第18話 ようやく君に

 『いやだ、行かないでくれっ⋯!』

 ある人を抱えながら泣いていた。

 その人は身体に矢が刺さっていて、大量に出血していた。

 自分は赤く汚れてしまうのも構わず、必死に抱き寄せていた。

 『⋯⋯⋯レ、ン⋯⋯』

 『たのむ、っ⋯!』

 涙混じりのその声は、聞くのも辛いほどの悲しみが滲んでいて、自分の声だと言うのに耳を塞ぎたくなった。

 ――そしてついに、腕の中の彼はぐったりと力無く目を閉じた。 

 『ううっ、ぅあ、ああぁ⋯⋯!』

 救えなかった。助けられなかった。何よりも大切な人なのに、自分の命より大切な人なのに、目の前で死なせてしまった。

 ごめん。役立たずでごめん。守ってあげられなくて――、


 「⋯ごめん⋯⋯っ⋯⋯!!」


 ハッ!と意識が浮上する。

 汗と涙でグシャグシャになった身体を起こしながら、何も汚れていない手のひらを見た。

 

 「⋯⋯夢、か⋯」


  

 ふと気付いたらいつも、誰かを守れなかった、という思いがあって、それはもう何年も蓮司の心には住み着いていた。

 もちろん過去にそんな記憶はなく、思い当たる事すらない。

 それなのに、誰か自分にとって何よりも大切な人がいて、その人をこの腕の中で亡くしてしまった経験がある気がするのだ。

 それはこうやって、毎日のように夢に出てきた。

 何年も見続けたこの夢は、もう何度見たかなんて数え切れない。見飽きる程見ているはずなのに、毎回毎回初めて見たかのように自分は衝撃を受け、絶望し、泣き叫んでいた。

 

 「⋯⋯はぁ⋯」

 蓮司は大きくため息を吐く。

 この夢を見たあとは、身体も精神も酷く疲れてしまう。

 初めの頃はストレスや疲労が溜まっているのかと思っていたが、どれだけ休んでも改善されることはなく、眠りが浅いのが原因かと睡眠薬を飲んで寝てみても、嫌になるほどハッキリと夢を見続けた。

 為す術がなくなり、もう諦めるしかないと自分を納得させたつもりだったが、それでもため息が出た。

 「⋯⋯仕事行くか」

 重い身体を引き摺るように、ベットから出た。

 必要最低限のものしかない、無機質な部屋に、冷たい空気。色のない空間はまるで自分自身のようだ。

 

 昔からどんな事にも関心を持てなくて、ただ流れるように生きていた人生だった。

 感情というものはどこかに置いてきてしまったのか、それとも元々無かったのか、何を見ても心が動くことはなかった。

 無口で、無表情で、無感情。

 人々は自分のことをロボットなのではと疑ってきたが、別にどうでも良かった。

そんな蓮司だったが、唯一感情が揺さぶられる事が、先程も見た夢だった。

 でも誰なのか分からないし、どうすればいいのかも分からない。

 エネルギー補給のために味のしない食パンの耳を口に放り投げながら、支度を進めていく。

 

 こんな自分が選んだ職業は医者だった。

 感情がないゆえに進路や将来の夢という質問には困るところだったが、親が医者だったので、そのまま流れるように道が用意されていたのだ。

 これに関してはラッキーだったと思っていた。

 いつの間にか冬が来ていて、ドアを開けるとひんやりと冷たい空気が流れ込んでくる。

 職場である病院は徒歩15分の距離にあった。

 勝手に始まった今日を終えるために、蓮司は足を進めて行った。


 

 道中には公園があるのだが、先週あたりから炊き出しを行っているようだった。

 ホームレスやら子どもやらが列に並んでは、受け取ったスープらしきものをせっせと口へと運んでいるのが見えた。

 公園の入口には炊き出しのお知らせの張り紙が目に入り、意図せず読んでしまう。

 この炊き出しはボランティアなのだそうだ。

 (⋯こんな朝早くからわざわざ貧しいやつにボランティアだなんて、とんだお人好しだな)

 きっと偽善の塊みたいなやつが行っているのだろう。

 捻くれていた蓮司はそう思いながらも、なんだか気が向いたので、どんな奴がやっているのか見てみようと思った。

 ――あとから思うと、何故こんなことをしようと思ったのか不思議だ。

 公園に入り、テントにさり気なく近付いていく。

 柔らかな男の声がしたので、男だということは分かったが、まだ顔は見えない。

 もう少しだけ近くに進んで、中の人物を覗く。


 「⋯っ、」

 

 その瞬間、突然頭に水をかけられたかのような衝撃が走った。

 小柄なその男は、ふわりとした笑顔を浮かべながら、こんな寒い中汗を滲ませて、目の前の人達に向き合っていた。

 

 (⋯⋯まるで天使だ)

 

 ふっ、とそのワードが頭に思い浮かぶ。

 しかし同時に、そんな事を思った自分自身が信じられなくて鳥肌が立つ。

 色白で、顔は小さく、瞳はキラキラと大きく輝いている。どこぞのアイドルさながらの容姿は確かに天使のようだと称されるだろうが、自分がそう思った事が信じられない。

 全身の臓器が、血液が、細胞が、突然活性化しているのが分かる。

 お前たちそんなにも動けたのかと言いたくなるほど、蓮司の身体は初対面の男に反応していた。

 (なんだこれは、)

 なんだか気味が悪いし、なにより落ち着かない。

 今すぐこの場を離れたいのに、目線すら逸らすことが出来ない。

 そうしているうちに、列に並んでいるのは最後の一人になっていた。

 彼は丁寧に笑顔を向けてお椀を渡し終えると、ふぅ、と汗を拭った。

 あ、と思ったが、もう遅い。

 ――彼がこちらを見て、目が合ってしまった。

 それでも蓮司はコンクリートで固められたかのように、動くことが出来なかった。

 彼はゆっくりと、こちらへと近付いてくる。

 蓮司の目の前に立つと、唇を噛み締め、下を向き――口の端を結ぶように、蓮司を見上げた。


 「⋯おはよう、ござい、ます」

 

 なぜか震えた声でそう話す彼に、咄嗟に口を開く。

 「あ、ああ」

 喉に何かが張り付くような感覚に違和感を覚えつつ、なんとか返事をする。

 すると彼はにこっとはにかむように微笑んだ。

 

 (⋯泣いている?)

