山の麓での修行の日々

朝焼けが山肌を照らし、森がゆっくりと目を覚ます。

 冷たい風が頬を撫で、草の露が光の粒のように輝いていた。

 その中を、勇気は息を切らしながら走っていた。

 足元の土はまだ冷たく、靴底を通して大地のざらつきが伝わる。

 息が白く散って、胸の中が痛い。

 だが、その痛みが――生きている証のように思えた。

「おっはよぉ〜ん♡ ゆう坊〜っ!」

 背後から、やけに明るく伸びやかな声が響いた。

 ドスン! と肩に重みがのしかかる。

 勇気がよろけて振り向くと――そこには筋肉の暴力が立っていた。

 朝日を背にしたマッチョル。

 上半身裸、胸筋が朝露を反射してキラッキラに輝いている。

 笑顔は太陽より眩しく、目が痛い。

「ま、マッチョルさん……朝、早いですね……」

「アタシの筋肉ちゃんがねぇ、“おはよう”って囁いたのよ♡ もう寝てらんないわ〜!」

 勇気の頭の上でコン太がため息をつく。

「お前、よく付き合うなぁ……朝から濃いんだよこの人」

「ちょっとぉ! “この人”じゃなくて“マッチョル姐さん”でしょ♡」

 マッチョルがクネッと腰をひねりながら胸筋を揺らした。

 どこからともなく“パァン”という効果音が聞こえた気がする。

「は、はい……マッチョル姐さん」

「よろしいッ♡ 筋肉の世界にも礼儀があるのよぉ〜ん」

 修行は――地獄だった。

 朝は山を走り、昼は斜面を登り、夜は瞑想。

 でも、ただの体力トレーニングじゃない。

 マッチョル流“筋肉と魂の融合修行”だった。

 ある朝、勇気がふらふらになりながら尋ねる。

「マッチョル姐さん、これ……何の意味があるんですか……? ただ走ってるだけじゃ……」

「んまぁ〜っ!!」

 マッチョルは片手で木を叩き、バッキリ折った。

「走るだけ、ですってぇ!? あなたぁ、それは筋肉に対する冒涜よッ♡!」

 マッチョルの目がギラギラ光る。

「走るってのはねぇ、“命のリズム”なの! 風を感じ、土を踏みしめ、筋肉ちゃんと大地が恋する時間なのよぉ〜!」

「……えっと、恋?」

「そっ♡ 土の鼓動を感じてごらんなさい。あなたの足が“生きてる”って教えてくれるわぁ♡」

 勇気は呆れながらも、言われた通りに目を閉じた。

 風が肌を撫で、地面が体を押し返す感触。

 確かに、何かが伝わってくる。

「……あ。生きてる、かも」

「そうっ♡! それよ! 筋肉ちゃんは正直なの。感じることを恐れない。それが“強さ”の第一歩♡」

 昼。滝壺のそばで休憩を取る。

 マッチョルは、木の枝に逆立ちしていた。

「マッチョル姐さん、それ何してるんですか……?」

「血流逆転ストレッチよぉ♡ 筋肉ちゃんの世界をひっくり返すのっ!」

 逆さまのまま笑うマッチョルを見ながら、勇気は滝の水をすくって顔を洗った。

 冷たくて、気持ちいい。

 コン太が尻尾で水を叩きながら言う。

「お前、ちょっと顔変わってきたな」

「え?」

「最初の頃より、目が死んでない」

 勇気は笑った。

「うん……マッチョル姐さん見てると、なんか生きてる感じがする」

「当たり前じゃないの♡ アタシ、生き様が筋肉だもの!」

 マッチョルは逆立ちのままポーズを決める。

「怖がってもいいのよ。筋肉だって時々プルプル震えるんだから♡」

 夕暮れ。空はオレンジに染まり、焚き火の火が小さく揺れる。

 マッチョルが薪をくべながら、静かに口を開いた。

「ねぇ、ゆう坊」

「はい?」

「怖い時って、心がギュッと縮こまるでしょ? あれね、筋肉も同じなのよ」

 マッチョルは胸に手を当てて続ける。

「怖れを否定しちゃダメ。抱きしめるの。『怖いけど進む』って、それが本当の勇気よ。筋肉だって、縮んで伸びるからこそ力になるの」

 勇気は焚き火を見つめた。

 火が、風に揺れるたびに形を変える。

 燃え尽きそうで、でも消えない。

 その光を見つめながら、勇気の中で何かが少しずつ動き始めていた。

 夜。星が降るような空の下で、勇気は寝転びながら思った。

 ――臆病でも、進んでいいんだ。

 コン太が丸まって眠り、マッチョルのいびきが山に響く。

 それは妙に安心できる音だった。

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