赤い円

@neko_maru17

第一章:トンネルの向こう

1. 異物


野間航(のま・わたる)が最初にそれを見たのは、市役所に勤め始めて三週間目の朝だった。


七時二十六分発のローカル線。いつもの車両、いつもの座席。金剛山トンネルを抜けると、車窓の左手に矢上川が広がる。陽光を反射する川面の向こうには、なだらかな山裾に張り付くように住宅地が続いている。


見慣れた景色だった。

だが、その日は違った。


山の中腹に、赤い円があった。


航は息を呑んだ。


直径は—目測で二十メートルほどか。住宅地のプール程度の大きさ。だが、その色彩は周囲の風景から完全に浮き上がっていた。太陽光を吸い込むような、深く鮮烈な赤。建物でも貯水槽でもない。巨大なキャンバスに描かれた円のような、あまりにも人工的な構造物。


航は慌ててスマートフォンを取り出し、シャッターを切った。電車がカーブに差し掛かり、赤い円は山並みの向こうへ消えた。


翌日も、それはあった。

その翌日も。


最初は変わった看板か、誰かのオブジェだと思った。気に留めなかった。

だが、二ヶ月が過ぎた頃から、違和感が膨らみ始めた。


あれは風景に馴染まない。まるで、CGで無理やり合成されたように、そこだけが異物として存在している。


昼休み。航は隣の席の木下に声をかけた。

「木下さん、トンネル抜けた先の山、ありますよね」

「ん?ああ、日野見のあたりか」

「あそこの中腹に、赤い丸いやつがあるの、知ってます?」

木下は熱々のうどんを啜りながら、きょとんとした顔をした。

「赤い丸?何それ」

「すごく目立つんですよ。直径二十メートルくらいの、真っ赤な円形の—」

「いや、マジで心当たりないな」木下は首を傾げた。「お前、疲れてるんじゃないか?あの辺にそんな変なもんあったら、絶対誰か話題にしてるって」


航はスマートフォンに視線を落とした。

写真には、確かに赤い円が写っている。

だが、見せるのをためらった。


昨夜、Googleマップでその一帯を確認した。画面には緑の山肌と住宅地が広がるだけで、赤い円の痕跡は微塵もなかった。

自分にしか見えていない。

地図にも載っていない。


だが、航の網膜には毎朝、鮮烈な赤が焼き付いている。


2. 空白


その日、航は日野見ニュータウンに来ていた。


老朽化した水道管の調査。土木課の業務だ。午後の作業を終え、腕時計を確認する。帰りの電車まで、まだ一時間ある。

航はカバンを握りしめた。


「行こう」


赤い円が見える場所。あの山の中腹へ。


住宅地の舗装路は途中で終わり、急な坂道と雑草の獣道になった。スラックスの裾が泥だらけになるのも構わず、航は登り続けた。


息が切れた頃、視界が開けた。

不自然に木々が伐採された、平坦な空間。足元にはコンクリートの基礎がいくつか埋まっている。建設が途中で頓挫したか、何かが解体された跡だ。

航は立ち止まり、ゆっくりと周囲を見渡した。


ない。


雑木林と、打ち捨てられた資材の残骸。遠くの市街地を見下ろす絶景。

それだけだった。

車窓から見えていた、巨大で鮮烈な赤い円は、影も形もない。


「まさか……」


航はスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。ここからなら、通勤電車が通る線路のカーブが一望できる。木々の配置、視線の高さ。計算は間違っていない。あの構造物は、確かにこの場所に見えていたはずだ。


もし存在していれば、今、目の前に立ちはだかっているはずだった。

だが、あるのは土と草と、夕暮れに染まり始めた空だけ。

冷たいものが全身を這い上がった。


自分にしか見えていない。しかも、電車に乗っているときだけ。

木下の言葉、Googleマップの空白、そして今、目の前の「何もない」現実。


「幻覚……なのか?」


もしそうなら、自分は病んでいる。毎朝、同じ場所に巨大な幻影を見ている。


その事実は、幽霊を見るよりも、よほど現実的な恐怖だった。


冷たい汗が背中を伝った。深呼吸をしたが、吐き出した息が震えていた。


翌朝。

七時二十六分発の電車。金剛山トンネルを抜ける。


航の心臓が凍り付いた。


矢上川の向こう、日野見ニュータウンの山の中腹。


赤い円は、昨日の出来事など最初からなかったかのように、今日もそこに鎮座していた。

鮮やかな深紅。変わらず風景から浮き上がり、航だけに見せつけるように。

航は深く息を吐き、決断した。


「幻覚なんかじゃない」


自分は市役所の職員だ。この街の土地、開発、建築—すべてを記録した部署が、すぐそこにある。


誰も見ていないもの。だが、確かに存在する(ように見える)もの。

その謎を解くことが、自分自身の正気を証明することになる。


航はまず、土木課の資料から調査を始めることにした。

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