⑥宵越しの柚子がひとつ

「せんさろ君」

「……千砂郎だ」

「ううん、せんさろ君だよ。だってわたし、まだきみのことをよく知らないから。よく知ることができたら、ちゃんとまっすぐに呼んであげるね」

「……そりゃどうも。ご勝手にしてくれ」


 細かく揺れる灰色の双眸が俺を刺している。今日の曇天と縦に割った二つの瓜のようにそっくりであるその色は、柚生の肌や髪色と、彼女の制服を足したまま薄めないような色だった。

 昨日の通りにきわめて距離感が近いため、少しつまずけば俺のほうへと倒れてきてしまいそうだ。顔に沿う冷えた手からは低迷する恒温が感じられて、したらば今身につけている黒色のセーラー服が、夏物か冬物かも分からない。

 けれども、冬物である場合の厚みを加味しても、柚生の身体は手折れる若枝ほどの細さしかない。骨ばった手先と手首がそれを明るみにしていた。


 傍には妖しく頬を弛ませる立騎がいて、顎に掌底を射し込む仕草をしてやると、大袈裟なくらいにる仕草でおどけた。

 ほのかにうめいたからか柚生もそれの理解に至り、似たような仕草で仰け反るフリをし、先程まで座っていた立騎の席へと腰を下ろす。

 どこか我が物顔である様子なのは、囂々ごうごうとうるさい俺の罪悪感を手のひらにしているつもりであるからだろうか。そのように感じて仕方がない。

 窓の外には梅雨を誘う温い風が、俺との距離をとるようにそよいでいた。


「柚生は確か、『3組とは関わりがない』と言っていたよね。けれども8組を離れてここにいるということは、朝も早くから誰かに用件でもあったのかい?」

「立騎、すごくえてるよ。あとで柚子をあげるね」

「お、それは嬉しいね。柑橘系は八朔がいちばんだと思うけれど、柚子の香りも傅くほどには好ましいからね。割いて搾ってシャーベットに混ぜ込むと、透明からは距離を置くように濁っている筈なのに、透くように清澄で甘美なものだから」

「ふふ、まあ柚子の旬まであとひと月はあるから、まだスーパーにも八百屋にも並んでないんだけどね」

「……だな。青柚子あおゆずの旬は夏場だ。でも世間に膾炙かいしゃされた味と色合いは黄柚子きゆずのほうだろうし、第一甘党のお前には黄柚子のほうが嬉しいだろ?」


 立騎は昔から1食に数枚のチョコレートに食傷しょくしょうを覚えないほどの甘党であるから、甘ければ甘いだけドーパミンか何かが出るだろう。故に糖分をこよなく愛しているのは明白だ。

 それに、弁舌一本で小景部に居座ろうとしているのであれば、その糖分とは柚生にとっての間合いを把握する白杖で、知端さんにとっての絵を描く絵の具のようなもの。


 傍から見る〝俺〟とはせいぜい〝撥条のメンテナンスを行っている作業員〟で、けれども大それた油を差しているようにも見えない、何ならその油を売り捌いているようにすら見える木偶だ。身近にいる立騎にんげんはそうは囃さないだろうが。

 そんな、自分の撥条に合った油も探なさい、探したとて元より甲斐のない俺だ。破れ鍋に綴じ蓋と誰かが宣っていたような気がするが、こんな不格好な鍋を綴じなければならない蓋が不憫ふびんでならない。


「せんさろ君も、柚子がほしい?」

「……今はないんだろ。数ヶ月後に渡されても、咄嗟に返せるのはクエスチョンマークがひとつだけだぞ」

「千砂郎は気が利かないなあ。ちょっとだけ頭を捻って少し理科室に脚を運べば、温かい柚子湯が作れるというのにさ」

「余計な叱責は御免だね。ウチの学年の化学教師は気難しいし、融通の二文字を知らないだろ。加えて俺は理系科目が抜きん出てるわけでもない。起こり得ない可能性もあった補習プリントにシャープペンシルを走らせるなんて真っ平だ」

「まあ、確かに一理あるね。比較対象が千砂郎であるのなら、あの先生は融通が利かないと評していいと思うよ」


 どういう意味だ。昨日も今日も、俺にしては蛮勇製の融通を見にまとえていると思うんだが。お前にはこのささやかな羽織はおりが見えないとでも言うのか。

 けれども〝馬鹿には見えない服〟と扱き下ろせばどうせ言い負かされるので、無謀むぼうと思い口を噤んだ。


 2人は俺に何かを話しかけてきているような気もするが、生憎どうにも上の空だった。謝らなければいけないのは重々理解していて、だからこその痒さが表皮を雷霆らいていのように走っている。

