影-7

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三か月が経った。国政には相変わらず興味を示せないまま。相変わらず無駄に広い家から引っ越さないまま。相変わらず社長からの連絡は編集作業以外来ないまま。この世に存在しているかあやふやなまま。

タブーが侵されてからネットの記事でさえ見るのに体力を使うようになった。神様の影が話題になっていれば見たくないし、そのタイトルでさえ見たら神経が磨り減る。どこかの誰かが死んだせいで。それをどこかの誰かが利用したせいで。それをどこかの誰かが暴いたせいで。それをどこかの誰かが面白おかしく書いたせいで。それをどこかの誰かが好き勝手吹聴して回ったせいで。

実はあの俳優。見ちゃったんだよね。街中で。めっちゃ影すごかったんだよね。

実はあの政治家。見ちゃったんだよね。ゴルフコンペのキャリーの時。雨雲か、って思ったくらい。

暴露の嵐だった。うかつに外も出られやしない。顔を出していなくて本当によかった、と思った。声が特殊じゃなくて本当によかった、と思った。

ミス・ハイマーについてはネットの中では盛り上がりを見せているが、雑誌や、物理的な媒体があるものでは見かけないように思えた。一応知り合いだし、ヒヤヒヤさせられる回数は少なければ少ないほどいい。その程度の認識で留めておいた。首は突っ込まないにすぎる。

一日に一回は『Bang 影』で調べるが今のところ、目立つような投稿はない。休止の話題はもう掘り返されることも少なくなったし、切り抜きの投稿頻度もだいぶ落ちてきた。悲しいと思うこともないくらいに俯瞰していた。

でも弟、みたいな。兄が忘れられてしまっていて。例えば手を上げたんだけど相手は兄のことを覚えていなくて、俺はそれを傍らで見ている、みたいな。一人だったら何とか収拾をつけられるのに誰かに見られているせいで、かっこよく回収しなきゃ、と気張っている。

ピンポーン

宅配便か?

腰を上げて気づいた。これは下のオートロックの方を訪ねてきた人間からの音じゃない。玄関からの音だ。要するにこのマンション内で関わりがある人間か、ここに俺が住んでいると知っていて、オートロックを潜り抜けた人間。前者は存在しない。中々に高級なマンションということもあってお互いに関わろうとしない。引っ越しの挨拶きりだ。引っ越し作業をしているような音だって聞こえない。

警戒すべき相手がドアの外にいることに間違いはない。中にいることに気付かれないように静かに体を動かした。そしてモニターの前に立った。

「じっ、じいちゃん…?」

『よう、来たぞ』

「オートロック、え、なんで?」

『合鍵渡してたの忘れたか?あまりにも訪ねてこないからそりゃあ忘れるわな』

祖母は俺が家を出るタイミングで亡くなった。もうそろそろ十年になる。親同然に慕っている祖父の葬式での泣きっぷりがまるで獣で壊れてしまうんじゃないか、と心配になったものだ。それもあって鍵を渡していたことを思い出した。

じいちゃんももう若くない。当然の話だけど。一人で心細いと思ったらいつでも訪ねてきてくれていいし、俺がいなかったとしてこの家に入っていい、と言っていたことも全部一気に思い出した。

「急いで開けるね!」

『おう』

警戒していた自分が馬鹿みたいだ、と顔が火照るのを感じる。

「じいちゃん、久しぶり。そのまま鍵で中はいればよかったのに」

「それは流石に怖いだろ。連絡するの忘れてたって下に行って気づいたんだよ。下で鳴らしてもよかったんだが驚かせたい、と思ってな。実際お前驚いてただろ」

「鍵渡してたことすっかり忘れてた。そうだよね、渡してたよね」

「来ちゃまずかったか?女でも連れ込んでるのか?」

「違うよ!」

「いい関係の人、一人もいないのか!もうお前も三十だろ」

「じいちゃんのこの説教だけは慣れないんだよなあ…」

説教というか、心配というか。孫の成長を心配するのは祖父として、保護者として当然の話だろう。でも理由が理由で人とふれあってこない。それを口に出すのは何となくはばかられるし、とじいちゃんのコートをもらい受けながら心でも、表でも苦笑いをする。