 

 なぜかそう思ったが――彼はもちろん泣いてなどなかった。

 「⋯えっと、炊き出しですか?ごめんなさい、もう無くなってしまって⋯」

 「あ、い、いや、違う。大丈夫だ」

 何をそんなにどもっているんだ。

 そう思うのに、どうしてかまともに話す事が出来ない。

 

 「⋯それ」

 ふと彼の手の甲が目に入ると、怪我をしていることに気が付いた。

 「ん?」

 傷を指さすと彼は「あっ」と小さく声をあげた。

 「そうだ、準備中に切っちゃったんだった」

 忘れていたのだろうか。それにしては傷は深いし、うっすら血も滲んでいる。

 気にすることなくニコニコしている彼に、蓮司はカバンから水とハンカチを取り出した。

 「早く手当した方がいい」

 「えっ」

 「いや、これくらい大丈夫ですっ⋯!」

 彼は手を引こうとする。しかし蓮司はその手をそっと取って離さなかった。

 「いいから、こっち向けて」

 強いわけでも、乱暴なわけでもなく、ただまっすぐな声。

 彼は思わず従って、傷を負った手の甲を蓮司に差し出した。

 蓮司は無駄な言葉を一切発さず、水のペットボトルのキャップを開け、ハンカチをしっかり湿らせる。そして迷いなく傷口をやさしく拭った。

 少し沁みるようで、彼は小さく肩を竦める。

 「⋯⋯痛むか?」

 蓮司はちらりと表情を伺い、少しだけ眉を寄せる。

 「だ、大丈夫です⋯」

 強がって笑う彼の声に、蓮司はそっと息をついた。

 丁寧に血を拭い、ハンカチの端で患部を軽く押さえる。

 彼の手は小さくて、冷たかったが、なぜだかじわりと広がるような安心感があった。

 傷口を押さえていたハンカチを外し、今度は蓮司が自分のポケットから小さな絆創膏を取り出した。

 「ほら。……動かさないで」

 微かに指が震えているのを感じながら、丁寧に貼り付ける。絆創膏を押さえるためだと思いながら、蓮司はその上から優しく手の甲をなでた。

 「……ありがとうございます」

 彼は、ふっと頬を緩めて小さく頭を下げた。

 その瞬間、心臓が突然掴まれたような感覚に陥り、蓮司は目を見開いた。

 こんな事は生まれて初めてで、処理が追いつかなくて戸惑う。

 そうしているうちに、手を掴まれたままだった彼が、そっと解く。

 ――蓮司は一度離れたその手を、気付いたら握り返していた。

 「⋯?」

 「っ⋯!」

 彼は不思議そうに蓮司の顔を見る。そこで、自分が何をしたのかやっと理解して、慌てて手を離した。

 「ご、ごめん」

 「い、いえ⋯」

 つい不審な行動をしてしまった自分に、自分が一番驚く。

 何故あんなことをしてしまったのだろうか。きっと変に思われたに違いない⋯そう思ってこっそり彼を見ると、彼はきゅ、と手のひらを握りながら、なんだか涙を堪えている⋯ように見えた。

 (そ、そんなに嫌だったんだろうか⋯)

 蓮司はショックで頭がいっぱいになる。

 でも、よく見たら嫌がっているようには見えないような――いや、これはただの願望かもしれない。

 

 「⋯じゃあ、」

 すっかり忘れていたが、通勤途中だった。

 早めに出勤しているため遅刻することはないが、のんびりしている程余裕があるわけでもない。

 蓮司は一礼をすると、職場に向かって歩きだそうとした。

 「あ、あのっ⋯!」

 それを、小さな声と、軽く引っ張られる事により止められる。

 歩みを止めて振り返ると、彼は口をパクパクさせて、何かを言おうとしていた。

 ――しかし、待ってもその口から言葉は出てこない。

 

 「⋯⋯悪いけど、そろそろ時間が」

 「あっ!ごめんなさいっ⋯!」

 彼は慌てて手を離し、頭を下げた。

 「ま、またっ⋯また、ぜひっ⋯!」

 彼は必死に、まるで乞い願うかのように、蓮司にそう告げた。

 「ああ、また⋯」

 蓮司は頷くと、気付いたら彼の頭を撫でていた。

 (!?)

 またしても自分の行動に驚き、慌てて逃げるようにその場を後にした。

 そのまま若干早歩きになりながら、自分の手のひらを見た。

 「⋯⋯何をしてるんだ」

 自分らしくない事ばかりしてしまった。

 

 なぜあんなにも心が揺さぶられたのだろう。初めて会ったのに、あの少年は一体何者なのだ。

 分からない事だらけだし、こんなにも何かに対して感情が湧いてきたことが無いので、なんだかどっと疲れてしまった。

 とりあえず一旦忘れようと思いながら、職場へのドアをくぐった。


 


 忘れようと思ったのに、実際にそれが叶うことはなかった。

 あの日彼と別れてからずっと、脳裏に張り付いたかのように彼の顔が思い浮かんでいた。名前さえ知らないのに奇妙な事だとため息を吐く。

 

 ――その日の夜は、初めてあの悪夢を見なかった。

 しかし、なんだかあたたかくて、雲の上のような場所に寝転がっているという、なんとも平和な夢を見た。

 何十年かぶりによく眠れて、飛び起きる事なく穏やかな睡眠が出来た事には驚かされた。

 ――しかし、一番驚いたのは、その夢の中で隣にいたのが、彼だった事だ。

 彼は白いワンピースのような布を着ていて、自分を見て愛しそうに目を細め、幸せそうに微笑んでいた。

 そんな彼のことも、雲の上のことも、何も知らないはずなのに、なんだか懐かしい気がして、気付いたら涙が出ていた。

 涙なんて物心ついた頃から流した記憶が無い。涙腺が生きていたことに、どこか感動してしまった。

 