 ひび割れて血管が息を始めるまでがタイムリミットではあるものの、痒さ痛さを我慢するほうが幾分俺には気が楽で。

 喃々なんなんむつまじく談笑する2人……この2人に限っては、今この時も俺が会話に入っているように思っているのだろうが、残念ながら俺の目の先には窓がある。雲がある。曇り空がある。


 カラフルネスとは程遠い曇天は痣を癒してくれる。

 青空から青を引いて灰色のフィルターをかけたような曇り空の真ん中。歌人があまねく空に絶佳ぜっかを覚える理由が、少しだけ噛み砕けたような気がする。


「せんさろ君」

「……なんだ」

「やっと返事してくれた」

「……いい加減にバツが悪いんでな。会話の内容はうろ憶えだが、今できる限りの返答はする」


 にやと口角を上げる柚生の顔立ちは気が引けるほどに整っていて、今俺がシャッターを切るだけで有象無象の写真家を牛蒡抜きにできるという確信がある。

 けれども上の空による無視がこたえていないのか、まるでさっきまで俺と会話していたかのような声調で柚生は喋りだした。


「せんさろ君のいま見てた空が、今日のいちばんの小景かな」

「さあな。俺は小景部の部員じゃないから、その日いちばんの景色を態々記憶しておく必要はないんだ。ページ端のコラムにすら載せる気はない」


 部員じゃないから義務などない。第一、義務は千鈞せんきんかせになり得るし、持つだけロクなものじゃない。早々に手放すか、はなから持たなければいいのだ。

 そうやって生きてきたのだから、これを俺なりの美学と嘯くことだって悪くはない。昨日逃げ出したのだって、美学に反するからだ。きっとそうに違いない。

 逸れたから戻っただけ。袋小路に入らないようにしただけ。大木が風に煽られて折れていたから、回り道をしただけ。


「ふふ」

「……俺の顔でも可笑しいか?」

「ううん、全部可笑しいよ……!」


 警戒していたやぶから石槍で突かれた気分だ。

 けれども、石製の穂先ほさきは特別冷たくはない。突きはされたが、放されてはいない。血だって、刺された場所からとめどなく溢れていると思っていたが、赤よりも黒いそれは柚子の香りを放っていた。


「っふは、千砂郎が女子になじられてる……」

「……どういう狙いなんだ、柚生おまえは。全部っていうと全部だぞ。顔だけじゃなくて全部。組み上がった俺の旋毛からかかとの垢まで、総じて可笑しいって意味合いになるが」

「うん。だって空を見るせんさろ君、昨日ノートにペンを走らせてたときとおんなじ色をしてるんだもん」


 色。いろ。色とは可視光線で、ナノメートルの波長の中で決まるもの。


 俺は訊きたくなった。色づくなんて真っ平だ。

 一縷の情けもない透明でありたい。何ひとつ誇れない透明でありたい。じゃないと、今までカラフルを避けてそれとの間に防火扉を閉めていた俺の努力が無駄になる。

 そうだ、きっと昨日だってこれが嫌だったんだ。自分の嫌いだと嘯くものと融解して、知らぬ間に自分に馴染ませていることが、額に入れて飾られた俺なりの美学に泥水を吹っ掛けるみたいで、居心地が悪かったんだ。


 だから、俺は色づくことを避けた。

 それなのにこの、モノトーンでカラフルな柚子しょうじょは。


「……はあ。どんな色だ」

「うーん、ごめんね。正しい色は分からないかも。わたしはね、物心ついた時からずっと景色がしらんでるんだ。あんまり目だってよくないの。だから、せんさろ君や立騎の目に映るような色じゃ説明できないよ」

「……俺は生来患っていないし、刷ってくれないとその白み方は分からん。色が数多あるのなら、それを見る人の視界だって幾億万とある筈だろ。俺や立騎が見るような広く一般の目に映る正しい色じゃなくてもいいから、柚生から見た俺の色を教えてくれ。白んでても、薄ぼけててもいいから」


 思えば、証明に困っていた。人間なんてのは絶え間なく影響される生き物で、好んだ相手と同じように動き、嫌った相手と違う歩き方をする。

 防火扉くらい厚いと自称するもので隔てているのだから、当然俺は誰のことも見られない。


 俺すらもひと目見ない、俺という色は何色だ?