「広い家だな。急に休んだ時は心配したぞ。こっちから連絡してもいいものか、と悩んでな。それで連絡もしなかった。すまんな」

「あ、いやいや。全然。俺の方こそ、心配かけたよね。ネットであんな風に言っておきながらじいちゃんに何も言わない、ってさ。心配かけるよね」

「心配だったが今まで口を出してこなかったのに急に口を出されても気分悪いだろ。ほら、お土産」

紙袋の中にタッパーが大量に入っていた。一番上のクリアな蓋の中には肉じゃがらしきものが入っていた。

「分けて食えよ。冷凍できるのもあるから」

「マジで嬉しい…ありがとう。大事に食うわ」

「そうしろ」

冷蔵庫に詰めながらじいちゃんに出すお茶を用意していた。

急な訪問理由を聞こうと思ったけどどう切り出していいものか。じいちゃんは意味のないことをしない人だ。じいちゃんなりに考えていることがあるんだろうし、俺から口火を切るのはどことなく躊躇いがあった。

空っぽな冷蔵庫に詰めるのは幼児向けのピースが大きいパズルくらい簡単なのに時間をかけた。

「今日来たのはな」

「うん」

お茶を目の前に置いた瞬間に話が始まった。

「ワシのところに記者が来たんだ」

「記者?」

「あぁ。子供の頃で覚えていないかもしれないが、お前が我が家に来てすぐ、お前の影を記事したい、と訪ねてきた記者がいた」

「覚えてるよ。じいちゃんが追い返してくれたよね」

「覚えてたか。母さんが死んだことは知らなかったようだが、ワシらも年を取ったし、お前と同居しているんじゃないか、と踏んで来たようだ。家を変えていなかったのが裏目に出たな」

「ばあちゃんとの大切な家だし、俺のためにわざわざ引っ越すなんてしなくていいよ。じいちゃんが、その記者追い払いたいなら別だけど…」

自分のせいで。大切な家を捨てなければいけないかもしれない事態に直面している。罪悪感に駆られた。顔を上げられずに、それでもじいちゃんの表情が気になって薄く目線を上げてみるとじいちゃんは微笑んでいた。

「引っ越したりなんてしてやるものか。母さんとの大事な場所だからな。ワシのことはいいんだ。お前のことだよ。お前を嗅ぎまわっているんだ。深三のタヌキの件もあったし、蒸し返そうとしているのかもしれない。過去の事件のまとめ記事を作りたいと言っていた」

「拝金主義め…」

「全くだ。万が一のこと考えて行動しろ。まずない、とは思うがお前の仕事のことももしかしたら掴んでいるのかもしれない」

「分かった。ごめんね、変な心配かけて」

「心配するのも生きている間にしか出来ないからな」

正座を崩して、最近起きたことについて話し始めた。ハイマーが社長で在ることは言わなかったけど、あのコラボは俺も関わっているのだ、と。俺が正しいと思うことをすればいい、といつものように言ってくれて、それは今日も変わっていなかった。そう言ってもらえたことに安心した。

「ネットの方、顔を出していないのは英断だと思い続けているが、今回は本当に助かったことだろう。これからもがんばれよ。お前の過去の動画でしのいでいるから」

「うん、なるべく早く調子戻すよ」

「ちょっとだけ無理しろ」

「無理するな、とは言わないんだ」

「言われたくないだろ?」

「まあね」

なんでもお見通しのようだ。

「そうだ、渡し忘れていた。これ、名刺のコピーだ。この会社、この人物、この電話番号、メールアドレスを頭に入れて注意しなさい」

「分かった。ありがとう」

エントランスに誰かいると悪い、と言われて無理やり玄関の扉を閉められた。Bangであることを知られていなくても影はあってくれてしまう。ただでさえ必要以上に好奇の視線を集めるのに、影の話題に敏感になっている現在ではヒソヒソ話じゃすまないかもしれない。

俺であると気付いていなかったとしてよく分からない記者に追いかけられるかもしれない。

もらった名刺のコピーを眺める。無駄にデカいA4サイズの紙の隅っこにちょこんとある個人情報。人生を狂わせて来るかもしれない人物、と思うと身震いした。そういう時にやっぱり無性に人の声が恋しくなる。

じいちゃんと話した後だからだろうか。こんな記者でも電話がかかってきたら嬉しいと思えるだろうか。地獄への道は善意で舗装されているとはよく言ったものかもしれない。綺麗に見えるから歩きたくもなるけれど、楽に歩くことが出来る道は総じていいことが待ち受けていない。

気合を入れるため頬を叩いた。戦いに行くわけでもないのに。この家の中にいればとりあえずは安全なのに。

飲み干されたコップが置かれたローテーブルに近づいた。じいちゃんが座っていたところがくぼんでいる。俺がその横に座るとそのしわは一気に引き延ばされて跡形もなくなった。

