空の彼方に愛はある

東城釉々

第1話 出逢いの森

『おはよう』

 

 誰かが優しく、僕のそばにいた。

 

 『⋯、⋯ネル⋯⋯』

 その人は、なぜか僕を名を呼んでいる気がした。

 僕はファルーで、そんな名前は知らないのに⋯。

 でもとても眠たくて、まだ起きたくない。

 だってここはこんなにもぽかぽかあたたかくて、ふわふわなのだ。

 なんて心地が良いのだろう。

 「ん⋯⋯」

 大きな手のひらは僕の頭に優しく触れる。その手はとても気持ちよくて、なんだか安心する。

 撫でてほしくて擦り寄ると、小さく微笑む声と共に優しく撫でてくれた。

 この人は誰なんだろう。こんな人には、これまでの人生で出逢ったことがなかった。

 でも、分からないけど、きっと僕にとって彼はすごく大切な人だ。

 そして同じように、彼も僕のことをとても大切に思ってくれている。

 そう思ってしまうほどの、優しい手つきなのだ。

 

 ――今日こそ、この人と話がしたい⋯!

 

 そう決めて気合いを入れたところ。

 ボトッという音とともに、頬に水滴が落ちてきた。

 

 「つめたっ⋯!」


 その衝撃で瞼を開くと、目の前には誰にもいなかった。視界に入ってきたのはただ暗くて狭い見慣れた部屋。

 ⋯いや、部屋というか、小屋なのだけれども。

 横向きに寝ていた身体を起こして上を見ると、雨漏りによる水がボタ、ボタと床に向かって落ちていた。

 ただでさえ固く冷たい床が余計に心地悪くなってしまうではないか、とファルーはため息を吐いた。


 ファルーはとある貴族に養子として迎えられた18歳のごく普通の少年である。

 ごく普通というのが何を指すのかは分からないが、とにかく何者でもなく、秀でた才能も能力も無い凡人だった。

 ――いや、無いどころかむしろ何をしても怒られるので、凡人にすら当てはまらない劣っている存在なのかもしれない。

 

 「⋯はぁ」 

 自分がもっと素晴らしい何かを持っていたら、今とは違う状況だったのだろうか。もっと見た目が良かったり、頭が良かったり、要領が良かったのなら、養子として迎えてくれた両親も可愛がってくれたのだろうか。

 

 端的に言えばファルーは両親と、その周りの親戚など家の者全体から嫌われていた。

 まだ物心のつかない頃に彼らの元に来てから今までの間で、彼らに対して何かをしてしまった記憶はない。だから正直なぜ嫌われてしまっているのか分からないのだった。

 ファルーはとても大人しく素直で穏やかな性格で、最初は良好な関係を築きたいと、一生懸命彼らに好かれようと頑張っていた。

 でもそれがいけなかったのか、そもそもファルーの存在自体が気に入らないのか――常に彼らはファルーに対して厳しい態度を取り続けた。

 下に弟が産まれてからは余計に酷くなり、今まで通り奴隷のように扱われるだけでなく、暴力まで振るわれるようになった。

 毎日が辛くてもうこんな家は出ていこうと何回も考えたが、彼らは外面だけはとても良いので、近所の人達から"優秀で優しい良い子"だと思われているファルーが家出しただなんて知れたら大変な事になると絶対に許さなかった。

 もう諦めるしかないのだろうと、抵抗したりどうにかしようとするのは辞めた。そうすればするほど彼らの当たりは強くなるからだ。

 日に日に悪化する暴力はそのうち命の危機にまで及ぶかもしれないと思うほどだった。

 こんな状況でもまだ死にたくはないファルーは、いつか変わるかもしれない日々を夢見て、ただただ耐えていた。

 

 床に落ちている雨漏りによる水滴を、着古して今は雑巾となったシャツで拭いていく。

 両親とその弟は立派な一軒家に住んでいるが、弟が生まれてからファルーは二階にあった自分の部屋を追い出され、庭に置かれている物置小屋に住むように言われた。

 防寒対策など何もなく、大雨が降れば雨漏りし、強風が吹けば吹き飛ばされてしまいそうなボロボロの小屋は正直住むには厳しい環境であったが、野宿よりはマシだと言い聞かせて耐えている。