 彼が頭から離れないことにもどかしさを抱えながら、蓮司は食材の買い出しに来ていた。

 もちろん食にも興味はなく、食べることさえ面倒だが、人間の身体は食べないとやっていけない。

 ただの栄養補給として、いつもと同じメニューをカゴに放り込んでいた。

 そんな時、ふと視線が引き込まれる感覚があった。無意識にそちらを向くと、その先にはなんと彼がいた。

 思わずじっと見ると、彼もこちらに気付いて、目を見開いた。

 自然と足が彼の方に向かい、気付けば目の前まで来ていた。

 小さく会釈すると、彼はふわりと微笑んで「こんばんは」と言う。蓮司の身体の中に何かが広がったような気がした。

 「夕飯の買い物ですか?」

 彼のカゴの中を見て尋ねる。そこには色々な食材が入っていた。

 「はい。今日はハンバーグを作ろうと思って」

 「へえ⋯料理出来るんですね。自分は全然で。一人暮らしだし毎日適当です」

 まあ、出来る出来ない以前に、食に興味がなさすぎて料理をしようとさえ思ったことがないのだけども。

 「そうなんですね⋯僕は両親と住んでるんですけど、僕が料理好きなので自然と料理係になってます」

 「料理好きなんて、すごいですね」

 「いえいえ。食べるのが好きなだけです」

 「素敵です。俺は食べることも興味がなくて⋯」

 いつも人との会話は必要最低限しかしないのに、何をベラベラと話しているのだろうか。

 そう思うも、気付いたら口を動かしていた。彼には自然と話したくなるような何かがある気がした。

 

 「⋯でも、トマト好きなのは変わらないんですね」

 

 「えっ?」

 彼の発言に耳を疑う。

 彼は少しぽかんとした後、気付いたようで慌てて首を振った。

 「あっ、その、たくさん買ってらっしゃるので⋯!好きなのかなぁって⋯!」

 「あ、いや⋯特⋯⋯、⋯⋯」

 特に好きというわけでは、と言おうとしたが、振り返れば確かに毎回トマトを大量に買っていたことに気が付いた。

 ――もしかして自分はトマトが好きなのではないだろうか。完全に無意識だった。

 「確かに⋯俺はトマトが好きみたいです」

 「みたいですって、気付いてなかったんですか?」

 「はい。今気付きました」

 そう言うと、彼はおかしそうに肩をすくめて笑った。

 ――かと思いきや、すぐに泣きそうな顔をして見せた。 

 (⋯まただ)

 初めて会った時にも見せていた表情が、なぜかとても引っかかる。

 なんだろうか。それの意味はなんだか、とても重要な気がした。

 「⋯そういえば、まだ名乗ってすらなかったですよね」

 「あ、ほんとだ」

 今更お互いの名前を知らなかった事に気付き、二人で笑った。会ったばかりなのに、不思議とそう感じなかったせいだ。

 「蓮司です。年は32歳で、精神科医をしています」

 「光流です。25歳で、福祉支援スタッフをしています」

 なんだか少しだけ照れくさい気持ちになりながら、手のひらを差し出す。

 すると彼の小さな手が、きゅっと握り返した。白く細い手だったが、とてもあたたかくて、何故か泣きそうになった。


 


 あの日以来、光流の事が頭から離れなかった。何かが気になり続けるなんて生まれて初めてだ。

 次に会えるのはいつだろうと思い、炊き出しの予定を見たら二週間後だった。

 たった二週間であるのに遠く感じて、落胆している自分が不思議でならなかった。

 

 ――しかし、なぜか仕事の合間や帰り道、ふとした瞬間によく光流の姿を見かけた。

 朝、病院に向かう途中の横断歩道では、光流が荷物を抱えたおばあさんにそっと声をかけていた。

 昼休みに近くのコンビニに立ち寄れば、今度は迷子の子供の手を引いて案内しているところに出くわす。

 夜、診察を終えて帰ろうとすると、公園の片隅で野良猫を抱き上げて道路の向こうへ運んでいる光流がいた。

 ほんの短いすれ違いばかりだけど、何故こんなに何度も会うのか不思議でならなかった。

 しかし何度会っても、蓮司はそのたびに、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。


 そしてある日の夕暮れ――

 少し早めに仕事が終わり、まだ日の暮れていない道を歩いていた。今日も無意識に彼を探しながら辺りを寄り道していた事に気付き、そんな自分を嘲笑う。

 

 (⋯今日はいないか)

 よく会うとはいえ、流石にそんな毎日のように遭遇することはないだろう。

 (というかこんなストーカーじみた行為、気味が悪すぎる)

 さっさと帰ろうと、脇目も振らずに最短距離で自宅を目指した。

 しかし、ふと顔を上げた先に映る存在に、蓮司は思わず立ち止まってしまった。

 

 (⋯光流)

 

 まさかとは思ったが、彼がいた。

 ――いたのだが、今日はどこか雰囲気が違っていた。


 蓮司がいつもは通らない公園のベンチで、彼は背中を丸めて座っていた。

 いつもの優しく穏やかな笑顔は無く、遠目からでもどこか落ち込んでるような、元気がないような、そんな風に見て取れた。普段と違う初めての表情に、つい動揺してしまう。

 何かあったのだろうか。体調が悪いのだろうか。

 すると、彼は首元を引っ張ったと思ったら、チェーンと共に出てきたものを見て、さらに複雑な表情を浮かべた。

 (ネックレス?)

 思い返すと、確かにいつも首にチェーンが掛かっていたことを思い出した。

 先端に何が付いているのかまでは流石に分からなかったが、なんだかとても大切なもののように見えた。

 (⋯でも、なんであんなにも泣きそうなんだ?)