最近涙脆くて困る。熱くなりかけた目頭が急な着信で一気に醒めた。電話番号を見る。文字が表示されていて知り合いってことか、と安心する。

「もしもし、社長?」

『研究所から新たに研究結果が公表された。僕の口から言うのでもいいが、自分で確認した方がいい』

「確認って…別に、知りたくない。どうせ、今日明日で世界は変わらないから」

『そうだとして。確実に前進ではあると思うから』

「それで何となく答え分かったけど」

『いいから見ろ』

渋々パソコンを立ち上げた。野次馬性の高い民放、それともSNSの方がいいか?ネットニュースもどうせそれ一色になっているだろうし、どれで観ようか。

「どこの媒体がおすすめ?」

『国営放送がいい。正確で、素早い情報展開だ』

「分かった。それを見てみる」

パソコンから目を離してテレビを点けた。チャンネルを選択するとまさにやっていた。

「えー、繰り返します。長年の研究により、神様の影は実力、潜在能力、心身の疾患、遺伝など、そういったものとは一切の関係がないことが判明いたしました。科学式で証明できるようなものではなく、研究を開始した時から変わらぬ手法を使い調べました。血液検査や、遺伝子工学なども用いましたが証拠となることはなく、因果関係における法則性が皆無である、と証明することを目標に研究を続けました。戦後八十年間で生後七日以内から、亡くなられて七日になるまでの男女合わせて一億三千万人を調査したところ、何の法則性もありませんでした。よって、神様の影とその保有者に何の因果関係がないことが証明されたものとします」

喉がカラカラに渇いていく。どうせ世界は偏見にまみれたまま、と俺は今さき吐き捨てた。でも今この体に起こっている変化がまるでこの世界に期待しているようで。そのちぐはぐさに吐き気がした。

『Bang?大丈夫か?』

「あ、えぇ…あ、うん…切るわ。ちゃんと、見たい。教えてくれてありがとう」

『いや、いいんだよ。君が苦しんできたのは見てきているからね。この世が変わるきっかけになると僕は信じているよ』

「そう、だな。そう、だよな」

きっと変わってくれる。

パソコンを見るためにダイニングテーブルに移動したが、ローテーブルの方に戻った。テレビをより近くで見るためだ。全ての言葉を聞き逃さないようにするためだ。

なんだか偉そうな立場に立っていそうな男の人が出てきた。研究所の所長らしい。

「多くの人が影があることを引け目に思い、偏見や、心無い言葉に苦しんできました。三か月前には私達の研究所も一因となり世間を騒がせ、陰のある人にさらに肩身が狭い思いをさせてしまったことと思います。

綺麗事を言えるだけの歴史でもなかった…私達の研究は完全ではありません。法則がないことが現時点でそう判断できる、というだけで未来永劫そうある保証ではありません。この研究結果は覆るかもしれません。

生まれたての赤ん坊、果ては亡くなられた方。病気を持っている方、健康な方。サラリーマン、学生、スポーツ選手。たくさんの影がある方に協力をしていただきました。お話を聞く中でその中の大半の方が傷ついた経験があるとお話をしてくれました。私達のこの発表はもういいじゃないか、と。もう十分に傷つけて来たじゃないか、と言うものかもしれません。

生まれただけでどうして傷つけられなければいけないのか。どうして親にさえ愛してもらえないのか。どうして友人が出来ないのか。どうして就職に不利なのか。

影を持つかどうかは、男として生まれる、女として生まれる、日本に生まれる、アメリカに生まれる、誰の下に生まれる、それらを選べないように選べずに与えられるものです。どうしてそれを人となりまでを判断できましょうか」

おじさんは顔を下に向けた。でもすぐに真っすぐに前を向いた。大量のカメラがフラッシュを焚くせいで涙が目立って目立ってしょうがない。持っているハンカチはもうすでにビタビタなんじゃないか。顔を何度も拭って、目の下を、目の周りが赤くなるまで擦っている。

どうして俺は、この期に及んでお涙頂戴かよ、なんて思っているのだろう。どうして素直に喜べないのだろう。

あぁ、この世界はちゃんと変わっていたんだ。でも、被害者側が傷つけられてきたんだけど?って。代償が割に合わなくない?って声を上げていたのか。

今更世界が変わってくれても。世界が俺や他の影がある人を見る目が変わったとして。俺は今まで傷つけられてきた。

真っすぐに前を向くのが怖くなるくらいには傷つけられてきた。

ウケるー、だとか。ヤバーい、だとか。何に対してか分からない、プラス、マイナスどちらにも取れるような言葉の矛がこちらを向いているんじゃないか、と気にして精神を消耗してきた。

