第3話 銀糸の夢 ―文明の誕生―



【銀の都 構造図】

```

上層: 大型クモ(狩猟特化) 個体数: 約200

中層: 中型クモ(建築担当) 個体数: 約800

下層: 小型クモ(清掃/補修) 個体数: 約2000


糸の総延長: 推定50km

捕獲効率: 1日あたり5000匹(小型昆虫)

```


時代: 石炭紀前期 3億2000万年前

酸素濃度: 34.5%

都市規模: 直径200メートル、3層構造


---


## 一、銀の都


森の中央。巨大シダの最も古い樹木群が円形に並んでいる場所がある。その樹木の間に奇跡が存在する。


それは巣ではない。都市だ。


数千匹のクモが何世代もかけて築いた三次元構造物。直径200メートル。高さ30メートル。樹木から樹木へ無数の糸が張り巡らされている。


その糸は層をなしている。上層、中層、下層。それぞれの層には異なる機能がある。


上層は太く強靭な糸で作られている。この層の役割は狩猟だ。ここには大型のクモ、体長10センチから15センチ、が住んでいる。彼らは糸の間で待ち伏せし、大型の獲物を捕らえる。


甲虫、トンボ、カゲロウ。獲物が糸に触れれば振動が伝わる。近くのクモが駆けつける。協力して獲物を殺す。


中層は最も複雑な構造をしている。無数の糸が三次元の迷路を形成している。この層の役割は居住と建築だ。ここには中型のクモ、体長5センチから8センチ、が住んでいる。彼らは毎日糸を補修し、新しい糸を張る。都市を維持するのが彼らの役割だ。


下層は細かい糸で作られている。この層の役割は清掃とフィルターだ。ここには小型のクモ、体長2センチから4センチ、が住んでいる。彼らは上層から落ちてくる獲物の残骸を食べる。また空中を漂う小型昆虫を濾し取る。


この都市には3000匹のクモが住んでいる。彼らは異なる種ではない。同じ種だ。しかし役割が異なる。それは都市という構造が彼らに役割を与えたからだ。


都市の中心部、中層の最も重要な区画。そこに銀糸という名の若いクモがいる。


## 二、銀糸


銀糸は体長7センチの中型クモだ。彼女の体は通常のクモと変わらない。しかし彼女の糸は特別だった。


クモの糸はタンパク質でできている。その構造は種によって、個体によって微妙に異なる。銀糸の糸は特に細く均一だ。そしてその糸は月光を受けると銀色に輝く。


銀糸という名は他のクモがつけたものではない。クモには命名という概念はない。しかし彼女の糸は目立つ。夜、月光の下で彼女の糸だけが輝く。だから彼女は銀糸だ。


銀糸の一日は夜明けと共に始まる。彼女は自分の区画を巡回する。区画の大きさは約10メートル四方。中層の一角だ。彼女の役割はこの区画の糸を維持することだ。


銀糸は糸を一本一本確認する。彼女の脚が糸に触れる。振動で糸の強度を測る。この糸はまだ大丈夫。この糸は少し弱っている。補修が必要。この糸は完全に劣化している。交換が必要。


糸は永遠ではない。雨が降れば水を吸って重くなる。風が吹けば揺れて疲労する。獲物が暴れれば引っ張られて傷む。紫外線を浴びればタンパク質が分解する。糸の寿命は平均して3日だ。