 「そろそろ冬かぁ⋯」

 過ごしやすい秋はもう去りかけており、最近は肌寒くなってきていた。川辺に奇跡的に落ちていた毛布を拾ってきてなんとか寒さを凌いでいたが、年々寒さが増しているので今年も無事乗り越えられるか心配だ。

 「雪だけはあんまり降りませんように⋯」

 心配なのは寒さもだが、雪もだった。

 多少なら大丈夫だが、降り積もってしまうとこの小屋は雪の重さに耐えられないかもしれない。

 彼らが新しい小屋を買ってくれるだなんて考えられないので、なんとかこのボロ小屋には頑張ってもらわなければならないのだ。


  

「⋯それにしても、また今日もあの夢を見たなぁ」

 

 初めてその夢を見たのはいつだったのか。

 正確には思い出せないのだが、かなり幼い頃から、ファルーは同じ夢を見ていた。

 内容は毎回少しずつ違うのだが、出てくる場所や人物がいつも一緒なのだ。

 その場所は雲の上のような白い景色が広がっていて、ぽかぽかして心地よく、人物はファルーよりも大柄の、27歳くらいの男性だった。

 彼は、凛とした印象を与える切れ長の瞳と、繊細な造形の整った顔立ちをしていた。

 中性的な美しさの中に、どこか安心感を覚える優しさが滲んでいて、ただそこにいるだけで心が穏やかになるような雰囲気をまとっていた。

 

 彼は夢の中でいつもファルーのそばにいて、何かと気にかけて世話を焼いてくれたり、頭を撫でたりハグをしたりと、スキンシップをしてくれている。

 それらの行動からは優しさが滲み出ていて、相手をとても愛しく思っているのが伝わった。

 おそらく自分⋯なのだろうが、この甘さで接しているということは、彼の恋人なんだと思う。


  「ほんと、誰なんだろ⋯」

 

 この夢に出てくる男性が誰なのか、ファルーには検討も付かなかった。

 生まれてこのかたこのような経験はしたことがないし、記憶にある限り会ったこともない。

 一時期は願望の現れなのかと思い、良い夢だから別にいいやと気にしていなかったのだが、段々見る頻度が増えて、ここ連日は毎日のように見るようになった。

 流石に願望にしてはリアルな内容で、何か意味があるのではないのだろうか、だなんて思ってしまう程だ。

 とはいえ、最近、身の回りで特に変わったことはない。

 一つ思い付くとしたら日に日に虐待が酷くなっているから、それのせいで現実逃避でもしているという説だが、それもなんだかしっくりと来ないのだ。

 ただの夢なんかではなく、実際に過去に経験したことのような――

 「まあ、なんでもいいんだけど⋯」

 夢は夢であって、現実には関係ない。

 

 ⋯でも、この夢を見ている時だけは、今の辛い日々を忘れることが出来た。

 誰にも愛されることなく孤独に生きているけれど、夢の中の彼だけは自分を宝物のように大切にし、まっすぐに愛してくれる。

 生きている意味や存在価値が分からなくなりそうな時にこの夢を見ると、まだ死んではいけないし、自分は大丈夫だと前向きになれるのだった。

 

 「会ってみたいなぁ⋯」

 

 夢の中の存在に依存するのもどうなのかと思ってあまり考えないようにしていたが、振り返るとファルーはこの夢の中の男性にとても助けられていたみたいだ。

 彼が何者なのかも、この世に存在しているのかも分からないが、もし同じ時代に生きているのなら会ってみたいと素直に思った。会ってお礼が言いたい。

 

 「⋯っ!やばい!行かなきゃ!!」

 のんびりしている場合ではなかった。朝七時までにはアティターン家の所有する畑に行って仕事をしなければならないのだ。

 ファルーは急いで作業着に着替えると、勢いよく小屋を飛び出した。


 


 「ってめぇ、遅ぇじゃねぇか!何してんだ!」

 

 畑に入った途端、大きな声で怒鳴られ、ファルーは身体を縮こまらせた。

 そこにいたのは父親だった。

 農作物の商売はアティターン家の行っている事業の一つで、畑を管理するのも彼の仕事のうちだ。まあ、管理するとはいっても日々の農作業は全てファルーに押し付けていて、たまに見に来てはダメ出しをして帰っていくのだが。