どうして生まれてきてしまったんだろう、と何度も思わされてきた。

誰にも謝られていないんだけど。

誰も俺を訪ねてこないんだけど。

リモコンを握り締めた。おじさんはまだ話を続けている。

誰もごめん、の一言さえ俺に言ってきていないんだけど。連絡先消したから無理か。でも、俺を探し出してでも謝るべきじゃないの?傷つけたよね。傷つけるような行為は今明らかになったよね。

影があるっていう理由でその人を判断した。偏見をぶつけた。心無い言葉を吐いた。それをしないで、ということはそれは避けるべき行動、ということだ。行ったってことは、それを向けられた人は避けるべき行動を行われた、ということ。どうして避けるべき、とされるのかは明白だ。傷を得るからだ。

つまり、俺たちは傷を得たってことになる。それをした。避けるべき行動をした。人を傷つけるようなことをした。そんな自覚もない人間が、これからそれをしなくなって、いい人って見られ方をするなんて耐えられない。

許せない。許したくない。

握ったリモコンをローテーブルに振り下ろした。大きな音を立てて砕け散った。限界が来て割れるより先に手がものすごい速度でリモコンの上の方にスライドしてしまったようでやけどをした。テレビが消せなくなってしまった。まだ何かを喋り続けているおじさんがうるさい。

テレビが置かれている台を乱暴に動かしたらテレビが前に倒れた。音がまだ放たれているかはどうでもいい。普通のコンセントの差込口とは違う、丸っぽい形をしているところの線を全部まとめて一気に引っこ抜いた。やけどしたところに線がこすれて痛かった。

「はぁ…っはぁ、はぁ…はぁっ、はぁ…」

肩で呼吸をする。鼻から音を立てて吸った息が、口から台風を起こせそうな勢いで吐き出されていく。

ケーブルの類を離して地面に散らばせて、ダイニングテーブルへ向かう。パソコンを掴んで壁に投げつける。角部屋だから隣人のいない方へ。思いっきり。

固定電話を引っ掴んで電話線が千切れるのも気にしないで床に叩きつけた。下の階は一か月前に引っ越している。まだ入居者は決まっていない。

シュレッダー待ちはがきやらなにやら書類の個人情報が書かれた紙のタワー蹴り飛ばした。

リビングダイニングを出て、編集作業をするための部屋に行く。カメラを棚から引っ張り出して床に落としていく。いくつか頭に当たって痛かったけど機材類を全て壊したかった。床に落ちただけじゃ外撮影用の強度が計算されたカメラは壊れない、と思ったので椅子を振り下ろした。キャスターが外れた。

綺麗に整理して保存されている過去動画や、素材が入っているSDカードケースを持ってキッチンへ戻る。五つほどのケースの中にしまわれていた。フライパンを火にかけてその上に二箱分をぶちまけた。茹で地獄を体験させてやろうと思って水も乱暴に突っ込んだら火が消えたのでもう一度点け直した。

耐熱皿かどうか分からないけど皿を引っ張り出してその中に残りのSDを入れて電子レンジの中に放り込んだ。お任せボタンを押して加熱スタート。

風呂場へ行き、シャンプーとリンスの蓋を外して右手左手に構えて逆さにした。ボディソープも同じように蓋を開けて逆さまにして全てを出し切った。

そのままの服装は気持ち悪かったので服を脱いで、珪藻土マットにほうり投げた。横にある洗濯機を蹴り飛ばした。痛すぎて床に崩れ落ちて悶絶した。下着しか身に着けていない、ほぼ素っ裸で寝室に向かった。凍死でもしてやりたくて冷房を二十度に設定して掛け布団の上に寝転んだ。

しばらくすると流石に寒くなって布団に潜り込んだ。こんな時でも体は死にたくないらしい。

苦情でも来てくれたら一瞬で引っ越せるんだけどな。

罪悪感だけは感じやすい体らしいし。

それ以外はどうやら不感症だよ。

こめかみを伝う涙は感じられるようで、それがベッドのシーツに染み込むのを見てから俺は眠りについた。


心と体はどうも仲が悪いようで目覚めてしまった。

もう目覚めたくなんかないんだよ。

何故か素っ裸で、布団の外に出るとキンキンに冷房が部屋を冷やしていた。いろいろとどうして?と寝起きの頭では思ったものの酒を飲んでいたわけでもないのですぐに思い出した。