 色づくとは、誰かの色を真似ること。けれども誰かに似た道を歩いたとて、それは無二の愛嬌になるのか。脾肉ひにくるほどに走りきるまでに、誰かが愛嬌を覚えてくれたら幸甚だが。


「白い砂みたいな色だよ」

「……白い砂?」

白砂はくしゃのことかな? 夏場も冬場もよく映える、海浜公園の副菜とも言える熟れた砂浜の色、とオレは解釈してるね」

「あ、そんな名前があるんだ。じゃあこれからはそう言うことにするね」

「……うん、まあそれでいいとして、それで話を進めるとして、でも白砂の色なんだろ。白いノートに書き記したら流暢に読み難いじゃないか。第一、俺が昨日使ったペンはそんな奇を衒った色じゃない。鉛筆よりも濃いだけの月並みな黒だぞ」


 白は百を超えるグラデーションを抱えているらしいが、けれども噛み砕けば白だ。他の色に近しいことを前提としてしまえばそれは白ではなく寄った色のほうになるだろうし、だからこそ白いノートに記されたその文字の色が目立つなんてことは万に一つもない筈。

 ましてや、柚生は間違いなく弱視を伴っている。そんな視界の中で九分九厘が同じの2色を見極めるなん至難の業だろう。

 彼女には一体何が見えていたというのか。白杖がお飾りのひとつでないことなんて状況証拠から見てもあからさまだ。それにうたぐって掛かるなんてのは倫理道徳に唾を吐くような行為で、柚生が裂傷をつくりながら歩いてきたであろう荊棘けいきょくの道をないがしろにすることと同義だ。


 だからこそ分からない。昨日、そして今、柚生は俺に何を見ているのだろうか。

 唐変木で意固地な一面を可笑しいと評されるのは容易く理解できる。ただ、それは俺が多彩な人間を目の当たりにした時にしか滲み出ないと自覚している。


 いや、そも柚生が昨日と同じと言ったのは、曇天を無為に見つめる俺ではなかったか。撓り疲れて、拠り所として羽を休めるために見つめた曇天。

 そして昨日の俺は差し引きマイナスだが、差し引かなければプラスであった。そのプラスは、己が心に刻まれたいちばんの小景を追懐しながらカンニングペーパーをしたためている最中ではなかったか。前向きに色を求めた暫しの時ではなかったか。


 柚生は、思考に耽るさまにこそ色を見た?


「……お前は、オーラか何かが見えるのか?」

「ふふ、やっとみんながみんな見える色じゃないって気づいた。せんさろ君はかしこいね」

「えっ。柚生、本当に見えるのかい? いや、いずれ顰蹙ひんしゅくを買いそうなのは分かってるんだけど、見えるのなら色々と設問を投げてみたいんだ。根っこを掘り返せるようなもの……いや、シャベルも何も要らないか。透いて見えるんだもんね。いやあ、それなら昨日の演技の完成度にも合点がいくね。葉脈の1本1本に悲哀と希望を見たのではなくて、それを構成する師管や道管まで、果ては流るる水分や養分までをも観測できたのだから!」

「ふふ。立騎、あついよ、あつい。あんまりだと、またせんさろ君にお口縫われちゃうよ?」


 俺を推定有罪にするな。弁護を頼める友人うしろだてもいないんだから。再犯なら殊更ことさら印象が悪い。


 いいや、それにしたって。驚嘆きょうたんに近しい唸りが口角から漏れる。柚生の発言というものは思ったよりもスピリチュアルな本質であったらしい。

 疑懼ぎくの念なんぞ抱くが野暮だと思うのは、この風貌や声調、言葉遣いが影響を及ぼしていると言って過言ではない。

 信じ込ませるだけの木材2つは既に巧みに組まれており、どう引いてもぴたりと嵌って離せない。


「おっと失敬。いやあ、陽に射されると少し熱くなっちゃう手癖があるもので。折角お天道様が誂えてくれた熱なんだから、使わないのも躾が悪いだろう?」

「……今は雲間も見えない曇天だが」


 こうも仄暗い曇天だというのに、変わらず立騎の顔には光が差しているかのように明って見えた。

 浴び続けているのにもかかわらず、一切のくらみも見せずに喋々ちょうちょうとした様子から瓦礫がれきひとつも崩さないコイツの底知れぬ色味からは目を背けておこうと思った辺りで、柚生は続けるように口を開いた。


「わたしはね、目があんまりよくないんだ。ずっと白んでてきれいに見られないし、顔が分かるのは近づいてやっと。できればそれもたくさん憶えたいから、いつもぺたぺた触っちゃうんだ。えへ、人の顔ってでこぼこしてて面白いよね」