 「し、7時にはまだ⋯」

 時計を見ると今は6時45分なので、就業開始時刻である七時まではまだ時間がある。

 しかし、それを聞いた父親は顔を大きく歪めた。

 「うるせぇ!お前はそんなの関係なく早く来たらいいんだよ!」

 「っ⋯!」

 胸ぐらを掴まれたと思ったら、ドンッと後ろに強く押される。畑の上に尻もちをついてしまい、慌てて立ち上がろうとしたがうまく力が入らなかった。それでも、なんとか農作物は避けて座りこんだ。

 「おい!野菜踏んでんじゃねーよ!!」

 「もっ、申し訳ごさいませっ⋯!」

 「お前がそんなんだから野菜が売れねーんだよ!もっとちゃんと働けこの野郎!!」

 「う、っ⋯!」

 腹のあたりを蹴られ、痛みにファルーは蹲った。

 

 最近のアティターン家の農作物の売上が良くないらしく、父親は以前にも増してイライラしていた。

 ファルーの予想では利益を欲張りすぎているが故に価格設定を見誤っており、その上最近新規参入してきた農産会社が、お得かつ質の良い野菜を売り出したらしい。そちらに客を取られているのだろう。

 ファルーは自分の作っている野菜には誇りを持っており、その会社の野菜にも負けない自信がある。

 実際アティターン家の野菜はとても美味しいと評判なのだが、それでもあまりにも高いと売れなくなってしまう。

 国全体的に貧困化が激しく、殆どの国民はあまり金銭に余裕がないので、売れないのは仕方がないと思っていた。

 愛情込めて作った野菜が売れないのは悲しいが、ファルーが口出しできる領域ではない。

 自分が出来る事は、一生懸命野菜の世話をして、それを一人でも多くの人が手に取り、少しでも美味しく食べてくれますようにと祈るだけだった。

 そう考えながら身体を丸めて何度も与えられる痛みに耐えていると、飽きたのであろう父親は舌打ちをしてから畑を出ていった。

 

 「っ⋯⋯」

 軋む身体をゆっくりと起こして、ふぅと息を吐く。

 無意識に潤んでいた瞳は、少し葉がくたった野菜を視界に入れた。おそらく先ほどファルーが尻もちを付いてしまった所だろう。

 「⋯踏んじゃってごめんね、痛かったよね」

 かすかに震える指先で緑の葉を撫でる。

 野菜の様子を見ると、踏んでしまったが特に大きな問題は無さそうで安心した。

 

 「大丈夫⋯だいじょうぶ⋯⋯」

 

 この踏まれても平気な野菜と同じように、きっとファルーもこれくらい大丈夫だ。

 どれだけ痛くても、悲しくても、これくらいでは死にはしない。身体の作りは意外と頑丈なのだ。

 「⋯大丈夫」

 未だ痛みに震える身体に、染み込ませるように呟く。

 ファルーは気合を入れるように両頬を叩くと、作業をするために立ち上がった。



 「⋯ふぅ⋯」

 なんとか日が落ちる前に、今日までに進めたかった作業を終えることが出来た。

 「お腹空いたな⋯」

 そう呟きながら小屋へ戻ると、扉の前に箱が置いてあった。

 いつもファルーが畑にいる間に、屋敷にいる使用人が持ってきてくれているようだ。

 中身はいつも通り水とパンと冷めたスープで、これがファルーに与えられる毎日の食事だった。

 「こんなんじゃ足りないよ⋯」

 泥の付いた作業着から普段着の薄汚れたシャツとズボンに着替えると、パンを一つ手に取り小さく齧った。

 一日一回のこの食事は、ただでさえ育ち盛りのファルーには到底足りる量ではない。栄養の事なんてもう考えたくもなかった。

 出来る限り噛む回数を増やして満腹感を得ようとするが、気付けば丸呑みするかのように食べてしまっていた。

 仕事後の疲れた身体はとにかくエネルギーを欲しているのだろう。味のしないスープもあっという間に飲み干し、貴重な楽しみである食事タイムは早々に終了してしまった。

 「⋯ごちそうさまでした」

 まあでも、食事をもらえるだけマシだった。少量とはいえ何も無いのに比べると段違いだ。

 

 ――いつか湯気の出る温かいご飯を満腹になるまで食べてみたい。

 それがファルーの夢の一つだった。これが原動力だ。

 