つまり銀糸は3日ごとに区画の全ての糸を張り替えなければならない。


銀糸は劣化した糸を見つける。彼女はその糸の端に移動する。そして糸を切る。彼女の牙が糸を噛み切る。古い糸が風に揺れて落ちていく。


銀糸は新しい糸を紡ぐ。彼女の腹部にある糸疣から液体のタンパク質が出る。空気に触れるとそれは固まり糸になる。


彼女は樹木の枝へ移動する。糸を固定する。そして反対側の枝へ移動する。糸を引っ張りながら。糸が空中に張られる。


新しい糸は完璧だ。太さは均一。強度は十分。そして月光を受ければ銀色に輝く。


銀糸は満足する。彼女には美的感覚はない。しかし完璧な糸を紡ぐことに喜びを感じる。それは本能だった。


## 三、都市の日常


正午。都市の上層で何かが起きる。振動だ。獲物が糸にかかった。


振動は糸を伝って都市全体に広がる。銀糸はその振動を感じる。彼女の脚が糸の振動を読み取る。


振動のパターンから銀糸は情報を得る。獲物の種類、大型甲虫。獲物の位置、上層、北西区画。獲物の状態、激しく暴れている。


銀糸は動かない。これは彼女の仕事ではない。上層の獲物は上層のクモが処理する。


上層では数匹の大型クモが獲物に近づいている。甲虫は体長8センチ。硬い外殻を持つ。一匹のクモでは殺せない。


大型クモたちは協力する。一匹が甲虫の脚に噛みつく。毒を注入する。甲虫は動きが鈍くなる。別のクモが甲虫の頭部に噛みつく。さらに別のクモが甲虫を糸で巻く。


数分後、甲虫は動かなくなる。


大型クモたちは獲物を分配する。分配のルールは単純だ。最初に噛みついた者が最も多く食べる。最初のクモが甲虫の腹部を食べる。最も栄養価が高い部分だ。他のクモたちは残りを食べる。


食べ残しは下層へ落とされる。甲虫の外殻、脚、触角。これらは上層のクモには栄養価が低い。しかし下層のクモには貴重な食料だ。


下層では小型のクモたちが待ち構えている。残骸が落ちてくる。小型クモたちは一斉に群がる。彼らは残骸を食べ尽くす。


これが都市の食物連鎖だった。上層が大型の獲物を捕らえる。中層が都市を維持する。下層が残骸を処理する。誰も設計していない。しかし完璧に機能している。


夕方。銀糸は補修作業を終える。彼女は自分の区画の中心部に戻る。そこには小さな「部屋」がある。糸で囲まれた直径30センチほどの空間だ。


銀糸はそこで休息する。彼女は脚を折りたたみ、じっとしている。休息中、銀糸は「思考」する。


クモには人間のような思考能力はない。しかしパターン認識能力はある。銀糸は都市の構造を理解している。彼女は糸を張りながら何千回も都市を巡回してきた。


その経験から彼女は知っている。私たちは一匹では何もできない。しかし糸で繋がれば森よりも大きなものを作れる。これは言葉ではない。しかし確信だった。


## 四、長老の死


ある朝。銀糸は異常な振動を感じた。それは獲物の振動ではない。警報だ。


都市の上層、中心部から警報の振動が送られている。その振動のパターンは明確だった。「危機。集合せよ」


銀糸は中心部へ向かった。彼女は糸を伝って移動する。時速2メートル。クモとしては速い。


中心部に到着する。そこにはすでに数十匹のクモが集まっている。そして一匹のクモが動かなくなっている。


それは長老織り手だった。長老織り手は都市で最も古いクモだ。彼女の体長は12センチ。通常のクモの倍だ。彼女は5年以上生きている。クモとしては異常に長い。


そして彼女は都市で最も強い糸を紡ぐ能力を持っていた。都市の中心部、最も重要な構造物、主要な梁は、すべて長老織り手の糸でできている。その糸は通常の糸の3倍の強度を持つ。その糸が都市全体を支えている。