「……その代わりに、オーラ……なんだ、第六感って言うのか? そういう、本質に対する犀利な観察眼が長じていると?」

「そうだよ。って言っても、そんなに便利じゃないかもね。どんなに頑張っても、あくまで雰囲気だけ。〝この人好きだな〟〝この人とは合わないかな〟っていうのが分かるくらい。すごくわたしの主観が染みてるんだ。公平でも平等でもないから、意見を求められたときには使いものにならないよ」

「……柚生の五感は、それを含めて五なんだろうな」

「そうだよ。ずっと補助輪を外せないの。……ふふ、補助輪なんてたとえは可笑しいね。ずっと目がよくないから、自転車なんて乗ったことないのにね」


 白飛びした写真が放つブラックジョークに言葉が詰まる。何と返すのが正解か、はたまた何も返さないことが最適解か。

 平時は口軽な立騎だが、こと地雷を踏み抜かないことに関しては瞠目とうもくもののコイツが言うに事欠くことはない。難題はやはり俺の一挙手一投足で、どうしようもなく投げかけたくなる綺麗事を呑んでは気道に詰まらせた。

 二つほど、形而上けいじじょうの咳をつく。


「あー、なんだ、その。お前に第六感があるのは分かった。お前に変な期待や羨望を向けるのも不謹慎……いや、お門違い……不躾?」

「ぜんぜんいいのに。さっきも言ったけど、わたしだけのおしゃれなフィルターだと思ってるからね。健常な人がとっさに見たくないものを見ちゃう時も、わたしはぼんやりとしか見えないし。ほら。たくさんいいところもあるんだよ?」

「千砂郎、沈黙は金だよ。純然たる金さ。556グラムをもくするだけで手に入れられるのが世の常なのだから、千砂郎もそうするに越したことはないね」

「沈黙は金、ね……」


 立騎はそう宣って、6グラムの金でコーティングされた円盤状の銀塊に八重歯で噛み付く仕草をする。薄らぼんやりとそれを感じ取ったのか、柚生が露骨に嗚咽おえつのようなものを零し、洟水はなみずを啜る真似をする。ああ、そうだな。他所様が得たメダルを噛むなんて言語道断だろうに。


「……悪かった。黙してきんを得ることにするよ」

「でも、雄弁ゆうべんは銀なんだよね。せいぜい6グラムの金が貼られているか否かの違いなんだから、オレは変に飾られていない銀を欲しがりそうだよ。一言居士いちげんこじと言われたら返す言葉は見つからないけど、どうやら雄弁というもの自体はオレの専売特許らしいからね」

「……言葉遊びの時間だったか?」

「そっか、雄弁は銀なんだ。沈黙は金で……じゃあ、銅はやる気かな。わたしは、舌がもつれることがなかった、もつれても必死に喋るようにした。そんな、ひたむきにがんばった人にあげたいなあ」

「……なら、ここの3人じゃ表彰台のどこに立つかの諍いは起きないな。俺がせいぜい空回った銅で、立騎が銀、そして柚生が金メダルだ」

「わたしが金かあ。嬉しいな、せんさろ君と立騎と一緒にメダリストになれるなんてね」


 黙して金を齧ってみせると夢を見たら、この先冷めることのない盟約めいやくのようなものが舌先に乗った。味はどこか金属臭くて、せいぜい人がじかに舐めるものじゃない。

 それに、それは変貌してゆく。メッキが剥がれていずれ黒ずむ銀が顕になる。沈黙は金だが、恒常的な沈黙はしかばねのソレと大差ない。息を吐いているだけで〝生きている〟と認められるのは時代柄難しい筈だから、定期的に口を開いて声帯を締めて、かなければいけない。


 雄弁があってこそ、沈黙が映えるのだ。

 俺には雄弁が要る。そして、雄弁を宣うだけの度胸と積極性が要る。色を恐れない勇ましさが要る。


「そうだ。銅はやる気、銀は雄弁、金は沈黙なんだよね。それじゃあ、白金プラチナは何なんだろうね?」

「うん、確かに悩ましい。やはり金よりも希少性に富んだ金属であるからして、沈黙よりも場に然るべき発言、或いはそれ以上の沈黙か……悩ましいね、本当に。然り乍らも柚生、キミの双眸は結論を導いているようにうかがえるんだけど、オレの推量は正鵠を射ているかい?」