 光流はネックレスを握ると、苦しそうに顔を歪める。

 いてもたってもいられなくて、蓮司は気付いたら彼の元へ歩みを進めていた。

 

 「⋯⋯ひか、」 

 「っ!」

 名前を言い終わる前に、彼は勢いよく顔を上げた。

 「レ⋯っ、あ、蓮司、さん⋯?」

 大きな瞳には膜が張られていて、ゆらゆらと揺れていた。

 「⋯すみません、突然声を掛けてしまって」

 「い、いえっ⋯」

 彼の声は震えていた。それでも蓮司に無理やり笑いかけているのが分かり、なんだか胸が痛む。

 (⋯なにがあったんだ、)

 知りたい。なぜ泣いているのか。

 君にそんな表情をさせているのは誰なのか。君にはいつでも幸せに笑っていてほしい。

 そんな想いが勝手に、やまのように溢れてきた。

 「⋯どうしたんで、」

 「っ、あ!すみませんっ⋯!ぼくもう行かなきゃっ⋯!」

 「え、」

 「すみません、ではまたっ⋯」

 そう言うと、彼はまるで逃げるようにその場を離れていった。

 ぽつんと公園に残された蓮司は、状況を理解出来ないまま、しばらく彼の後を目線で追いかけた。

 そうして姿が見えなくなると、ため息を吐いてから、彼が座っていたベンチに腰をおろした。

 

 ――邪魔をしてしまっただろうか。話しかけない方が良かったのだろうか。それなら申し訳ないことをしてしまった。

 (⋯それにしても)

 なぜあんなに彼が気になってしまうのだろう。

 彼と出会ってからの自分は、自分でも驚くほど様々な感情に振り回されている。何にも関心が持てずにロボットだと言われていたのに、彼のことになると誰もそんな事は言えないほど心乱されていた。

 

 (⋯もっと彼のことを知りたい。そばに居たい)

 ――なにより、彼にはあんな顔をさせてはいけない。

 自分でも不思議なほど、そう思うのだった。




 あれから数日が経ったが、いい加減自分の気持ちを認めざるを得ないと思った。

 あんなにも何事にも感情を持てなかったのが嘘のように、彼に惹かれていた。思えば初めて彼を見た時からおかしかった。

 どうしても彼のそばに居たくてたまらない。というか、そばに居るのが本来の場所とさえ思えてしまうのだ。

 こんな風に思うだなんて、あまりにも彼が好きすぎて気が狂った可能性があると考えたが、それでもいいから彼の近くに行きたかった。


 彼と距離を縮めるにはどうしたらいいか、恋愛経験どころか他人と仲良くすらしたことがない自分には分からないことだらけだったが、まずは食事に行くのがいいだろうと思い、今度会えた時に思い切って誘うことを心に決めた。

 しばらくすると運良くその機会はやってきて、緊張しながらも伝えれば彼はすんなりと承諾してくれた。

 今すぐその場でガッツポーズをしてしまいそうになるのをなんとか抑えるため、蓮司は血が滲みそうなほど拳を握りしめた。



 

 そうしてやってきた食事の日。

 蓮司は紺色のジャケットに、白いシャツと黒のスラックスという落ち着いた装いに決めた。服装に気を遣ったのなんて初めてだった。

 一方の光流は、淡いグレーのシャツに、アイボリーのニットベスト、黒のテーパードパンツというシンプルな格好だった。

 けれどその優しげな色合いと、ほんのり緊張した微笑みに、店の明かりが反射して――どこか浮世離れした、美しさが滲んでいた。

 

 場所はホテルに併設されているレストランに決めた。

 誘う際に彼に希望を聞いたがどこでも良いと答えていたので、悩んだ末に、一番良さそうなここのディナーの予約を取った。

 あまり畏まりすぎると緊張してしまうかと思ったが、彼は柔らかい親しみやすさを持ちながらもとても上品で、実は王族の家系だとか言われても納得してしまうような高貴さを持ち合わせていた。そんな彼にはこのような高級感のある場所が相応しいと思ったのだ。


 「今日は誘っていただいてありがとうございます」

 「いえ、こちらこそ来てくださってありがとうございます。どうぞ」

 そっと手を取って店内へと進む。

 彼はキラキラした目で、豪華な装飾がなされている空間を見ていた。

 「こんな素敵な場所、初めて来ました」

 「本当ですか?ここで良かったでしょうか」

 「もちろんです。嬉しいです」

 ふわりと素直に喜びを表してくれる光流に、蓮司は思わず自分の頬が緩むのを感じる。

 

 「⋯⋯⋯」

 「⋯⋯⋯」

 しかし、沈黙が二人を包み込む。本当なら良い雰囲気を演出してくれるであろう生演奏のピアノの音が、耳に響いて痛く感じてしまう。

 

 (こういう時は何を話せばいいんだ⋯)

 まだまだ知らないことだらけの彼のことをもっと知りたいし、色々と聞きたいことはあるはずだ。

 なのに緊張なのか、経験値不足からなのか、頭が真っ白で何も思い浮かばなかった。

 

 そうしているとコース料理の前菜が運ばれて来て、丁寧に口に運んでいく。彼は一口食べてはその都度目を輝かせていた。 

 (⋯かわいいな⋯)

 少し会話をしては途切れていく。

 しかし、それでも不思議と気まずさがあるわけではなく、どこか心地良さというか、満たされている感覚があった。話なんてしなくても、彼といるだけでじゅうぶんなのかもしれない。

 (⋯とはいえ、そう思っているのは俺だけかもしれないだろ)

 

 「⋯⋯すみません、話すの苦手で⋯⋯つまらないですよね、」

 素直に謝ると、彼は「えっ?」と言いながら、――片目からポロッと涙を零した。

 「!?」

 「⋯っあ、ごめんなさい」

 光流は小さく笑いながら慌てて目元を拭う。

 まさかの彼の涙に蓮司は動揺しまくり、少し立ち上がってしまった。

 「っえ、あ、なんで泣いて⋯」

 「あっ、大丈夫なので、気にしないでください⋯むしろすみません、」

 「そ、そうは言っても⋯」

 この状況で泣かれてああそうですかで終われる人間がどこにいるというのだろうか。――まあでも目の前にいるのが光流じゃなかったら、迷うことなくそうしていた自信があった。

 

 「そんなに嫌だった⋯?」

 つい自信なさげに尋ねると、彼はブンブンと首を横に振った。

 「嫌なわけないです⋯!むしろ逆で、嬉しくて⋯」

 「嬉しくてって⋯⋯そんな、泣くほど⋯?」

 光流は頷いて、小さくはにかむ。その表情はただの笑顔なんかではない、そんな気がした。

 