しかし長老織り手は死んだ。


銀糸は長老織り手の体に触れる。反応がない。体は冷たく硬直している。


銀糸は理解する。「都市が崩壊するかもしれない」


長老織り手の糸は強い。しかし永遠ではない。彼女が死ねばもう新しい糸は紡げない。既存の糸は徐々に劣化していく。そしていつか中心部が崩壊する。


銀糸は周囲のクモたちを見る。彼らも同じことを理解している。しかし誰も動かない。なぜなら誰も長老織り手ほど強い糸を紡げないから。


銀糸は決断する。彼女は中心部の糸を調べる。長老織り手の糸はまだ健在だ。しかしいくつかの糸には小さな亀裂が入っている。風が吹けばその亀裂は広がる。数週間で糸は切れるだろう。


銀糸は他の若いクモたちに「呼びかける」。それは振動による信号だ。「協力せよ。中心部を補修する」


若いクモたちは躊躇する。彼らの糸は長老の糸ほど強くない。しかし数で補えば可能かもしれない。


数匹のクモが銀糸に応じる。彼らは中心部へ移動する。


## 五、補修


補修作業は過酷だった。中心部は都市の最も高い場所にある。地上から25メートル。風が強く、糸が大きく揺れる。


銀糸は長老織り手の糸の横に自分の糸を張る。彼女の糸は細いが柔軟だ。風で揺れても切れにくい。


他の若いクモたちも同じように糸を張る。一本、二本、三本。徐々に長老織り手の糸の周囲に新しい糸の網が形成されていく。


しかし作業中、事故が起きる。一匹の若いクモがバランスを崩す。風が強く吹き、糸が大きく揺れたからだ。クモは糸から落ちる。彼は必死に脚を伸ばす。別の糸を掴もうとする。しかし掴めない。


彼は地上へ落下する。25メートル。クモにとって致命的な高さだ。地上で彼の体が砕ける。


銀糸は落下を見る。彼女は悲しまない。クモには悲しみという感情はない。しかし彼女は理解する。「この作業は危険だ」


それでも銀糸は続ける。数日間、作業は続く。毎日、数匹のクモが落下する。数十匹が死ぬ。しかし都市は守られる。


新しい糸の網が中心部を覆う。それは長老織り手の糸ほど美しくはない。一本一本の糸は細く不揃いだ。しかしより柔軟だ。風が吹いても揺れるだけで切れない。雨が降っても水を吸収して重くならない。


銀糸は理解する。「完璧である必要はない。適応できればいい」


補修作業が完了する。都市は再び安定する。銀糸は自分の区画へ戻る。彼女は疲れている。しかし満足している。


その夜、銀糸は休息する。明日も彼女は糸を紡ぐ。都市を維持する。


しかし新たな脅威が空から迫っていた。


## 六、空からの侵入者


補修作業から3日後。夕暮れ。都市の上空を何かが旋回している。


銀糸はその振動を感じる。それは風の振動ではない。何かが糸に触れている。


銀糸は上層へ移動する。そこで彼女は侵入者を見た。メガネウラだ。翼幅70センチ。体長40センチ。影狩りだ。


影狩りは都市の上層部に止まっている。彼女の重量、200グラム、は糸にとって大きな負担だ。糸が軋み、たわむ。


影狩りは糸に捕らわれた小型昆虫を見つける。カゲロウだ。体長3センチ。カゲロウは糸に絡まりもがいている。


影狩りの顎がカゲロウを掴む。糸から引き剥がす。そして食べ始める。


銀糸は警報の振動を送る。「侵入者。上層。危険」


都市全体に警報が伝わる。上層の大型クモたちが集まり始める。しかし彼らは影狩りに近づけない。影狩りは空を飛べる。クモたちは糸の上でしか移動できない。


大型クモの一匹が影狩りに近づこうとする。影狩りは翼を広げる。威嚇する。大型クモは躊躇する。彼は影狩りの大きさを見る。自分の3倍以上だ。大型クモは退く。


影狩りは再び獲物を探す。彼女は糸に捕らわれた別の昆虫を見つける。甲虫だ。彼女は甲虫を掴み、食べる。


銀糸は見ているしかない。都市は空の捕食者に対して無力だった。


## 七、数日間の侵略


影狩りはその後も毎日都市を訪れる。彼女にとって都市は完璧な狩場だ。獲物は糸に捕らわれ、逃げられない。追跡は不要。ただ摘むだけでいい。


影狩りは傷ついた翼でも狩りができる。飛行速度は遅くなったがホバリングはできる。それで十分だ。


毎日、影狩りは20匹以上の昆虫を都市から奪う。クモたちは獲物を失う。上層のクモたちは食料が減り飢え始める。中層のクモたちも影響を受ける。下層のクモたちは残骸すら得られなくなる。


