特別任務 グルメ評論家 徳川

akagami.H

第1話 MI6

第一部


任務は失敗に終わった。死人が出かけた。

俺は生き延びたが、全てが燃えている。

銃声の残響が耳に残っている気がする。

いや、あれは新聞社のカメラのシャッター音かもしれない。

光と音の区別がつかないほど、現実と報道が入り混じっている。


スーツの襟を正しながら、飛行機を降りる。

——重慶江北国際空港。

湿った空気が肺を焼くように重い。

ここから先は、誰も味方ではない。


到着ロビーはガラス張りで、無数の人々が押し寄せている。

誰も俺を見ていない。

だが、全員が俺を監視しているように感じる。

——長年の訓練で培った勘だ。

俺の視線を追う“何者か”の影が、すでに動き始めている。


ポケットの中で携帯が震えた。

発信者は“BOSS”。

俺に任務を与え、報告を受ける唯一の存在。


「おい徳川、聞いてるか」

声は低く、しかし苛立っていた。

「お前が星をつけた三つ星レストラン、連続でスキャンダルだぞ。

薬物、不倫、裏金……新聞の一面はお前の査定で埋まってる」


「裏で敵が動いています。俺を嵌めた工作員がいるに違いない」

「何言ってる! お前は“覆面調査員”だ!

食って書いて寝ろ、それだけの仕事だろ!」

「——敵は、厨房の奥にいる」

「スパイごっこをしてる場合か!」


通話が切れる。

だが、俺の中では通信は続いていた。

任務は終わっていない。


タクシーに乗り込む。

運転手が何かを話しかけてくるが、俺は頷くだけだ。

窓の外に広がる重慶の街。

夜の闇を赤く照らす火鍋の看板、ビルの隙間から覗く無数のランタン。

高架の上を走るモノレールが、まるで鉄の蛇のようにうねりながら闇を切り裂いていく。


車窓に映る自分の顔。

「徳川輝臣」——その名は、もう過去のコードネームだ。

いまの俺はただの“調査員”。

だが、この街ではその肩書きが命を奪う。


市街地・解放碑。

夜でも人が絶えない繁華街、音と匂いの渦。

敵の拠点はこの熱気の中に隠されている。

表向きは観光地、だが実際は情報と金の流れる闇の回廊。


俺は独り言を呟く。

「特殊な訓練は済ませてある。肉体は鍛え抜かれ、精神は拷問にも耐える。

いつ襲撃が来てもいい。俺は準備ができている」


背中を汗が流れ落ちる。

重慶の熱気なのか、緊張なのか、自分でもわからない。

だが足は止まらなかった。


狭い路地に足を踏み入れる。

湿った壁、赤いネオンの光。

どこかで豚の骨を煮る音がする。

その瞬間、闇が動いた。


数人の影が立ちはだかる。

刃物の光。怒鳴り声。何を言っているか分からないが、殺気だけは伝わる。

俺は呼吸を整え、ゆっくりと構えた。


「……敵の襲撃か」


脳裏で警報が鳴り、時間が遅く流れ出す。

一歩踏み出せば、すでに任務の延長線上だ。

影が飛びかかってくる。

重慶の夜が、火鍋よりも熱を帯びて燃え上がった——。


ここで第一部は終わる。

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