 「でも、事実つまらないだろう?ごめん⋯」

 「つまらなくないです!なので謝らないでください。ほんとに、僕こそすみません。一緒にご飯を食べてるのが夢みたいで、泣くの耐えるのに必死で、」

 彼の言葉に目を見開いた。

 そんな、ただ蓮司と食事をする事が泣くほど嬉しいだなんて、信じられなかった。

 「⋯でも、せっかくの素敵なお食事ですもんね。楽しんで食べなきゃ!」

 光流はもう一度涙を拭うと、ふふっと笑顔を見せた。

 それを真正面から浴びた蓮司の心臓は、ぎゅっと締め付けられた。


 「蓮司さん⋯お腹いっぱいですか?」

 「え?⋯ああ⋯まあ、あまり普段から食べないんだ」

 ちびちびと食べていると、光流はそう尋ねてきた。

 緊張などで食事どころではないのが一番の事実ではあるのだが、普段から蓮司の食は細かった。食べることに興味が無いので当然といえば当然である。

 「体調もあまり良くないんじゃないですか⋯?」

 「いや、そんな⋯」

 「ずっと、眠れてない⋯ですよね⋯?」

 「⋯⋯」

 なぜ分かったのだろう。誰にも、親にさえ気付かれたことがなかったのに。

 「⋯よく分かったね」

 「やっぱり」

 「昔から眠れないんだ。毎回夢を見て、飛び起きて⋯でも最近は見る頻度が前より減ったんだ」

 実際、理由は分からないが毎晩ではなくなっていた。それだけで身体は楽になった。 

 「どんな内容か、聞いてもいいですか?」

 「⋯、⋯⋯⋯」

 言おうとしたが、なぜだか言葉にならなかった。

 彼にこれを聞かせていいのだろうか。そんな気持ちが胸の中をぐるぐる駆け巡る。

 「⋯⋯大したことはないよ」

 結局言えなかった。言ってはダメな気がしてしまった。

 「⋯⋯⋯」

 光流は蓮司をじっと見ていた。

 そして、涙を堪えるように唇を噛み締めながら、そっとテーブルの上に置いていた蓮司の手に、自分の手のひらを重ねた。

 「⋯⋯もう、大丈夫だよ」

 「え⋯?」

 「悔やまなくていい。大丈夫だから」

 蓮司は目を見開いた。

 光流は真っ直ぐ、蓮司を見つめる。

 (何も言っていないのに、なんで⋯)

 彼の眼差しは先程までと違って強く、ただ蓮司を見ているだけじゃなくて、なんだかもっと奥まで届いているような⋯そんな感覚になった。

 

 「⋯っあ、」

 しばらくすると、突然意識が戻ったかのように光流はパッと手を離した。

 「ご、ごめんなさい、突然」

 「い、いえ、」

 するとタイミングが良いのか悪いのか、デザートが運ばれてきた。

 蓮司は空気を濁すように、ケーキを口に入れた。



 気付けば、もう帰る頃合になってしまっていた。

 彼がお手洗いに行っている間に会計を済ませると、戻ってきた彼は自分も払うと財布を出てきたが、ここは流石に譲れないのでなんとか折れてもらった。

 

 レストランを出ると、話をしながら、ゆったりと駅までの道を歩いていく。

 「ご馳走になっちゃうなんて⋯ほんとすみません⋯」

 「いやいや、むしろ払わせてくれてありがとう」

 「もう⋯⋯」

 「⋯それより、楽しんでもらえたかな⋯ほんと不慣れで申し訳ない」

 「それはもう!めちゃくちゃ楽しかったし、幸せでした。本当に、嬉しかったです」

 涙まじりの声で必死にそう訴えてくれる光流に、蓮司の心はまた揺さぶられる。

 「⋯俺なんかに、そんな風に言って接してくれる人は君だけだ。何にも感情が持てなくてただ生きることだけ考えてたから、怖いだとか、ロボットみたいだとか、散々言われてて」

 こんなこと話す必要ないと思っていたのに、また自然と口から出ていた。

 「でも、変えなきゃいけないなと思ってて。もっと色々な事に関心を持って、心を動かして、普通に生きていかないと」

 ここまで言ってから、ハッと我に返る。こんな重い話をされても返答に困るだろうと思い、すぐに取り消そうとした。

 「なんて、」

 

 「⋯そうやって感情を消してないと、生きて来れなかったんだと思います」

 

 光流は隣に立つ蓮司をまっすぐ見上げる。

 「それほど傷付いてしまっていたから⋯⋯だから、それで良いんですよ。自分を守って、ちゃんと、ここまで生きてる。それでじゅうぶんですよ。周りがどう思おうと関係ない」

 光流はそっと、蓮司の胸あたりに触れた。

 

 「だから⋯生きててくれて、ありがとう」

 

 そう言われた瞬間、全身から何かが解放されたかのように、ぶわりと込み上げ、溢れ出た気がした。

 「っ⋯」

 自分のような存在に“ありがとう”だなんて、そんなこと言われる資格もないと思っていた。

 ⋯しかし、その言葉が、まるで生まれて初めて自分の存在を認められたかように、心に響いた。

 格好悪く自然と涙が溢れるのを感じながら、気付けば目の前の細くて小さな身体を、めいいっぱい抱きしめていた。

 初めて抱きしめたはずなのに――出てきた感想は、懐かしいだった。

 以前にも抱きしめたことがあるような⋯⋯それもほんの数回とかではなく、数え切れぬ程あると確信できるほどの、不思議な感覚。

 

 (⋯⋯ただいま)

 

 この感情に合う言葉はこれしかないと、心から思った。

 

 「⋯⋯あ、あの、蓮司さん⋯?」

 精一杯、まるで染み込ませるように抱きしめていると、腕の中にいる光流が少し身じろいだ。

 「ん?」

 「あの、ここ、外だし⋯⋯人もいるし⋯」

 「っあ、ああ、ごめん⋯つい」

 そうだった、目の前の彼の事しか見えてなかったが、一応外なんだった。

 夜で暗く端の方にいるとはいえ、二人のいる駅前はそれなりに人がいた。

 ⋯だが、離れがたくて、腕を解くことが難しかった。

 とはいってもずっとこうしているわけにはいかない。蓮司は大袈裟にも引きちぎられそうな気持ちになりながら、光流の身体をゆっくりと離した。

 蓮司の腕から解放された光流は、そのまま小さく後ろに下がろうとした。

 「⋯⋯では、僕はここで⋯」

 「っ⋯」

 その瞬間、蓮司は咄嗟に光流の手首を掴む。

 すると、光流は目を見開いてこちらを見上げる。

 「⋯⋯⋯、⋯」

 蓮司もまた、同じように目を見開いていた。完全に無意識だったのだ。

 もう一度、きゅっと優しく、彼の細い腕に力を入れた。

 