 「よし!」

 ここからは自由時間だ。

 ファルーは小屋を出て食事が入っていた箱を元通り扉の外に置くと、どこか弾むように歩みを進めた。



 ファルーには、お気に入りの場所があった。

 それは街から外れた森の中で、森の中でも小さな穴を通り抜けて、少し奥まったところにあるためか、他に人がいるのを見たことがなかった。

 鮮やかな緑に囲まれ、綺麗で澄んだ湖がキラキラと光に反射している。

 ファルーは出来る限り毎日この森を訪れていた。

 仕事が終わらなかったり、何かあって来れない時は仕方ないが、どんなに疲れていてもなるべく来るようにしていた。

 ――なぜならここは、ファルーが落ち着ける唯一の場所だからだ。

 この場所に来てゆっくり出来るから生きていられると言ってもいいくらい、ファルーにとって大切な時間だった。


 すぅ、と息を吸い込むと、喉を鳴らして音を紡いでいく。

 ファルーは歌うことが大好きだった。

 歌える曲は数曲あるのだが、それらは曲として聞いたことがなく、いつ覚えたのかも分からないものだった。

 それなのにちゃんと歌詞まで頭に入っているのが不思議なのだが、結局今でも理由は分からないままだ。

 前に音楽店で調べてもらった事もあるのだが、どの曲も存在しない曲だと言われた。

 

 ――「何が起きようと 僕の気持ちは変わらない♪」

 ――「僕にはあなただけ あなたしかいらない♪」

 

 記憶にある曲は全て、愛のバラードだった。

 相手のことを心の底から大切に想っているのが伝わる歌詞は、少しくすぐったくなってしまうほど熱烈だ。

 でもこんな風に誰かを愛したり、愛されたりするのはとても幸せなことだと思う。

 自分には全く縁がないけれど、こんな風に世界のどこかで幸せな時間を過ごしている人たちがいるのかもと思うと、素敵だなとほっこりした気持ちになれた。

 

 ――歌いながら、ふと夢の中の男性の事を思い出す。

 彼のあの優しい手付きと雰囲気は、この曲たちにピッタリだと思った。

 きっと彼はこんな風に想ったり想われたりして、蜜月の時を過ごしているのだろう。

 いいなぁ、と素直にそう思っていると――

 どこからかガサガサと音がしている事に気が付いた。

 

 この森には動物も多いので、それかな?とあまり気にせず歌い続ける。

 音は段々と近付いてきて、すぐ後ろまで来たようだ。

 ――でも、遭遇したことはないが、熊とかだったら流石にまずい⋯そう思って振り向くと、そこには一人の若い男が立っていた。

 

 「⋯⋯え?」

 

 予想外の人物の登場に目を見開き、歌は途切れる。

 

 ――嘘でしょ⋯?

 

 頭の中で色々な疑問が生まれるが、言葉に出すことが出来ずただ呆然と男を見る。

 男はとても端正な顔立ちをしていた。

 キリッとした太めの眉に、くっきり二重を揃えた切れ長の目。短髪の黒髪で、前髪の左側を軽く立ち上げるように分け、流れるように整えられている。

 まるで絵本から飛び出してきた王子様のようなハンサムなその男性は、

 

 ――ファルーが夢で見続けていた、彼にそっくりだった。


 「え⋯⋯⋯?」 

 「⋯⋯⋯⋯きみ、⋯」


 どういうことなのだろう。 

 ファルーは驚きと戸惑いで混乱し、固まった。

 しかし、それはファルーだけでなく、彼も同様に目を見開いていた。


 その表情の意味は、なに⋯?

 ⋯そう思った瞬間、男の整った唇が動く。

  

 「⋯こんなところで、何をしている」

 

 発せられた静かで低いその声は、どこか鋭く感じて、ファルーはハッと正気に戻った。

 「もっ、申し訳ございません⋯!」

 見とれている場合ではなかった。

 何に対しての謝罪なのか分からないが、反射的に頭を下げた。 

 男はファルーでも分かるような高価で仕立ての良い物を身に着けていた。きっと金持ちに違いない。

 もしかしたら、ここは私有地だったりするのかもしれないと思った。

 「⋯⋯」

 男は黙ったままファルーに近付いてくる。

 顔を見ても無表情で何を考えているのか分からず、ファルーの心臓はバクバクと音を立てていた。

 「ご、ごめんなさい!っも、もう来ないのでっ⋯、お許しください、っ」

 卑怯かもしれないが、怒鳴られる前に逃げてしまおうと思った。

 毎日のように怒声を浴びているとはいえ、何度経験しても慣れないし怖い。今回は本当に自分が悪いけど、許されるならなるべく怒られないでいたい。

 震える足をなんとか動かし、その場を去ろうとすると、グイッと腕を引かれた。

 

