった」
「今の……何だったんだ?」
「人の“罪”だよ。俺の中に映るもの」
湊は理解できなかった。ただ、胸の奥がざわめいた。
目の前の少年が背負っているものは、冗談や噂ではなく――何か本当に“在る”ものだ。
翌日、教室ではひとつの事件が起きた。
湊の友人・悠が、机の中に入れていたスマホを盗まれたという。
クラスはざわつき、担任が事情を聞きに来る。
だが、廊下の端で、誰かが小さく呟いた。
「……篠原じゃね?」
その言葉は、まるで毒のように教室を一瞬にして汚した。
黎は何も言わず、ただ俯いていた。
湊はたまらず声を上げた。
「勝手なこと言うな! 証拠もないだろ!」
だが、クラスメイトたちは視線を逸らしたままだ。
放課後、湊は黎を探して校舎裏に向かった。
灰色の空の下、彼は傘も差さずに立っていた。
制服の肩から滴る雨が、地面の泥に吸い込まれていく。
「どうして何も言わないんだよ」
「言っても、変わらない」
「そんなことない!」
湊は思わず声を荒げた。
「俺は……信じてるから」
その言葉に、黎の瞳がわずかに揺れた。
けれど次の瞬間、彼は唇を噛み、低く呟いた。
「……君は、見ない方がいい」
そう言うと、黎は雨の中を歩き去った。
背中を追おうとした湊の足が、ふと止まる。
地面に落ちた水たまりの中――何かが映っていた。
そこには、見知らぬ少女の顔が浮かんでいた。
目を見開き、口を裂くように歪んだ笑み。
そして、その頬に、同じ“灰色の痣”があった。
湊は叫び声を上げそうになり、目を瞬かせる。
だが次に見たときには、ただの雨の水面に戻って波紋を広げていた。
息を整えながら、湊は思った。
――あの少女は、誰だ?
そして、どうして黎の痣と同じだった?
その日の夜。
湊のスマホが再び震えた。
通知欄には、ひとつのメッセージ。差出人は篠原黎。
【誰かの痛みが、君に流れてる】
【だからもう、近づかない方がいい】
湊はしばらく画面を見つめた。
指先が震える。
――それでも、返信を打った。
【俺は逃げない。お前を一人にしない】
送信を押すと同時に、外で雷鳴が轟くと共に雷光が光る。
窓の外の空が、再び灰色に染まる。
雨は止む気配を見せず、街の明かりを朧気にぼやかしていた。
その夜、湊は夢を見た。
真っ白な部屋に、灰色の少年が立っている。
目の前の机には、見たことのない日記帳が置かれていた。
ページの中には、こう書かれていた。
「罪は分けられる。でも、分けた先も痛みで壊れる。」
湊がページをめくろうとした瞬間、誰かの手が彼の肩を掴んだ。
冷たい指先。
振り返ると、黎がいた。
だが、その瞳は――真っ黒に染まっていた。
目を覚ました時、外はまだ雨だった。
枕元には、何故か水滴が落ちていた。
窓は閉めたはずなのに。
湊は、胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
そして、自分の手の甲を見た――そこには、黎と同じ薄く“灰色の痣”が浮かんでいた。
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