 「⋯⋯離れたくない」

 

 気付いたら、情けない声が出ていた。

 ⋯でも、怖かった。彼から離れることが。

 自分は彼の傍にいないといけない気がした。自分がいつでも近くにいて、何がなんでも離れてはならないと、それが常識かのように思った。

 「光流、」

 乞い願うかのように、ぎゅっと細い手首を握る。頭の隅に小さくいる冷静な自分が、自分は何を言っているのかと己の発言に引いている。

 

 しかし、今はそんな事を言っている場合ではないと、本能が叫んでいた。

 光流をこのまま帰したくない。傍にいてほしい。

 

 瞳を揺らして見ていた光流は、小さく口を開いた。

 「⋯⋯離れませんよ」

 「えっ?」

 「⋯ずっと、傍にいます。どこに行っても、何をしてても、僕はあなたの傍に」

 その言葉は、目や耳を通って、蓮司の深いところまで真っ直ぐ届いた気がした。

 ――どういう意味なのかとか、ずっとだなんてとか、どこまで本気なのかとか⋯、色々と疑問はあるはずなのに、何も疑う余地がないと思った。

 

 彼の言葉は全て本心で、真実で、揺るがないもの。信じられないほど、信じられる言葉だった。

 「⋯光流、」

 光流のなめらかな白い肌を伝う涙を、そっと拭う。

 彼はボロボロとまるで何かが決壊してしまったかのように、それでも静かに、涙を溢れさせていた。

 

 「⋯あなたといると、すぐに泣いてしまいそうになるんです。触れられてたら特に」

 「⋯どうして?」

 「あなたが⋯好きだから」 

 何にも包まれないで贈られてきた愛に、蓮司は全身が震えた。

 「⋯俺も好きだ」

 小さな身体を再び、そっと抱きしめる。

 ふたつが重なり合って、溶けていくような気がした。




 そのまま駅で解散だなんて、ありえないと思った。そんな不可能な事、いったい誰なら出来ると言うんだ。

 

 幸運なことに彼も同じように思ってくれていたようで、そのまま流れるように彼を蓮司の部屋に招いた。

 「何も無い部屋でごめん」

 無機質で空っぽの部屋。こんな部屋は彼に似合わないと思った。もっと花でも飾っておくべきだったと、今更ながら後悔する。

 「蓮司さん、」

 しかし光流は部屋を見渡すことすらせず、一目散に蓮司の方に擦り寄ってきた。

 「⋯部屋なんてどうでもいい」

 人目が無くなったからなのか、それとも涙を堪えなくていいと決めたからなのか、泣きながら力いっぱい抱きしめてくる彼の身体を、蓮司も思い切り抱きしめ返した。

 「あなたがここにいてくれるだけで、どんな部屋よりも素敵だから」

 こんなにも異質で殺風景な部屋なのに、光流がいてくれるだけで、どこよりも美しい空間になったと思った。



 その翌日、一度帰宅した光流は、荷物を纏めてすぐに蓮司の部屋に戻ってきた。

 そこから仕事以外の時は、まるでこれまでの時間を埋めるかのように、常に一緒にいて時間を過ごした。

 

 「ただいま、光流」

 仕事から帰宅すると、光流はいつも蓮司を迎えに来てくれた。突撃してきそうなほどの勢いに思わず笑ってしまいながらも、その愛しい塊を腕に抱きとめる。

 「おかえりなさい、蓮司さん」

 光流は蓮司の身体をぎゅうぎゅうと力強く抱きしめる。細い腕なのに意外に力が強い彼は微笑ましい。

 「会いたかった」

 「ふふ、ぼくも」

 毎日一緒にいるのに、今朝別れてからたった数時間しか経ってないのに、なぜこんなにも恋しく思ってしまうのだろう。

 胸に埋まっている彼の小さな頭に手を添えて、そっと上を向かせる。宝石のように綺麗で輝く瞳を見つめながら、親指で優しくこめかみ辺りを撫でるた。

 自然と引かれ合うように唇を重ねると、離れていた分を味わうように吸い付く。キスという唇を合わせて他人の唾液を舐め合う行為は、なんて不衛生なのだろうと、する意味が分からないと思っていた。

 しかし、光流とのキスは許されるならいつでも、いつまでもしたいと思うほど心地好いものだった。

 

 「っん⋯⋯」

 一度始めると離すのが惜しくて、深く舌を捩じ込む。唇の隙間から漏れる吐息さえ愛しくて堪らなかった。

 ――その時。

 

 ぐううううぅぅ。

 

 「⋯⋯」

 「⋯⋯⋯」

 「⋯⋯ごめん、」

 「⋯ふふっ」

 空気を読まない自分の腹の音が、廊下に鳴り響いた。

 自分自身に怒りを感じたが、光流が楽しそうにクスクスと笑っていたので、まあいいかと思ってしまった。

 「さ、ご飯にしよう。今日はハンバーグだよ!」

 「ありがとう、楽しみだ」

 光流に手を引かれながら、あたたかな光が漏れるリビングへと入っていった。


 

 彼に出会うまでの自分は、ただ流れる時間の中で、波ひとつ立たない湖のように静まり返っていた。

 ――けれど今は違う。光流といると、心に小さな幸せの波が生まれ、やがて嵐のように全てを塗り替えてしまう。

 こんな自分がいたなんて、思いもしなかった。

 でもきっと、これまでが異常だっただけで、本来の自分はこうなのかもしれないと思った。

 彼の傍にいる時だけ、自分に戻れる。彼は一体何者なのだろう。なぜこんな変わってしまうほど、惹かれて堪らないのだろう。


 夕飯を味わいながら食べて、風呂に入り、寝る準備をして、ベッドへと入った。気に留めたことすらない日々の行動が、光流と一緒だったらどんな事も幸せになってしまうので、たった一人の存在で人はここまで変われるのかと関心してしまう。


 元々家にあったベッドはマットレスの薄いシングルサイズだったのだが、こんな寝心地の悪いベッドに彼を寝かせるわけにはいかないと気付いたのは、初めて彼を家に連れてきてしまった後だった。