「どうかな。せんさろ君は分かる? わたしが分かったか、分からないか」

「……俺に第六感はないさ。手鏡でも見たらどうだ、求める解を示されるかもしれないぞ」


 返事の傍ら、手癖となっていた窓のほうを見る仕草が噯気おくびのように漏れ出た。いやはや、少し晴れ間が出てきたか。厚い灰色を差していたこの星は、煌々こうこうと照るお天道様と隔てられたことが心悲うらがなしくなったらしい。

 そんな灰色を少し削ぐように生まれた晴れ間を眺める俺とは、会話もそこそこだ。無碍むげに等しい閑却かんきゃくな空想へと馳せていた。


「立騎、せんさろ君って時々ノリが悪くなるね?」

「千砂郎は自分色の強めなサーフボードで波に乗っているからね。二兎追うものは一兎も得ずと言うけれど、それはやはり一兎一兎の個体に差があるから。自分が乗れそうな波にしか乗らない、自分の実力相応にたくましい兎しか追いかけない。それが遊佐ゆざ千砂郎せんさろうという人間さ。それを念頭に置いておくと、千砂郎との日々はたちまちに、もっと面黒おもくろいものへと姿を変えていく筈だよ」

「さすがは菊田きくた研究員。不肖若枝わかえだ柚生ゆずき、これからも邁進まいしんして参ります……なんてね。えへ」

「……陰口は済んだか?」


 今は晴れ間もあるから、名実共に明るみでの悪口あっこう雑言ぞうごんだ。8組はここよりも日に差されるというし、そこにこの2人を連れていけば寡黙な奸佞かんねいに気づけるのだろうか。と、少しだけ苛立ちを呑み込んだような顔をしてみる。

 特別な物思いもあがないも何も要らないが、しかしながらこの性悪たちの表情は、妖しげなにやけ顔から一切の変化を見せない。恒久的に続く中のひとコマを切り取られた写真のようでもあった。

 いっそこれを今日の小景にしてやろうか。風景と呼ぶには些か風情が足りないか。目下もっか俺の双眸に映り込むこの2人が整っているものは、表面上の口前と容姿だけ。

 俺が発表するとすればやはり唐変木を昇華させたものであるからして、上手く2人を映えさせることは恐らくは──いや、何故俺が小景部の活動に思いを馳せているのかの解明は表彰台の裏側に一旦放り込んでおいて、スクープ記者も喧騒も去った後に細々と回収しよう。

 何よりも、柚生と顔を合わせてから随分と時間が経過してからそう思えたのは、腹をくくるに至るまでの勇気が、数十歩進むくらいでは見つからないから。数百歩進んでやっと見つけた。


 片付けるべきタスクを、先ずはひとつ。


「……はあ。すぅー……」

「こら千砂郎、エチケットがなっていないよ。年頃の女子の眼前で深呼吸なんてして見せて。千砂郎だって同じことをされたら気を悪くするだろうに」

「せんさろ君、どうかな。わたしの周りって、やっぱり空気がおいしかったりする?」


 それは、柚生おまえが否応なく押し付けられた千鈞のレッテルじゃないのか。

 遅効性の毒なんて昨今世に満ちている。扱いを習癖しゅうへきと自覚する前から服に染み込ませられていたから、そんな無意識の気苦労が柚生のカラフルネスを助長しているのではないか、という結論に至った。


 だからこそ。俺はそれを恐れない、なんて虚勢ひとつを張ってみる。


「ああ、きわめて美味しいさ。だが俺は、これよりも甘美かんびで陶然と浸れる空気を知っている。それは、俺が思ういちばんの絶佳と呼ぶに相応しい小景の話と地続きだ。……昨日は本当に、逃げ帰って悪かった。ごめん。分厚い面の皮を晒しながら言うのは実に情けないが、その空気や小景についてをお前たちに話したいと思うんだ。少しだけ付き合ってくれるか?」

「……ふふ。あは、あははは……」

「千砂郎がまさか、ここまで素直に真っ直ぐに……」

「……悪いな、流麗りゅうれいと宣えるだけの言葉なんて紡げないんだ。嘯くだけの度胸もない。だから、せめて俺は愚直になりたい。斜に構えていても、相手の斜に少しだけ角度を近づけたいと思ったんだ」


 心に張る、淀んで濁っただけの水潦すいろう

 そこに、ただの一度だけ、俺が目を奪われた小景の色味を垂らして端然たんぜんと丁寧に溶いていく。

 色づくことに対する忌避感きひかんを覆い隠すように。水面に1枚の白いコピー紙を浸ければ、ひとつ溶かれた色を写した、マーブリングを完遂できるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る