 「待て」

 「っあ、」

 

 大きな手が力強くファルーの腕を掴んで離さない。

 ――やはり許される訳がなかった。逃げようだなんて不誠実な事をしたから余計に怒られるかもしれない。

 これは罰なんだと覚悟を決めて、ファルーは自分より背が高い男に向き合った。

 「ごめんなさ⋯」

 

 「さっきから君は何を謝ってるの?」

 

 「⋯えっ?」

 先ほどまでの縮こまってしまうような雰囲気は消えて、淡々としてはいるが棘のない声色にファルーは驚いた。

 ――怒ってはないのだろうか⋯?

 恐る恐る顔を上げると、男と目が合う。

 

 ――その瞬間、時が止まったかと思った。

 

 エメラルドのようなその瞳はとても綺麗で、一気に引き込まれるような感覚に陥った。

 

 (この目⋯知ってる)

 

 不思議な感覚に、ファルーの蒼い両目が揺れる。

 知ってるというのは、夢で見ていたからではない。

 本当に過去に、彼に見つめられた記憶があるような感覚。

 そう、この感情に名前を付けるとしたら――懐かしい、だ。

 

 ぶわりと感情と共に何かが迫り上がってきたと思ったら、ぽろりと一筋の雫が頬を伝っていた。

 「⋯⋯!?」

 我に返ったファルーは慌てて男から離れて涙を拭った。

 なぜ突然自分は泣いているのだろう。この涙の意味は一体なんなのか。

 突然泣いたら変に思われると思い、上手く誤魔化せるか心配になりながら、ゴシゴシと目元を拭ってから男を見る。

 するとなぜか、彼も惚けたような顔をしていた。

 

 「⋯あの⋯?」

 いまだ固まる彼にそっと声を掛けると、ハッと意識が戻ってきたかのように目を見開いた。

 「⋯っその⋯、君は?ここで何を?」

 「あっ、えっと⋯⋯ここ、僕のお気に入りの場所で⋯たまに遊びに来てて――あのっ、入ったらいけない場所だったのならごめんなさい!僕知らなくてっ⋯、それならもう来ないので、どうか許してください⋯!」

 頭を下げると、男は少し慌てるように手を動かした。

 「ああいや、ここは別に私有地でもないし、君が謝る必要はない。――お気に入りならこれからも来たら良い」

 「っほ、本当ですか⋯!?」

 唯一の安寧の場所が奪われなかった事に全身の緊張が解け、心底ほっとする。

 「良かったぁ⋯」

 ここに来れなくなったらどうしようかと思った。ファルーにとって、唯一の安らぎの場なのだから。


 「いつもここで何を?」

 「特に何かをしている訳ではないのですが⋯⋯歌を歌ったり、湖の水に触れたりしてリラックスしてます」

 「近くに住んでるの?」

 「はい。少しだけ距離がありますけど、歩いてこれます」

 なぜだか沢山質問してくるなと思いつつ、答えていく。

 「――ここに来ると安心出来るんです。どんなに辛くてもここにいたらその気持ちが消えていって、明日も頑張ろうって思えるんです。だから仕事が終わったら来れる時は毎日来てます」

 気付いたらベラベラと話している自分に驚く。あまり口数が多い方ではないのに。

 「仕事は農作業?」

 「え?」

 「土が付いてる」

 「あっ⋯」

 男はファルーの頬に触れ、土を拭う。

 突然触られてビクッとなってしまったが、気付かれていないことを祈った。

 「あ、ありがとうございます⋯そうです。家の畑で野菜を作ってるんです」

 「そうか、えらいね」

 土を拭ってくれていた手が頬を撫でるような優しい手つきに変わり、ファルーの心臓が小さく跳ねた。

 ――こんな風に優しく触れられたり、褒められたりしたのはいつぶりだろうか。もう思い出せないほどだ。

 「あっ、あなたは?何をしてるんですか⋯?こんな奥まった場所に来るなんて⋯」

 ドキドキして耐えきれなくなってきたので、慌てて話題を変える。

 「俺は息抜きとして散歩をしていたら、何か音が聞こえてきて⋯気付いたらここに。こんな綺麗な場所があるなんて知らなかったよ。それにまさか人がいるなんて思わなかったから警戒してしまった。驚かせてしまったよね、ごめんね」

