第10話 山の声
甚兵衛の傷はまだ癒えていなかったが、彼の眼には再び戦う者の光が宿っていた。
弥市と母の案内で、甚兵衛は山の奥へと向かう。
村人たちが決して足を踏み入れぬ場所――鬣犬が現れる以前から「穢れの地」と呼ばれ、忌み嫌われていた谷だった。
「この先に、誰も近づかない祠がある。昔、村が何かを封じたって話だ」
弥市の言葉に、甚兵衛は頷いた。
山道は険しく、木々は異様に静まり返っていた。
鳥の声も、風の音もない。
ただ、地の底から響くような低い唸りが、時折耳に届く。
「……山が、呻いている」
母がそう呟いた時、甚兵衛は足を止めた。
前方に、苔むした石段が現れた。
その先には、崩れかけた祠がぽつんと立っていた。
「ここだ。怨念の源は、この地にある」
甚兵衛は祠に近づき、扉を押し開けた。
中には、古びた木札が散乱していた。
かつて封印に使われたものだろう。
だが、今は力を失い、ただの朽ち木に過ぎなかった。
祠の奥に、何かが刻まれていた。
老婆の名――いや、かつて村にいた女の名前だった。
「この祠は、彼女を封じるために建てられた。だが、封じたのは怨念ではなく、村の罪だ」
甚兵衛は、静かに刀の柄に手を添えた。
「この地に流れた血と憎しみが、鬣犬を育てた。ならば、ここを断たねば、鬼は斬れぬ」
弥市は、祠の前に立ち、拳を握った。
「俺たちも、ここに捨てられたようなもんだ。だからこそ、終わらせたい。この山の声を、静めたい」
母は、祠の前に膝をつき、手を合わせた。
「どうか、あの子を……あの老婆を、許してやってください」
その祈りは、山に染み渡るように、静かに響いた。
甚兵衛は、刀を抜いた。
「次に斬るのは、鬼ではない。人の罪だ」
そして、彼らは山を下りた。
最後の戦いに向けて、静かに準備を始めるために。
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