都市全体が衰弱していく。


銀糸は何度も影狩りを観察する。彼女はパターンを認識しようとする。影狩りは毎日同じ時間、夕暮れ、に来る。同じ場所、都市の北側、に止まる。同じ獲物、糸に捕らわれた昆虫、を狙う。


銀糸は理解する。「彼女は学習している。都市を狩場として認識している」つまり彼女は去らない。


## 八、新しい戦略


5日後。影狩りはいつものように都市を訪れる。しかし都市が変わっている。


都市の北側、影狩りがいつも止まる場所に新しい糸の層が張られている。その糸は非常に密だ。糸と糸の間隔はわずか1センチ。通常の糸の網の10倍密度だ。


影狩りはその糸に止まろうとする。しかし翼が糸に絡まる。影狩りは驚く。彼女は翼を動かし、糸から抜け出そうとする。糸が切れる。彼女は何とか脱出する。


しかし彼女は理解する。「ここはもう安全ではない」


影狩りは都市の別の場所、南側、へ移動する。そこにはまだ密な糸はない。彼女はそこで狩りをする。


しかし翌日、南側にも密な糸が張られる。影狩りはまた別の場所へ移動する。しかしそこにも密な糸が張られる。


数日後、都市全体が密な糸で覆われている。影狩りはもう都市に止まれない。彼女は上空を旋回するだけだ。そして去っていく。


## 九、代償


影狩りが去った後。都市は静まり返っている。


銀糸は都市を巡回する。彼女は被害を評価する。密な糸の網は空の捕食者を防いだ。しかし代償があった。


密な糸は小型昆虫も捕らえにくくする。昆虫は密な網を避けて飛ぶ。結果、都市の捕獲効率は50%低下した。1日あたり5000匹捕らえていた都市が今は2500匹しか捕らえられない。


食料が減れば、クモの個体数も減る。すでに下層の小型クモたちは飢えている。


銀糸は理解する。「安全と効率は両立しない」しかし彼女は選択した。安全を優先した。なぜなら空の捕食者に狩場を奪われれば都市は完全に崩壊する。効率が下がっても都市は生き延びられる。


銀糸は新しい戦略を考え始める。「密な糸を部分的に緩める。昆虫が入りやすく、しかし大型の捕食者は入りにくい網目に」


それは試行錯誤が必要だ。何度も失敗するだろう。しかし都市は進化する。


夜。銀糸は自分の区画で休息する。彼女の周囲には無数の糸が張られている。それらは月光を受けて銀色に輝いている。


銀糸は「思考」する。「私たちは脆い。しかし適応できる」「完璧である必要はない。変化し続ければいい」


都市は静かに呼吸する。3000匹のクモが糸で繋がれている。彼らは一匹では無力だ。しかし繋がれば森よりも大きなものを作れる。


それが文明の始まりだった。


---


## 【第3話 完】


次回予告


第4話「泥の革命」


水辺に新しい生命が現れる。両生類「泥を這う者」。彼はエラと肺の両方を持つ。水中でも陸上でも生きられる。


彼は初めて陸に上がる。そこには未知の世界がある。巨大な昆虫たち、クモの都市、ヤスデの群れ。彼らは陸の支配者だ。


しかし泥を這う者は思う。「いつかこの世界は私たちのものになる」


革命が始まる。


→ 次話へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る