 明日速攻で広くて柔らかなベッドを買いに行こうと心に決めて、硬いベッドだが彼に一人で寝てもらい、自分はソファで寝ようとしたのだが、光流はそんなの絶対許さない、と頑なに蓮司の手を離そうとしなかった。

 蓮司がベッドならベッドで、蓮司がソファならソファで寝るという、彼に折れたのはもちろん蓮司だった。

 先にベッドに入った光流に続き、蓮司は電気を消して布団の中に入った。

 ――不思議なことに、彼と共に寝るようになってから、あの夢は一切見なくなっていた。

 どういう仕組みかは分からないが、朝までぐっすり眠れることや、あとは光流による手作りの食事、精神面⋯今の蓮司は今までにないほど健康的で、それだけなく輝きまで放ってまでいる、と言われていた。

 「狭くない?」

 「全然。むしろもっとこっち寄って」

 次の日ベッドを買いに行ったのだが、彼が気に入ったのは入荷待ちで届くまでしばらく時間が掛かるようだった。

 「蓮司さん落ちちゃう」

 「落ちないよ。というか光流が潰れちゃう」

 「潰れないっ」

 届くまではこの狭いベッドに身を寄せあって寝ているのだが、これも悪くなかった。というかむしろ、密着出来ることに心地良さまで感じていた。

 「ふふっ」

 蓮司の胸に抱き込まれるように埋まっている光流が、小さく笑い声を漏らした。

 少し角度を変えて、顔が見えるように覗き込む。

 するとキラキラととろけそうな目と目が合い、思わず心臓が疼いた。

 光流は蓮司とこうしているようになってから毎日毎日、いつでも「幸せで堪らないです」という表情で蓮司を見つめていた。

 これはきっと自惚れではない、と思えるほどのその顔は、見るたびに蓮司の心を幸せで満たした。

 なぜそんなにも自分を好きでいてくれるのかとか、何をそんなに幸せに思ってくれるのか、分からなくて一度尋ねてみたら、「蓮司さんだから」とよく分からない答えが返ってきた。

 (⋯まあでも、彼が幸せならなんでもいい)

 小さな頭を撫でると、光流の瞳は小さく揺れ出す。

 彼によると幸せすぎてしょっちゅう涙が出るそうだが、⋯きっと、それだけが理由ではないだろう。

 (⋯⋯なるべく離れないようにするから)

 

 ――彼が望んでくれるのなら、いつまでも傍に。

 そう思いながら、額に小さく口付けた。




 「⋯そういえば、」

 隣で寝転がる光流の熱い頬を撫でながら、蓮司はふと思いついた疑問を口に出した。

 「君の持っているネックレス、」

 そう言うと、光流の身体はピクっと反応する。

 「⋯あ、ごめん。聞かない方が良かったかな」

 「い、いやっ、そういうわけでは」

 強ばりのようなものを感じたので咄嗟に謝ったが、光流は首を横に振った。

 とはいいつつ、瞳はゆらゆらと左右に揺れている。やはりかなり大事な物に違いないようだ。

 

 数秒してから、光流はゆっくりと話し出した。

 「⋯⋯あれは、僕のお守りなんだ」

 「お守り?」

 光流はベッドの端に置いているジュエリーボックスに手を伸ばすと、中からそのネックレスを取り出した。

 先端には小さな瓶のようなものが付いていて、中には八分目程まで注がれた液体が揺れていた。

 「僕が日々頑張るためのお守り」

 光流はそれを、手のひらの上で大事そうに見つめる。

 誰かにもらったのかとか、なぜそんな愛しげに見つめるのかとか、色々気になった。

 しかしどこまで聞いていいのか悩ましく感じて、声にならずに、少し複雑な気持ちで彼を見ていた。

 

 「⋯誰かにもらったとかじゃなくて⋯、うーん⋯説明が難しいんだけど⋯⋯」

 

 心の中を読まれたかと思い、ドキッとした。しかし、思考の予測からたまたま当たっただけだろうと思い直す。

 「⋯でも、これがあったから蓮司さんと会えたんだよ」

 「そうなの?」

 「うん。だから大切なんだ」

 光流はぎゅっとネックレスを握る。

 「僕の命よりも、ずっと⋯⋯」

 小さな声で聞こえてきた言葉に、蓮司は目を見開いた。

 しかし光流はそう言ったら、力尽きたかのように眠ってしまった。

 

 「えっ」

 このタイミングで寝るのか!?と思ったが、寝てしまったものは仕方ない。

 握ったままのネックレスを、触れていいのか迷ったが、このまま置いとくのも⋯と思い、そっとチェーンを引っ張った。

 案外するりと抜けたそれを、蓮司は瓶の中の液体をじっと見つめる。瓶には見知らぬ紋様があるが、とてもシンプルな造りだ。

 (⋯これになぜそんな価値があるのだろう)

 正直蓮司にはなにも理解出来なかったが、それでも彼がそう言うなら本当にそうなのだろうと思いかけたところで⋯、――彼の命より価値のあるものなんてないと思った。

 丁寧にネックレスをボックスに仕舞うと、光流に胸元までしっかり布団を掛け直す。

 「⋯おやすみ」

 まぶたに唇を落としてから、蓮司は目を閉じた。




 「っぅ⋯、⋯」

誰かの名前を必死に呼びながら、蓮司は腕の中でその人を抱きしめていた。

 温もりはどんどん薄れていき、返事はもう返ってこない。

 胸の奥が張り裂けそうだった。

 

 「……お願いだ、いやだ……」


 何度も、何度も叫ぶ。けれど、その腕の中の人は静かに目を閉じたまま、もう動かない。

 涙が頬を伝い、必死にその人の頬を撫でても、ただ指先が冷たさを増すだけだった。


 「行かないでくれっ……!!」


 叫んだ瞬間、蓮司はガバッとベッドの上で身を起こす。

 乱れた息を吐きながら、目元を手で覆った。

 ただの夢なのに、まだ胸の奥が苦しくて、涙の跡が残っている気がした。

 (またあの夢⋯⋯)

 光流と眠るようになってから、ずっと見続けていたあの夢を見ることはなくなっていたのだ。

 (それなのになぜまた⋯⋯しかも、)

