第12話 黒板の予告

 朝の教室は、まだ喉の奥に眠気を残してる。登校してすぐ、俺は黒板当番の続きで濡れた黒板消しを握り、窓を指一本ぶんだけ開けた。チョーク粉の乾いた匂いが、風に薄くほどける。


 端まで拭き切った――はずなのに。振り返ると黒板の右上に、細い白い線が一本だけ残っていた。昨日も一昨日も、同じ角度、同じ長さで。


「また出ていますね」


 声に肩が跳ねて振り向くと、佐久間が立っていた。片手には紅茶のペットボトル。冷たそうな水滴がラベルの端で光っている。


「消したぞ。俺、ちゃんとやった」


「やったからこそです。黒板は『次』を知っているんですね。整えるほど、未来が滲みます」


 佐久間はキャップをきゅっと回して一口飲んだ。甘い香りが一瞬だけ漂い、すぐ紙と粉の匂いに溶けた。


「未来って。黒板が予告するとか、飛びすぎだろ」


「飛びますね。でも宮下くん、その線、何に見えますか」


 俺は目を細める。斜めの一本。矢印にも、ただの傷にも見える。


「……理科の『斜線』っぽい」


「そうです。今日は一時間目が理科ですね。黒板が『予告』したんです」


 丁寧なのに言い切りだけ鋭い。俺の指先が、黒板消しの湿り気で少し冷えた。


「たまたまだ。傷とか、拭き癖とかだろ」


「原因は何でもいいです。大事なのは『納得の着地』ですね」


「着地って言えば何でも許されると思うなよ」


 佐久間は紅茶のボトルを俺の机の角に置いた。水滴が一つ落ちて、木目に小さな濃い点を作る。ぽつ、と静かな音がした。


「紅茶も同じです。振れば泡が先に上がって『これから甘い』って教えてくれます。黒板も、消される瞬間に次を映すんです」


「いや、紅茶は最初から甘いだろ」


「そうですね。だから、未来は最初からそこにあります」


 何その顔、って言い返す前に、俺は黒板の右上だけ消し方を変えてみた。いつもは端から真っすぐだが、今日は円を描くように。白い線はいったん消えた――と思ったのに、角度を変えると薄い線が、少しだけ別の位置に出ている。


「……動いた」


「言い直しましたね。黒板は素直です。宮下くんの手の動きを、ちゃんと追いかけます」


「黒板が俺に懐いてるみたいに言うな」


「懐いていますね。少なくとも、今朝は」


 チャイムが鳴り、教室に足音が増えた。椅子が擦れる音、カバンのファスナー、誰かのくしゃみ。朝の雑音が、黒板の白い一本線をやけに目立たせる。


「じゃあ次は何だよ。二時間目も当ててみろよ」


「もちろんです。宮下くんがもう一度丁寧に消せば、『次』が残ります」


「……当たんなかったら?」


「その時は、黒板が照れたことにします」


 照れる黒板って何だよ、と俺は呆れながら、もう一度だけ右上を拭った。白い線は薄れ、見えなくなる。……はずだった。


 直後、黒板の上から、すっと白い筋が一本だけ伸びた。さっきと同じ角度で。


「え」


 俺の声より先に、佐久間の机の角に置かれた紅茶のペットボトルから、水滴が転がり落ちた。黒板消しに残っていたチョーク粉の上を、その水滴が滑っていく。湿った跡が、斜めの白い線になって残る。


 俺は黒板とボトルを見比べた。佐久間は、当たり前みたいな顔で頷いた。


「ほら。黒板は『次』を知っていますね」


「いや、今のはお前の紅茶だろ。未来じゃなくて『水滴』だろ」


「水滴も未来の一部です。僕がここに立つと、だいたい落ちますからね」


「結局、黒板が予告してたのは――『佐久間の紅茶が机に置かれる』ってことかよ」


「そうです。毎朝の予定としては、かなり確度が高いですね」


 俺は黒板消しを持ったまま、笑うか怒るか迷って、どっちも中途半端に息が漏れた。チョーク粉の匂いに紅茶の甘さが混ざる。


 白い一本線は、もう理科の斜線には見えなかった。どう見ても、佐久間の朝だった。

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