板前に ときめき

 駅ビルの地下には、レストラン街がある。俺の今夜のパートには、このレストラン街の共有部分の清掃も含まれている。


 閉店後のレストラン街は静まり返っている。しかし、和食料理店の裏口から、微かに出汁(だし)の匂いが漏れてくることがある。その匂いが、なんともたまらない。そして、もっとたまらないのは当然!そこで働く男性だ。


 その和食店「なごみ」の裏口で片付けをしていたのが、推定40代前半の板前とおぼしき男性だった。白い調理着に、清潔なタオルを頭に巻いている。


 彼の仕事はもう終わりかけのようで、大きな寸胴鍋を洗い、布巾で丁寧に拭いていた。その手つきが、実に丁寧で、優しい。


(ああ、寸胴になりたい…)


 断じてやらしい意味ではない。子どもを洗うような慈愛をこの俺にも注いでほしい、ってこれもダメな気がする。頼む、伝わってくれ!


 彼の身体からは、出汁と、少し焦げ付いた醤油のような、複雑で芳醇な香りが漂っている。それは、彼が今日一日、真剣に食材と向き合ってきた証拠だ。


 彼は、鍋を洗い終えると、壁に立てかけてあった自分の私物らしきものを手に取った。それは、年季の入った包丁ケースだ。


「包丁…!」


 俺のときめきメーターが急上昇した。板前の魂だ。彼の技術のすべてが、あのケースの中に詰まっているのだ。彼が、どれほどの時間、その包丁を研ぎ、食材を捌き続けてきたのだろうか。想像するだけできゅんとしてしまう。


 彼は、ケースを抱え込むようにして、裏口のシャッターを閉め始めた。


 その時、ふと、彼と目が合った。


「お疲れ様です」


 彼は少し疲れたような、しかし穏やかな笑顔で俺に会釈してくれた。その手の指先には、いくつもの小さな切り傷や、火傷の跡らしきものが見えた。


(あの傷は板前の勲章だ…!)


 俺は彼の荒れた手に、ひどくときめいた。それは、デスクワークの男性の指先とは全く違う、過酷な労働の証が刻まれた手だ。


「お疲れ様です! いつも、お掃除ありがとうございます」


 俺は突然の感謝の言葉に、思わず動揺した。


「あ、いえ! こちらこそ、いつもいい匂いで…! ありがとうございます!」


 なんだ、今日の俺は!夜か!夜遅くだからか!?これじゃあ誰が聞いてもヘンタイさんじゃないか!思わず口走ってしまった俺は、さらにうろたえた。


 だが、板前の彼は笑ってくれた。


「ああ、ありがとうございます。明日も美味しいの、作りますんで」


 そう言って、彼は包丁ケースを提げ、裏口から去っていった。


 俺は少し息を吸い込む。出汁の香りはもうしない。でも、彼の料理、そしてお客さんへの気持ち、そんな温かい残り香はそこにあったような気がした。


 俺の清掃も彼の料理も、きっと誰かの日常を支えている。そう思うと、俺のホウキを握る手にも力がこもるってもんだ。


「今夜も頼むぜ、俺の相棒!」


 プロの男の香りを思い出しながら、俺は今夜も清掃作業に熱が入るのだった。

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