親しい誰かでも、同じ悩みで死んでくれたら心が折れるってもんなのに。そんな考えが浮かんだ。そして頭の中には社長の顔があった。

ツー、と涙が頬を流れ落ちた。

いい方向に回り始めた世界と、そのままに受け取れなかったせいで苦しい俺。健やかな発展の裏の、健全な不協和だ。

プrrrrプrrrr

電話が鳴った。誰かなんて気にならなかった。俺どこかに逃げるからさ。どこか遠く、俺のことを知っている人が誰もいないようなところに逃げるから。俺の代わりに死んでくれる人を探して、この部屋で死なせて、ニュースで報道して。どのくらい大切にされていたのかを失って知りたいから。

でも命ってプライスレスか。そっか。じゃあ、無理か。

「はい、もしもし」

『Bangさんですか?ハオランです』

「えっ…ハオラン、さん、どうしたんですか?」

驚きを隠せない。業務内容の連絡をするために、と社長と俺で線を引かないために事務的に好感した連絡先だ。交換したことさえ忘れていた。何か追加で暴露チャンネルに協力したのならば俺を通す必要はないし。

長い時間返答がなかった。切れてしまっているのかな、とスマホの画面を眺めてみたりもした。おーい、と呼びかけるのはなんだか負けた気がして嫌だった。

その間中ずっとどうしてハオランが今になって俺に電話をかけて来たのかを考えていた。

とりあえずベッドから降りて、部屋の隅の方にカパッて開くところが開いた状態で転がっていたエアコンのリモコンを手に取り、温度を下げた。その後で消した。恐らく俺はちゃんとリビングを片付けるから。

昨日冷蔵庫は荒らしていないからどうもなっていないはず。でも腹は減っていない。服を着たいけど部屋の外に出るのは面倒くさい。この電話を寝室の中で終わらせて、その後でちゃんとした人間っぽく部屋を片付けよう。ちゃんとした人間だったらそもそも部屋は荒れないだろうか。

『大丈夫かな、と心配になりました』

「何故…?」

『影が改めてその人に関係ない、と公表されたからです』

「それが、どうして俺を心配する理由になるのか…分からないです」

『私の知り合いが影に苦しんでいたから影の研究をするようになった、と撮影の時に少しだけ話の中に出ましたが、覚えていますか?』

そう言えばそんなことも、と思い頷いた。けれど目の前にいないことを思い出して覚えている、と声に出して答えた。

『苦しんでいたんです』

「はい」

『意味が、分かりますか?』

「苦しんでいた、んですよね…今は…もう…あ…あぁ」

苦しんでいた。過去形なのは今、そうじゃないから。つまり解放された。苦しんでいない。この声のトーン的にハオランが表しているのは親しい人はもう死んだ、ということだ。

『もうその人は生きていません。その人、というのは日本に来て出会った女の子でした。日本で教師になりたくて、日本の大学に入って教育実習を受けに行ったんです。私が受け持ったクラスの子でした。最初の方は意識していませんでした。もちろん、影は見えていたので他の子よりは気にかけていたかもしれません。私は影がありませんが、周りにいた影を持っている子は何となくですが壁一枚隔てたところにいる気がすることが多かったので』

「それは、分かります」

『放課後、その子が嬉しそうにしていて話を聞いたら次の週の月曜日の全校集会で影は関係ない、という旨の発表をすることになった、と話してくれました。この子も傷ついてきたんだな、と思って心から応援してその金曜日も、集会の前の緊張していたあの子も送り出しました。集会が終わって、いい発表だった、と大人の多くは涙ぐんでいました。これでいい方向に変わるだろうと、私も信じていましたし、あの子も信じていました』

そこでハオランは言葉を切った。

『実際少しは変わっていました。中学生は思春期で難しい年ごろとはいえ罪悪感があって、それに加えてきっかけがあればごめんね、というのに抵抗がなかったのかもしれません。でも少し、でしかなかったんです。

ほとんどは変わらないまま。むしろでしゃばったことに文句を言う子もいました。先生たちの前ではいい子でも、生徒同士。対等な場所にいようものなら徹底的に叩き潰していました。出る杭は打たれる、のレベルではありませんでした。二週間の教育実習が終わって、心配だな、と思いながらも学校を去りました。

その時は今ほど日本語も上手ではなかったので、生徒同士のトラブルにも手を出せませんでした。いつもサポート程度でした。それがウザくなかったのか生徒たちには慕われていたと思います。教育実習期間中にあった保護者会でも親御さんからいろいろ相談をされるほどでした。

