サンタマリア
DVDファレン
月夜と花と
何百年も空を覆っていた蝗害がようやく過ぎ去ったので、私は久しぶりに夜空をスケッチすることにした。
床に散乱する使い古したスケッチブックを拾い、パラパラと捲って空いているページを探す。
画材でごった返す部屋だが、私には色々と都合が良い。
適当なページを認めて、床に転がっていた三色ボールペンの青色で手の甲にハートマークを描いてインクが出ることを確認してそのページに挟んだ。
窓越しではもったいないだろう。外へ持っていきたい。
ところで正直なところ、画材はなんでもよかった。
最低限の色数と、とにかくインクが遅滞なく出ること。インクが私の血を、筆跡が私の心音を、筆圧が私の脈動を伝えることが優先された。
往々にして画材の価値とはそれで決まる。
アトリエをひっくり返す程度の時間でこの熱が冷めるとはとても思えないが、むしろ私の脳が灼かれてしまう前に完成させなければならない。
二本百十円なら、それに応えるのに十分だろう。
落ちなくなった絵の具でファンシーな色合いに仕上がった木の椅子にスケッチブックを載せて、えっちらおっちら真鍮のドアノブを回す。
アトリエは木組みで、私の手作りだった。苗木から育てて、伐って、組み上げた。
小高い丘の上に立つ私のアトリエは、本来とても見晴らしが良い。
小柄な私が見上げても、夜空は近くて怖いくらいで。
淡い霧雨に渦を巻く天蓋には、もう名前もわからなくなった星々と、厚ぼったい三日月、それに伴う月輪が浮かんでいる。
整っているとは言い難い情景だが、それは紛うことなき本物だった。
乾いた夜風が肌を撫でる。作業着代わりの紺碧のカーディガンを緩めて、二の腕にひっかけた。
ひたひたと、石畳の小道を歩いていく。
この丘を、私は庭園として手を加えていた。
歩道を毛細血管の様に張り巡らせ、その路肩には色とりどりの花を植えた。
今の時期ならアガパンサス、キルタンサス、そしてガランサス。
ほんのりと香るのは月桂樹だろうか。銀木犀にはまだ早い。
道から外れればオリーブやイチジクの畑が広がっている。材木にするためのオークやモミ、白樺もまた育ってきた。
もう少し麓にはぶどう畑を作るつもりだ。葡萄酒を作るならコルクを育てても面白いかもしれない。
たしか、ハーブ畑の子たちもそろそろ収穫の時期だったか。それが一段落したら……。
玄関灯の灯りが届かなくなるまで進むことにして、一本の仙人掌の下にたどり着く。
ここがいいだろう。
木組みの椅子をそこに置いて、腰を据える。
私は衝動に身を任せてペンを握った。
蝗害――人々はあの災害をそう呼んだ。実際のところは、直翅目の相変異というよりアストラルの相転移のようなものなのだが――は、大地から文明や生活と言った都市を剥がした。海は死んでいた。それは赤く染まって、ひどく苦くなって、蝗の翅や肢が揺蕩っていた。そして空は殺された。
言ってしまえば、天使がラッパを吹いたようだった。
蝗害は人を食らったが私には興味を示さず、私が閉じこもったこの丘にも寄り付かなかった。
ここが無事だったのは、もはや私が人と見なされなかったからだろう。
実際、私にとって重要なのは私の心象のすべてを記録しておくことであり、私には人である蓋然性がなかった。
その蝗が消えたのが、夕暮れのことだ。
彼らは、焼けて死んだ。火は王城から上がり、すべてを焼いてしまった。
大地には退屈な砂漠だけを残して、海には潮騒だけを残して、そして純粋な星月夜だけを残した。
なぜとかどうやってとかは私には関係ない。私は、私が美しいと感じたものを表現するだけなのだから。
良い人間というのは、頭の中に羊を飼っている。その姿はまちまちだが、私のそれは草も食まずにただペンを咥えていた。
「――おっと」
指が痺れて、その隙間からペンがこぼれ落ちたので、私は体勢を崩して椅子から地面へ転がり落ちた。
何が起きたのかはなんとなくわかったが、当然、身体は思うように動かない。
なんとか起き上がって、スケッチブックを拾い上げる。幸い大した汚れは付いていなかった。
嫌に澄んだ青の、筆圧と濃淡で表現された夜空の数々を見つめると、自分でも意外なほどの満足感があった。
やはり、夜空は青くあるべきである。
「そういえば、そろそろ切るかぁ」
一度集中力が切れていまうと、髪の毛が気になってくる。
腰ぐらいまで伸びてしまっただろうか。前髪も、視界にちらちらと薄紫色の反射光が覗いて鬱陶しい。
ハサミはアトリエのどこかに転がっていた気がするが、とりあえず伸ばしっぱなしにしていたそれを、ポケットにあった適当な目玉クリップで固定する。
「これで、よし」
満足して作業に戻ろうと、手首を揺らして痺れを慣らす。効果の程はわからないが、少し血が通う気がするのだ。
その時、麓の方からたどたどしい口笛と共に重たい足音が鳴った。
客人だろうか、珍しい。
気になってしまったので、スケッチブックを座面に置いて音のなる方へ向かう。
数歩も歩けば、音の主の方がこちらに気がついて手を振るのが見えた。
「久方振りだね、向日葵」
どこか幼い艶のある女の声が私の名を呼ぶ。
そして、その声には聞き覚えがあった。
「王様か」
月明かりが声の主の女を照らす。私ほどではないが小柄な少女が姿を表した。
この俗世界の王は灰色のワンピースと黒いボレロで着飾っていて、一本に束ねた深緑の癖毛が、糸杉を連想させた。
銀色の瞳は、私の視線を反射し、心の内を覗かせない。
王様というよりは、啓示を携えた天使のように思える。
蝗害を滅ぼした英雄様が、早速凱旋といったところだろうか。
殊勝なことだ。
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