 「い、いえっ⋯!」

 「俺が聞いた音は君の歌だったんだね」

 そうだ、歌を聞かれていたことを忘れていた。思い出した途端とても恥ずかしくなってきた。

 「すみません、あんな下手な歌なんかを聞かせてしまって⋯⋯」

 誰にも聞いてもらった事は無かったが、何をしても怒られる自分に才能なんてものはないと勝手に思っていた。

 すると彼は目をまん丸とさせた。

 「下手?まさか」

 まるで、君は何を言っているの?と言うような表情に、今度はファルーが目を丸くした。

 「物凄く上手いよ。天使が歌ってるのかと思った」

 「⋯てんし?」

 「俺はあまり歌に興味がなかったけど、君の歌ならもっと聞いてみたい。それくらい上手なんだから自信を持ってほしい」

 「⋯はあ⋯ありがとう⋯ございます⋯?」

 なんだかよく分からないが、とても褒められたようだ。⋯でもひとまず、不快にさせていないのなら良かった。

 「君さえ良ければ、またここに来てもいいかな?俺も気に入ってしまって」

 その言葉にファルーは目を輝かせた。

 「本当ですか!?ぜひ来てください!」

 「ありがとう。普段忙しくてあまり来れないかもしれないけど、来れた時は話し相手になってくれ」

 「もちろんです⋯!」

 まさか人間の森仲間が出来るなんて考えてもいなくて、ファルーは胸を高鳴らせた。

 しかもただの感じの良い人ではなくて、何か他の人とは全然違うような――不思議な感覚になる人。

 彼のことをもっと知りたかったから、また話したいと思ってくれて嬉しい。

 

 「そういえば君、名前は?」 

 尋ねられてやっと、まだ名前すら名乗っていなかった事に気が付いた。

 「えっと、ファルーです」

 「ファルー、」

 「⋯あなたの名前も、聞いてもいいですか?」

 ファルーの質問に男は少し固まった。

 あまり深く考えず流れで聞いてしまったが、もしかしたら失礼だったかもしれない。

 「⋯あ、ごめんなさい、」

 「いや、すまない。⋯ルアンだ」

 「ルアン、さん⋯」

 ファルーが呟くように呼ぶと彼は頷いた。

 固まった理由が気になったけど、聞けるような雰囲気でも間柄でもない。この人も何か事情があるのだろう。

 「⋯っと、まずい。もうそろそろ行かないと」

 ルアンは腕に巻いてある高級そうな時計を見ると、なんだか名残惜しそうにそう言った。

 ファルーもなぜか離れがたくて、つい引き止めてしまいたくなる。

 

 「⋯⋯そういえばさ、」

 彼は空を見上げると、少し悩むような顔をしてから、口を開いた。

 「俺たち、どこかで会っ⋯⋯」 

 「⋯⋯?」 

 「⋯⋯⋯⋯いや、なんでもない」

 「⋯⋯え、⋯」

 何と言ったのか、ハッキリと聞こえなかった。分からないけど、すごく大事なことを言っていたような⋯。

 「それじゃ、ありがとう。またここで」

 「あ、はい、⋯また」

 しっかりと目を合わせてから、ルアンは急ぐようにこの場を去った。

 

 ファルーは後ろ姿を見送る。

 姿が見えなくなっても、しばらく目を離すことが出来なかった。

 

 「⋯⋯」

 なんだか不思議な体験だった。

 彼が夢で見た人物そっくりだったのは、偶然なのか、なにか意味があるのか⋯⋯なにも分からない。

 

 「⋯ルアンさん」

 それにしても、久しぶりに誰かに、あんな穏やかに会話してもらった。

 それだけでなく優しくしてくれたり、褒めてくれたりまで。嬉しいのに慣れなくてむずむずしてしまう。

 「⋯また会えるかな⋯」

 

 こんな自分にまた会いたいと思ってくれただけで、空を飛べそうなくらい胸が熱くなった。

 頭と身体がふわふわしているのを感じながら、ファルーは家へと帰って行った。

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