ちょっと自慢ですかね』

「いえ。ハオランさんのことです。納得できます」

『ありがとうございます。その子の保護者にも会いました。すごく毎日心配していました。何か起こっていないか。自分の子供が何か脅威に晒されていないか。私は大丈夫ですよ、しか答えられませんでした。でもそう答えると安心した顔を見せてくれました。

教育実習が終わって二か月ほど経った時、実習先から手紙が届いたんです。正しくはその子の両親から、中学校へ送られて、実習が終わったあたりで引っ越していたため、私に届くことがなく、中学校から大学へ再び送られた後、私の元へ届きました。だから気づくのに余計に時間がかかってしまいました。恐らく、三週間ほどは知らないままだったと思います。

その子が死んだ、と。遺書には私が心配してくれたことが嬉しかった、と。影のことを集会で話して、担任の先生がいい発表だった、と言ってくれた。ルールを作る大人が褒めてくれても、それに縛られる子供が聞く耳を持たなければ結局は変わらないんだ、と。気付いてしまった、と』

ベッドから下ろしている足を穴が開くほど見つめた。ひんやりとしたフローリングから冷たさが伝わる。足が凍り付いて剥がせなくなりそうなほどの冷気だ。

今の俺を言い当てられて困った。国や、信頼できる場所が発表してもそれが善か悪か。信じられるか否かを決めるのは民衆だ。心が動かなければそのままだし、動かされた時には大きく変わってくれる。結局は国がどうの、とか。信頼がどうの、とかではない。ただ人々が信じたいか、信じたくないか、だ。

それにその子は中学生のうちに気付いてしまい、耐えられなくなったのだろう。大人の俺だって耐えられない。だから昨日あんなにもリビングを荒らしたのに。

どの程度かは今の精神状態では見ていないけど。

『私には影がある知り合いがたくさんいます。でも心配しても、あの騒動のあとでは聞いてはくれません。貴方しか心配出来る距離にいなかったので貴方に電話をかけました』

「ありがとうございます。心配、されるような状況だったかもしれません。俺も…」

『何か、役に立てたならよかったです。長々と自分の話をすいませんでした』

「いえ、その子が言ったことはすごく大事なことです。だからハオランさんにとっては辛いかもしれないけど、その子の話をしながらもっと多くの人を…こう、その…心配してあげてほしい」

返事がなかった。変なことを言った自覚はある。でもとても大事なことに気付いた気がする。言葉には出来ないけど。

『聞いてくれるでしょうか』

「聞いてくれない人はハオランさんからの心配が必要ないってことです。それにうちの社長と動画出したんだし。無実って思ってくれている人もいるでしょう。中学校の時、その子の周りでちゃんと謝ることが出来た子たちとはプライどの高さが違います。大人なので謝れないから。ハオランさんが心配してもいいかな、って思う人には謝罪っていうフェーズがなくても話をして、みても…いいのでは、ないでしょうか…」

言っていて恥ずかしくなってきた。だんだんと尻すぼみになった俺をハオランは笑った。

『やってみます。着信拒否になっている人は諦めて、繋がる人にはとりあえず』

「きっと、何人もの人が救われますよ」

『そうだといいです』

そろそろ全裸でいるのも厳しくなってきた。寝起き特有の体の火照りはもう消えている。いろんな意味で電話を切りたい。

『すいません、まだありまして。本題はこっちです』

「え、そうだったんですか?」

『研究所の職員にこれから電話をかけるつもりでした。その人は、騒動で私に真っ先に心配の連絡をくれた人なので信頼が出来るし、協力もしてくれるでしょう』

「ハオランさんが計画する何に、協力をしてくれるんでしょうか」

『Bangさん、研究所の職員と話してみるのはどうでしょうか』

言われた内容に驚きつつも、脳がショートするほどではない。しかし裸の体はどうにも正直だ。鳥肌が盛大に立っていて、隠そうにも隠せない。まぁ、見る相手もいないけど。

「それは、どうして…?」

『単純な思い付きです。影について気になることがあれば彼女が答えてくれるでしょう。知りたいことがなければ別にいいんですが、撮影の時思いました。Bangさんはきっと影について平気そうな顔をしているけれど、本当は平気じゃない、と』

「気付かれて、ましたか…」

この返事は自分でも意外だった。この返事はハオランの予想が事実である、とするものでなるべくなら詮索されそうな言動を避ける性質の俺は影の話題にもなれば特に。こういう風に言ったことはなかった。

