六、途切れる闇見

 後味が悪くて仕方が無い。みおは良いと云ったけれど、亜耶は自分の嫌う男を宛がったのだ。事を成し遂げたと、神殿かむどのに報告し乍らも亜耶の気は晴れない。

 八反目やための思い込みが、あそこまでとも予想して居なかった。妹姫おとひめを見分けずに、すすく娘を乱暴に扱うとも。

「大丈夫だよ、亜耶」

 綾が優しく慰めて呉れるが、亜耶は俯いた侭だ。

 先が、見えないのだ。仲の良い妹背いもせに成る。子は授かる。けれど、闇見くらみは其処で途切れて仕舞う。

 そしてもう一人の兄、時記ときふさの顔が断片的に浮かんでは消える。八反目と母を同じくする時記にも、大王に仕えると云う兆しが見えるのだ。

「亜耶、考え過ぎないで。綿津見神様わたつみのかみさまに任せれば大丈夫」

「…こうなる事が、分かって居たの?」

「さあね」

 綾が言葉を濁すのは、肯定の合図。其れは幼くから分かって居た。

「澪を、傷付けたわ…」

「珍しいね、そんなに誰かに入れ込むなんて。どんなだか、僕も早く会いたいな」

 明日の宴まで待てないよ、と綾は無邪気に言う。肉を食らう時以外は割と無表情な綾だが、目が輝いて居る処を見ると本当に早く会いたいのだろう。

「明日、みそぎを終えたら連れて来るわ…」

「待ってるよ。じゃあ明日の禊ぎの前に、亜耶には遣る事が有るでしょ?」

 す、と衣ののうを指さして、綾が言う。もっと着飾る事。そう云われて、亜耶はやっと耳飾りの事を思い出した。罪悪感で忘れて居たのだ。

 付けるのは良いのだが、もう直ぐ膿み易い季節に成る。明日の宴の前に氷室に行って、氷を取ってくるべきか。

「着けて上げる」

 遠慮無く囊に手を入れた綾が、耳飾りを摘まみ出した。冷んやりとした綾の手が、亜耶の耳に触れる。

「凍て付かせる。我慢して」

 徐々に耳朶の感覚が無くなり、耳飾りのしゃらん、と云う音が耳元で聞こえ出した。

「綾…凍て付くって、いつまで?」

「傷が塞がるまで。膿まない様にね」

「…有り難う」

 亜耶の気を逸らす為に、こうして呉れたのだ。其れが分かって居て、礼を言ったのに。

「此れで、氷室に行かなくて済むでしょ?」

 まるで方向が外れた返答が、神の御遣いからは反って来た。




 玉石たまいしとは、出会いの儀が有る。昔、綾が教えて呉れた事だ。清水で浄めて心の拍を合わせるのだと。

 だから、禊の前だったのだ。澪にも、明日の禊の折りに簪を持たせなければ。

 禊に使う泉には、神山から邑に流れる川と同じ澄んだ水が湧いている。元々川底だったのか玉石も沢山落ちているし、澪の気も晴れるだろう。

「ねえ、澪は柘榴石が好きなの。何かお下がりは無い?」

「其れは、明日のお楽しみ」

「禊の後でも良いの?」

 笑って肯いた綾の事だ、浄めて置いて呉れるのだろう。綾には嫉妬もするが、同時に信頼も寄せて居る。任せて置けば大丈夫。先程の綾の言葉を、口の中で転がした。

「おい、もう明かり落とすぞ」

 不意に不機嫌そうな大龍彦おおつちひこの声がして、白波の髪が現れた。毎日の如くぶっきらぼうな物言いに、亜耶の心が淡く揺れる。

「…飾ったのか、耳」

「うん…派手?」

「髪型で良く見えねえ。綾みたいに、髪結って遣ろうか?」

 そう云えば綾は、いつも綺麗な蝶髷ちょうまげを結って居る。つまに結わせて居たのか。少し妬ましい、けれど申し出は嬉しい。久し振りに大龍彦に触れられる。そう思って心が躍った。細い櫛を持って、大龍彦が亜耶の肩に触れた、其の時。

 ぱちん。

「痛ぇっ!」

「え…?」

「大龍彦…?」

 弾いた、確かに。勾玉に弾かれたのだ、只人ならざる大龍彦が。只人に比べれば遙かに被害は小さいが、大龍彦は今まで弾かれた事など一度も無かった。

「嘘、でしょ…?」

 哀しくて、亜耶は呟いた。けれど、花のかんばせを蒼白にしていちばん驚いて居たのは、綾だった。



 眠れぬ夜を越えたと思ったが、いつの間にか睡魔は訪れていたらしい。朝の光で目覚めた亜耶は、先ず明かり取りの大窓に使い古された帆布を掛けた。夜、大蛇おろとを呼ぶ為だ。

