第36話 伊豆半島を望む船旅:沼津へ


 


 出発の日、相良の港は、いつもより厳かな雰囲気に包まれていた。

 桜は、新調した洋装ではなく、動きやすいように仕立てられた紺色の着物に身を包んでいる。

 しかし、その目には、旅への期待と、わずかな緊張の色が浮かんでいた。


 幸は、桜の傍らに立ち、細々とした荷物を最終確認している。

 近藤さんは、船頭や船員たちと最終の打ち合わせをしていた。

 俺たちの船は、後藤田さんが自ら操船する、この地域で最も速く、そして頑丈な船だ。


 エンジン音を響かせ、波を切り裂くように進む船は、まさに俺たちの事業の象徴とも言える存在だった。

 焼津の港を出て、船は穏やかな駿河湾を進んだ。

 

 水平線には、雄大な富士山がくっきりと見え、その姿は、この旅の安全を祈ってくれているかのようだった。

 桜は、船べりに立ち、風を顔に受けながら、遠ざかる町を眺めている。

 そこには、彼女が自らの手で築き上げてきた、確固たる基盤があった。


 船は次第に伊豆半島の海岸線に沿って北上していく。

 波は穏やかで、心地よい揺れが旅の疲れを癒してくれるようだ。

 伊豆の緑豊かな山々が海へと迫り、小さな漁村が点々と見える。

 透明度の高い海には、小魚の群れがキラキラと輝き、時折、海鳥が悠々と空を舞っていた。

 幸は、そんな美しい景色に目を奪われ、感嘆の声を上げる。


「嶺さん、見てください!海の色がこんなに綺麗なんて、知りませんでした!」


 ここ最近は屋敷や工場にこもりがちな幸にとって、この船旅は新鮮な体験だったのだろう。

 彼女の無邪気な喜びが、旅の雰囲気を和ませてくれる。

 桜もまた、海の景色に見入っていた。


 彼女もまた、公爵家から保護された生活が長かったため、こうして海の上を移動する機会はほとんどなかったのだろう。

 彼女の表情には、これまでの旅路では見られなかった、純粋な好奇心が浮かんでいた。


「この先、沼津へはどのくらいで到着するのでしょう?」


 桜が近藤さんに尋ねる。


「お嬢様、このまま順調にいけば、昼過ぎには沼津の港に着くかと存じます。陸路での移動に比べれば、はるかに快適でございますね」


 近藤さんの言葉に、桜は小さく頷いた。

 俺らが提供する、この時代としては破格の快適な移動手段に、桜は改めて俺たちの技術の力を感じているようだった。

 

 


 沼津の港に到着すると、事前に手配しておいた人力車が待っていた。

 船から降りた途端、陸の揺れを感じ、桜はわずかに足元がおぼつかない様子だったが、すぐに気を取り直す。


 沼津の町は、港町特有の活気に満ち溢れ、魚の匂いや人々の話し声が響き渡っていた。

 沼津から箱根までは、人力車での移動だ。

 箱根の山道は、人力車とはいえ険しく、何度か休憩を挟みながらゆっくりと進んだ。


 道中、桜は外の景色を熱心に眺めている。

 杉の巨木が立ち並ぶ中、時折、遠くの山々が見え隠れする。

 その雄大な自然の光景に、彼女は改めて日本の美しさを感じているようだった。

 箱根の宿に到着したのは、夕暮れ時だった。


 疲れはあったものの、温泉に浸かり、地元の料理を味わうと、旅の疲れも和らいだ。

 桜は、疲労の色を滲ませながらも、明日の陸蒸気への期待に胸を膨らませているようだ。


 翌朝、再び人力車に乗り込み、小田原へと向かった。

 小田原の町を抜け、一路横浜へ。


 人力車の車輪が、未舗装の道をガタゴトと進むたび、桜は身を揺らす。

 しかし、彼女の表情は、疲労よりも、これから出会うであろう「陸蒸気」への期待で満ちていた。


 そして、ついに横浜の町が見えてきた。

 港には多くの西洋船が停泊し、町並みもこれまでの相良や駿府とは明らかに異なる、西洋の建築様式を取り入れた建物が増えている。

 異国情緒漂うその光景に、桜は目を輝かせていた。

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