『もしよければ、です。興味があれば返事は今日じゃなくて結構です。メッセージをくれたら仲介役になります』

「わっ、かりました。ありがとうございます」

『いえ。これからが明るいものでありますように』

意外にも躊躇いはなくハオランは通話を終了させた。

ドッと疲れがやってきた。座っていたベッドにこれ以上沈むことは出来ないだろうに、のめり込むような感覚になった。今年はおかしいくらいに事が起こりすぎている。頭がもうそろそろ限界を迎えそうだ。

スマホを放り投げて、でも必要だと思って、膝をついて奥の方に手を伸ばしてスマホをゲット。寝室を出て、ひんやりとした廊下を歩いて物置部屋へ。その中のウォークインクローゼットに用があった。敵層に下着を掴んで、適当に服を掴んだ。センスは問わずに。

袖に腕を通し、裾に足を通した。リビングへの扉を開けた。

「なぁんだ、そんなにひどくないじゃん」


・・・


「達水、いつになったらハイマーと、深三の関係を洗うんだよ。かなり時間が経つぞ。おれに研究所が新しい結果を公表して、総理への同情票はさらに増した」

「うーん、よっと計算外のことがいろいろと起こりましてね。サイトのランキングは首位転落って訳でもないし、もう少し見逃してくれません?」

「お前はいつもそうやって飄々と…」

雷が来るか、と思い身構えたけどそんなことはなく呆れたように溜め息を吐くばかりだった。

「結果を出してるのは事実だからこれ以上文句は言わない。しかし、ちゃんと俺の眼鏡にかなうモン書き続けろよ。それなくなったらお前を守るモンもうねぇからな。その自由奔放の反動が来るぞ」

「わーお、編集長こっわーい」

「チッ、いつかぶっ飛ばしてやる」

自分のデスクに戻った編集長を見て、机の下に張り付けているUSBメモリを剥がした。そう簡単には見つからない場所という自負がある。実際、過去今まで見つかったことがない。編集長や、彼に頼まれた人間が俺のデスクを頻繁に物色しているのを知っている。

引き出しを開ける、閉める程度の脳しかない人間には見つけるのは無理だ。目的のものがあるかもしれない。確証ではなく、まだ可能性の段階で地べたに這いつくばれる人間は見つけることが出来るだろうが。

「また編集長怒らせてるんですか?」

「別にー。アイツが勝手に」

「おい」

「聞こえてたらしい。やべぇやべぇ」

「どこからそんないいネタ引っ張って来るんすか。やっぱ情報屋、みたいなのと繋がりでもあるんですか?」

雑誌のバックナンバーを読む手を止めて可愛い可愛い後輩の目を見つめた。

「な、なんすか…?地雷、だったっすか?」

「お前ね」

ごくり、とつばを飲み込む様が見られたので満足する。怖がらせるのはここまでだ。

「ドラマの見過ぎ。情報屋がグレーなわけないでしょうが。ああいう奴らはいつだってまっくろくろすけなの。だからねやったらめったら関わったってロクなことないよ」

「知ってる、みたいな口ぶりですね」

「若い頃はね。おバカな君みたいに憧れた時代はあったわけよ。それっぽいところに手を突っ込んで警察にお世話になりそうになっちゃって」

「それこそドラマの世界みたいっすね」

「あの時は俺も名悪役だったんでないの?って興奮したものだけど、今くらいの年になると馬鹿やりたくはないな、て思うわけよ。怒らせるのは編集長だけで充分、ってね」

「オイ」

「地獄耳すぎでない?」

仕事に戻れ、と二人して怒られたもんだから外に出て足使って稼ぐ仕事の真骨頂を拝みに行こう、と提案するとすぐに乗って来た。取材用のバッグを片手に、もう片方の手には手帳。これからどこに行こうか、鉛筆を舐めるなんて古い真似を繰り出しながら決めることにしよう。

ミス・ハイマーの記述を全て削除したことによって大手なりの豪快さを売りにしていたわが社は少しだけランキングの中から記事の数を減らしたが他のどの会社も差し置いて上々の成績を収めていた。

その話題から離れるのは少し心苦しいが奥深くで考えていることを悟られないようにするためにはもう気がなくなった、って素振りをする他にないだろう。木は森に隠せ、って感じでね。

「ミス・ハイマーのネタなんであんなにしらべたのに消しちゃったんですか?」

「あ?」

「あ、いや、変な意味はなくて。枠もらって記事書いて、いろいろ参考にしようと思ってページ開いたらそりゃあ更新されてるわけで、どこにもミス・ハイマーのことがなかったから。俺はハイマーについて書いてたわけなんで不安に在って編集長に聞いたら達水さんが消せ、って言ったって」