 「⋯⋯彼だった」

 いつも腕の中で死んでゆく人の顔は見えなかったのに、今日は見えた。

 その人は――光流だった。

 

 「⋯なんなんだ」

 こんな事は初めてだった。

 髪の毛を掻きむしりながら、無意識にもう片方の手で、隣にいるぬくもりを探す。

 

 ――しかし、そこに触れるものは、ただの布しかなかった。

 「!?!」

 喉がヒュッと鳴る。隣を見ると、そこに光流はいなかった。

 彼は寝るのが好きで、いつも蓮司より遅く起きるのに⋯。

 「ッ⋯!」

 ベッドを転げ落ちるように飛び出して、リビングへの扉を開けた。

 「光流⋯!」

 たまたま早起きしただけとか、トイレに行ってるだけとか、そういう希望も抱いていた。

 しかし、残念なことに、家中探しても何処にもいなかった。

 

 「⋯っ⋯⋯」

 どういうことだ、どこかに行ってしまったのか、蓮司のそばに居るのがいやになってしまったのか⋯。

 一気にどん底に突き落とされたかのように、様々な悪い想像を思いついては息が荒くなる。

 膝をついて座り込みたくなったが、まだ近くにいるかもしれないと、蓮司は急いで玄関に向かった。

 その辺に掛けてあったジャケットを羽織り、雑に靴をつっかえて、勢いよく玄関を開けた。

 

 「わ!?」

 

 「!?!」

 可愛らしい声がしたと思ったら、光流だった。

 彼はそのままバランスを崩し、蓮司の方に倒れ込んできた。

 それを咄嗟に受け止めた⋯つもりが、蓮司ごと後ろに倒れてしまった。

 「っ⋯!」

 蓮司は盛大に尻もちをつく。

 「大丈夫か!?」

 きっと彼は無傷なはずだ。

 蓮司は自分に覆い被さるように上にいる光流を、ギュッと抱きしめた。

 「⋯⋯はぁ⋯」

 よかった。帰ってきてくれた。まだここにいてくれた――。

 彼の存在を染み込ませるように、深く深く抱きしめる。

 「⋯蓮司さん⋯?どうしたの⋯?」

 様子のおかしい蓮司に、光流は不思議そうに目を丸めた。

 「⋯⋯⋯君が、居なくなったかと」

 「えっ?」

 「朝起きていなかったから⋯」

 光流を抱きしめたまま立ち上がらない蓮司に、光流は戸惑いの表情を見せながらも、ゆっくりと身体を起こす。

 そのまま膝立ちになると、光流は蓮司の頬を両手で挟んだ。

 「⋯どこにも行かないよ」

 光流は、ここにいると伝えるように、頬に優しく口付けてくれた。

 

 「⋯また夢を見たんだ」

 「夢?」

 ――気付けば光流に打ち明けていた。

 「いつも、誰かを助けたかったけど、助けられなかった夢を見るんだ。毎回助けられなかったことを悔やんで、大泣きして飛び起きる。⋯もう何回も見てるのに、いつまで経っても慣れなくて」 

 光流が息を飲む音がする。

 「⋯いつから見てるの?」

 「物心ついた時から毎晩。⋯でもなぜか、君と暮らすようになってからは見なくなってたんだ。だからもう見ないのかと思ってたんだけど――昨日久しぶりに」

 つくづく、この夢に関しては分からない事だらけだと思った。

 「⋯物心ついた時って⋯⋯もう何十年も見てるってこと⋯?」

 「ああ」

 「実は、さっきから顔色が悪いなって思ってて⋯あと身体もすごく冷えてるし⋯」

 「夢を見ると毎回こうなるんだ。君に会うまではまともに眠れたことがなかった」

 「⋯⋯⋯」

 「久しぶりに見たのは、今日は君が隣にいなかったからかな?⋯はは、俺は君なしじゃまともに眠れないのかも」

 冗談で言っただけだが、光流はつらそうな顔をしていた。

 「ごめんなさい」

 「え?いや、そんなつもりじゃ⋯」

 「ううん。⋯ごめんね」

 光流は蓮司の首に腕を回して強く抱きしめる。

 「⋯あなたは悪くないよ」

 「え?」

 「なにも悪くない。だから自分を責めないで」

 光流はそう言いながら、涙を流した。





 光流は珍しく早起きしたので、朝食を買いに行っていたそうだ。

 いつも朝ごはんを作るのは起きるのが早い蓮司だったので、たまには自分も⋯と思ってくれたらしい。

 「そんなことしてくれようとしてたのに、騒いでごめん。恥ずかしい⋯」

 「ふふ。いいよ」

 あの後シャワーを浴びておいでと言われたのでその通りにすると、その間に光流は食事の準備をしてくれていた。

 「そんな大したものじゃないんだけど⋯」

 「君が作ってくれたものなら何でもごちそうだよ」

 「もう⋯。でも、気に入ってもらえる⋯はず」

 何を作ってくれたのか楽しみにしながら、どうぞ、と光流が置いてくれた皿を見て、蓮司は言葉を失った。

 

 「食パンの⋯耳?」

 

 皿の上にあったのは、スクランブルエッグと、パンの耳だったのだ。

 「そう。耳⋯」

 「⋯⋯⋯なんで、」

 蓮司はまっすぐと光流を見る。

 

 「⋯なんで、知ってるの?」

 

 驚いた。パンの耳は好きなものがないなりの自分の、唯一惹かれる食べ物だった。

 なぜか分からないが、昔からこればかり好きで食べていたので、周りからは変人扱いされていた。

 彼に伝えた事も、彼の前で食べてた事もなかったはずだ。それなのに⋯。

 すると光流は口角を上げて嬉しそうに、そしてまた泣きそうな顔で笑った。

 「⋯ふふ。そうかなって」

 「言ったことなかったよね⋯?」

 「うん。でも、分かっちゃうんです」

 言ってないことを知っていたり、心の中を読んだかのようなことをしてきたり⋯光流は本当に不思議だ。

 「なんで分かるの?」

 すると彼は、キラキラ輝く笑顔で、予想通りの言葉をくれた。

 

 「あなたが好きだから」

 

 蓮司は思わず立ち上がり、光流を思い切り抱きしめた。

 

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