 大龍彦おおつちひこに触れられなかった事は未だ哀しく、心を刺す。大蛇は、どうなのか。其れが気になって、昨夜は寝入れ無かった。

 耳に残ったみおの嗚咽も、亜耶を眠れなくさせた要因では有る。けれど神殿かむどのから戻った時には、もう澪は笑って居た。亜耶は、直視出来なかったが。

「亜耶さま!」

 布連の向こうから呼ぶのは、其の澪だ。待ち切れず、迎えに来たのだろう。禊に連れて行って遣ると言ったら、いたく喜んで居たから。布連を細く開けると、泉への期待に目を輝かせた澪が簪を手に待って居た。其の手首には、昨夜強く掴まれた痕が、色濃く残っている。

「亜耶さま、眠れましたか?」

「…え?」

「夕べ、酷い顔色で在られましたから」

 気にする事など何も無いのですよ、と澪が笑う。嬉しい限りだが、顔色が悪かったのは其の為だけでは無い。ばつの悪い思いを隠して、亜耶は心配無い、と答えた。

「亜耶さま、泉には玉石たまいしが沢山在るのでしょう?」

「ええ。柘榴石の原石は踏むと痛いから、気を付けて」

 西の川からは、黄金こがねは出るが玉石は出ないと云う。後で、神殿とむらを隔てる川にも連れて行って遣らねば、と亜耶は禊衣みそぎぬに着替え乍ら思った。

「亜耶さま、私、昨夜八反目やためさまともお話しししたのです」

「…いつ?」

「亜耶さまが、神殿に行っている間に」

 私、あの方が好もしいです。澪は、無理をすると云う風でも無くそう言った。布連を分けて共用の板張り廊下に出ると、澪は間違いなく頬を上気させて笑って居る。

「分を、知らない人よ?」

「多分其れは、亜耶さまにだけです。亜耶さまの選んだいもなら必ず守ると仰有いました」

 其れに真耶佳さまとは、きちんと話が通じて居ましたから。何でも無くそう言われて仕舞うと、そう云えば亜耶は八反目と対話する気など最初から無かった様に思われた。

「澪が…幸せなら、其れだけで良いのだけど」

「幸せです。きっと、亜耶さまがご心配下さる以上に」

 鼻歌でも歌い出しそうな澪と、御館みたちきざはしを降りる。澪の手の中でちりちりと音を立てる柘榴石は、きっとこの子の一生の宝に成る。

 ふと見えた未来に、亜耶は顔を綻ばせた。




 泉に着いた途端、澪は歓喜の声を上げた。あおい水に沈む玉石が、思った以上に色取り取りで澪の常識の中には無い光景だったらしい。

「泉の底なんて、良くて白砂が吹き上げている程度だと思って居りました…!」

 本題を忘れて仕舞いそうな澪に少し可笑しく成り乍ら、亜耶が膝ほどまで泉に浸かって先導する。

「澪、私の後を付いてきてね」

「は…はいっ!」

 清浄な泉の中で足に纏わり付く裳は、さらさらとして気持ちが良い。腹の辺りまで水に浸かると少々肌寒いが、澪に簪を清水に潜らせる様促す。

 澪は真面目な顔で、潜らせた簪の柘榴石の部分を、心の臓に押し当てた。

 その間に亜耶は、自分の長い髪を避けつつ耳飾りを清水に潜らせる。どちらの耳飾りも、一度の呼び掛けでとくん、と心の拍が合った。其れを両耳とも終わらせたら、ぐっしょりと肩や背中まで濡れて仕舞った。

 澪は驚いて居たが、どうせ今日は髪も結うし、綾が何とかしてくれるだろう。ならば序でだ、と綾は泉に潜る。

「亜耶さま!?」

 足下の玉石を少し分けると、ほら、在った。

「此れが、柘榴石の原石。岩の中に柘榴の実の様に現れるの」

 濡れて仕舞った前髪を掻き上げながら、亜耶は澪の手の上にころん、と不格好な形の石を置いた。澪は早速赤い部分を日に透かして、きれい、と呟く。

「神殿の近くの川の方が、山奥からの流れが有る分きっと沢山見つかるわ。さ、行きましょ」

 神殿と聞いて緊張感を取り戻した澪が、はい、と頷いた。

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