「あぁ、悪かったな。うちの会社からのミス・ハイマーについての記事がお前のだけになっちゃって。ちょっとやべぇところと絡んでそうだったから消してもらったんだよ」

「俺のはいいんすか?」

「人についての特集なんていつでもやってることだし、ちゃんと暴いていたんだな、って世間は褒めてくれるから心配はいらねぇよ」

分かっているんだか、分かっていないんだか、曖昧な返事の後は会話が続くこともなく後輩を引き連れて取材場所へ向かった。

駅に到着したあたりでポケットの中のスマホが震えた。

「編集長だ」

「え、思い当たる節はあります?」

「いや、それが全くない」

かなりの興奮した声で編集長が出た。もしもし、もすっ飛ばして。

『今どこだ?』

「駅の近くっすけど」

『すぐに研究所の方に迎え。会見に出席する奴はこっちで手配するからお前たちは外でコメント取れ。嘘の情報の後また何かの恣意が働いているのか、と』

「了解。すぐ向かいます」

電話を切った。

「どこっすか?」

「研究所。もはや出勤ってレベルで通ってるよなぁ」

「マジでそうっすね」

動画配信サイトでライブ配信を探す。他のSNSでの同行は後輩君に任せた。一言一句として聞き逃さないように俺はイヤホンをする。片耳だけはその情報で埋め尽くしておく。

「昨日のじいさん、これで救われますかね」

「孫が死んだって話か?あれ嘘よ」

「え?」

「昨日のじいさんってあれだろ?俺が十年以上前に取材しに行って、まだ住所変わってなかったらいるかもな、って思って、んで、お前を引きつれて行った」

「そうっす」

「調べられたくないから死んだって言うに決まってるだろ。昔、あの時は、確か小学生だったけどな。今はもう社会人だ、会社にしり自営業にしろSNSで一発KOだってあり得る時代だからな」

「証拠に欠けません?」

「それに、一人暮らしにしては靴が多かったな。あと、庭で声をかけた時に部屋の中がちらりと見えた。掃除中だっしカーテンも何もかも開け放ってたから見えた。恐らく孫が住んでいた、と思われる部屋は綺麗に家具も何もかも残っていた。あのじいさんの話では中学校の頃に死んだってことになっている。数年だったらまぁ、おかしくもないと思うが当時小学校六年生、十二歳と仮定して、死んだのを中学校三年生、十五歳とする。あれから十五年弱。片付けられないかもしれないが、あの気の強いじーさん、それにばあさんの靴は片付けられるし、趣味のガーデニングも続けられる。俺的には死んでないかもな、ってだけ」

「探偵みたーい。ずっと続けてたらそういう勘も冴えるようになるんですかね」

「知らねぇ。ちょっと配信に集中するわ」

「うす」

お互いの作業に没頭した。配信に向ける耳はそこそこに考えていた。バックグラウンド再生にして、連絡アプリを起動。俺が尋ねて行った後、また別の後輩に見張らせたがそこからの連絡はない。尾行が下手な後輩しか暇じゃなかったから撒かれた可能性も十分にある。住所や家の特徴も伝えただけだったから別の家を見張ってる可能性もある。

アクションを起こすとしたら近いはず、と踏んでいたが間違っていたかな。あわよくば家でも特定できればなんて思っていたがそううまくはいかないよな。

寒い中、ろくでもないコメントしかしなかった研究所職員に張り付いた甲斐がないなあ。酒でも飲みたいなあ。なんてぶつくさ言いながら編集部に戻る間の電車でスマホを確認した。連絡はいくつか来ていたが公式アカウントと、内容が薄いだけのどれもなくてもいいようなものばかりだった。

昼過ぎの都心から離れる方向への電車の割に人が多い。いや、人の数は夏場と比べても変わっていないのだろう。みんなコートを着始めたせいで必要以上に圧迫感があるんだ。頬が紅潮している人も多い。

座席はちらほら埋まっているから後輩と一緒にドアに並んで立つ。スマホでSNSでも確認しているんだろう後輩の伏目がちな顔にまつ毛なげー、と素で見惚れる。

「なんすか?」

「あ、気づいた?」

「それだけ見られてたら」

「別に何もないのよー」

「あそすか」

『つれない』後輩を『つれて』、どこに飲みに誘えば『つれる』かを考える。

何笑ってるんすか、と突っ込まれながら目的の駅への到着を待った。


『家は出てたっぽいすけど』


その連絡に気付いて、追えよ、と送り返すのさえ億劫になったのはまた別の話。


ーーー

続く

ーーー

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